桂子に致さる

 伊藤総裁が、露西亜へ行かれるにあたつて、留守中の政治的駆け引きについては、何らの注文もなく、全く白紙の訓令を与へられたから、私は侯の胸中を、
「自分が内地に居ては、桂内閣を倒す訳にも行かないが、自分の留守中なら、倒しても差し支へない。」
といふ意味に解釈した。私がいづれの内閣に対しても、常に攻撃的態度を取つてゐたことは、侯もよく承知の筈だ。もし桂内閣を助けたければ、その訓令を与へねばならぬ。黙つて出発されたのは、「留守中に倒せ」といふ意味だと私は解釈した。しかし、政友会を率ゐて桂内閣を攻めることは私にとつては随分無理な仕事である。星君は既に殺されたが、何分大多数は旧自由党の人達であつて、私が過去二十年間政敵として戦つて来た党派である。これを率ゐて伊藤侯の帰らぬ間に、桂内閣を倒してしまはねばならぬと思ひ、内閣成立後まだ半歳も経たぬ間に、私は総攻撃にとり掛かつた。
 第十六議会が始まると、政府は清国賠償金の一般会計繰り入れによる財政計画を立てたから、吾々はこれに反対し、私が議会に於いて三ケ條の攻撃的質問をなすと、曽祢大蔵大臣は、ろくな答弁は一つも出来なかつた。桂内閣の腰は砕けかけた。この一撃に勢ひを得て、ますます兵を進めると、桂首相は辞をひくくして、会見を申し込んで来た。実はこのところで、私は大いに戒慎せねばならない筈であつたが、第一戦に勝つて意気揚々たりし我々は、桂子の使者に対して、
「財政問題が相談の眼目であるが、曽祢蔵相の如き訳の分らぬ人間は、相手にならないから、協議の席に列しない方がよからう。又会見の場所も、こつちから官邸に行くことは厭だから、帝国ホテルになさい。」
と答へた。
 政府はすべて吾々の注文通りに応じて、明治三十四年十二月十九日帝国ホテルの一室で、いよいよ政府と談判を開いた。政府側からは桂首相と山本権兵衛海相が出席し、政友会からは松田正久君と私が出席したが、我々は一気に叩き付けるつもりで、傲然と構へてゐたに反し、桂首相はすこぶる穏順で、言葉も柔らかであつた。豎子くみし易しと高をくゝつて居ると、肝心のところに至つて、どうしても我々の要求に応じない。敵がさがつたと思つたのは、間違ひであつた。私は、{*1}
「辞ひくき者は進むなり。」
といふ孫子の兵法を忘れてゐたのであつた。しかし我々も初志をまげなかつたので、政府も無碍に絶対多数の野党を無視することも出来ず、井上馨伯に斡旋方を依頼したものと見え、伯は双方の代表者を招いて調停を試みられたが、肝心の桂子は病を口実に来会しなかつた。私はこの時初めて桂子の眼中には既に井上伯はないのだといふ事を悟つた。
 その内に、党内の者が本部に顔を出さないで、烏森の浜廼家に事務所を設けて、騒ぎ出した。この家は明治の初期には朝野の名流が常に出入りしてゐた所である。不思議に思つてゐると、これは政府が我々との交渉中に、手を廻して我が党の軟化に努めた結果、井上角五郎、田健治郎、坂東勘五郎、小川平吉、板倉中などといふ二三十名の議員が、政府に内応したのであつた。かうして足許を見透かされては、もう仕方がない。私はこんな連中を除名処分にして政府との交渉を継続したが、浜廼家組の頭数はますます増加するばかりで、始末が付かなくなつた。第一回の帝国ホテルでの会見に続き、総理大臣官邸でも、政府と協議したが、形勢はますます不利になつた。何しろ、首相官邸へ行くと、裏切り連中の代表者はこつちより先に、裏口から入つて、種々相談して居る始末なので、致し方なく不満足ながら政府と妥協した。なほその間に露西亜に居る伊藤侯からは、
「余り強く攻撃するな」との電報が来て困つた。これは伊東巳代治君が、
「尾崎が無理をし過ぎる」と伊藤侯に報告したためだと云ふ説もあつた。我々が伊藤侯に打つ電報は、井上侯の手を経て暗号で外務省から発送され、伊藤侯からの電報も、外務省の手を経たため、政府ではこれらの情報をスツカリ知つてゐたのだ。そんな訳で、戦ひは思ふ様に行かないから、不名誉を忍びながら、兵を収めて伊藤侯の帰朝を待つことにした。
 かうして私はくみし易しと侮つた桂子のために、かへつて惨々にやつ付けられ、政友会に於ける失敗の歴史の第一頁を作つた。

藤侯にも左様なら

 私は桂子に惨々な目に逢はされたが、ともかく隠忍自重、時期の到来を待つことにした。すると次の第十七議会に桂内閣は、特別地租増徴を永久税に振り替へる案と海軍拡張案とを提出した。私は政友会多数の意見をまとめて、海軍拡張案には賛成し、地租増徴案には反対する作戦計画を立てた。憲政本党もまた地租増徴に反対した。そこで伊藤、大隈両党首の提携成り、地租増徴を否決してしまつたから、桂子は十二月二十八日遂に議会の解散を断行した。桂子が後年しばしば人に向かつて、
「俺は伊藤、大隈の二大政治家を向かう{*2}に廻して一戦を試みた。」
と豪語したのはこの事を指すのである。この選挙はその頃の常例通り野党の勝利に帰した。桂首相は大いに困惑し、山県侯に調停を依頼して、伊藤侯に泣き付いた。すると伊藤侯はどう考へたものか、私らに相談もせず、地租問題を譲歩する内諾を与へた。私は、
「解散を賭してまで反対して来た問題を、容易に譲歩されては困る。あくまで戦はねばならぬ。」
と主張したが、侯と桂子との間には、いつの間にか完全に妥協が成立してゐた。妥協といふ言葉はこの時初めて流行し出したものである。しかし、これには伊藤侯も多少気になつたと見え、ある時、その申し訳のためでもあるか、小宴を開いて私などを招待し、妥協の顛末を話された。私は不満で堪らなかつたので、
「あゝいふ事をされては困る。我々の立場がなくなる。」
と率直に言つた。ところが侯はムツとして、
「言必ず信、行ひ必ず果、硜硜乎として小人なるかな、といふ言葉があるが、君は知つてゐるか。」
と逆襲して来た。その後紅葉館で党員の大懇親会を開いた時、望月小太郎君が、やはり侯の妥協ぶりを嘲弄したが、その時も侯は、望月君の席上演説が終はらぬ内に、憤然として、
「望月、ここへ来い。俺は白刃の間を出入して来た人間だ。貴様達のやうな小僧児に愚弄されて堪るか。短刀を持つて来い。決闘する。」
と大層な剣幕で怒鳴られた。その様子が余り可笑しかつたので、私は、紅葉館には芝居用の太刀も短刀もあるから、それを持つて来させたら、面白からうと思つて、望月君に手真似や目くばせで、私の意を知らせようとしたが、その時私は伊藤侯の近傍に坐つてゐたから、これを言語に発するわけには行かず、なかなか意が通せず、その内に望月君は謝つてしまつた。こんな 訳で私は何ら施す術もなく、そんな不都合な人とは一緒に居れないと思つて、政友会脱会を決意した。問題は小さい「地租増徴」に過ぎなかつたが、名分の立たないことは、政治家として恥づべきことゝ思つたのである。すると、伊藤侯は私を引き留めよう{*3}として、自ら長時間にわたつて口説いたり、侯の愛婿末松謙澄君を使ひに寄越して翻意を求めたりした。ことに末松君の如きは、
「実は甚だ失礼な申し分かも知れないが、この際脱党を思ひ止まつて下されば、貴下の終身の生活はお引き受けしたいと、伊藤も申して居る。」
といふやうな意味の話をして根気よく引き止めようとした。元来好意を持つての話であらうが、これを聞いて私は憤懣を禁じ得なかつた。
「ご厚意はありがたい。しかし、伊藤侯が左様な事で、私が政見を変へる人間だと思つてゐられるとすれば、甚だしい侮辱である。私は伊藤侯はもう少し人を見るの明があると信じて、事を共にしたのであつたが、さういふ人物であると知つては自分の不明もまたすこぶる慚愧に堪へない。」
と云ひ放ち、決然伊藤侯と袂を別つて、政友会を脱した。この時片岡健吉君も、
「君がゐなければ望みがない。」
と云うて{*4}脱会され、続いて三十人ばかり一緒に脱会した。これで政友会は非常な打撃を受けた。
 桂首相は伊藤侯との妥協によつて、政友会を懐柔し、第十八議会はどうやら切り抜けたが、伊藤侯が政党の総裁としては政府を威嚇し、又元老の一人としては政府の施政方針に容喙する事を以て不当となし、山県侯に斡旋方を乞うた{*5}。しかるに伊藤侯は、
「元老は乃公多年の勲功に対する御上の御思し召しであつて、党首は憲政有終の美をなす使命であるから毫も差し支へない。」
と言つて、相変らず両刀使ひを改めなかつた。桂子はしからば是非に及ばないとて、辞意を表明したが、山県、松方の両元老は最後の手段を執つて、伊藤侯を枢府議長に祭り込み、桂子を慰撫して留任せしめた。
 伊藤侯が爵位までも辞退しようと決心して、政党を組織しながら、この際に及んで、枢府議長に復帰したのについては、私らの知り得ない理由、即ち御上の御思し召しか、何か万やむを得ざる理由があつたに違ひない。しかし、侯が政党駕御の困難に当惑し、内心ひそかにいや気を生じてゐた事も多分一つの理由であつたらう。特に私の脱党に対しては、侯の平生に似合はず、シツコク苦留したにも拘らず、私が脱党してしまつたのは、侯をして政党に断念せしむる一原因となりはしなかつたかと、思はれる節もあつた。
 話はいさゝか前に戻るが、伊藤侯が露都に行つて朝鮮問題で種々折衝中、日英同盟といふ全く侯{*6}の意中とは正反対な話が起こつて、しかもそれが大分進んで来た。そこで日露親近か、日英同盟かが、問題となつたが、桂総理と時の外務大臣小村寿太郎君は、日露接近よりもむしろ日英同盟がよろしいと主張した。私は日英同盟は日露開戦の前提であるから、国家のために不利益と力説したけれど、力が足らず、これを阻止し得なかつた。従つて伊藤侯は露西亜に留まる訳には行かず、伯林へ夜逃げをされた。
 伊藤侯は露都行きを決意すると同時に、その目的を内奏し、桂、小村の両君とも打ち合はせずみであつた事はもちろんだ。しかるにこんな結末になつたのは、藤侯の露都行きを英国政府がいち早く探知し、時の属領大臣チエムバーレン氏が、その裏を掻かんと、俄かに日英同盟を提議したからとも謂はれ、又小村外相が藤侯を利用して、日英同盟の道具に使つたとも噂されてゐた。ともかく伊藤侯はこれがため非常な窮境に陥つたが、桂子は晩年この当時を回想して、
「一生涯にこんな嬉しいことはなかつた。」
としばしば人に語られたほど得意であつた。 明治天皇陛下は、藤侯の意見を排して、断然桂子の日英同盟案を御嘉納あらせられたからだ。日英同盟條約成立のため、我が国の閣僚はことごとく叙爵され、従来の授爵者は、いづれも一爵づゝ昇せられた。英国の方にはこの功によつて叙爵された者は一人もなかつたのはもちろんだ。今から思ふと、表彰された御当人でも、少しは恥づかしいやうな気がするだらう。

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校訂者注
 1:底本、ここに読点はない。
 2:底本は、「向ふ」。
 3:底本は、「引き留めやう」。
 4:底本は、「云ふて」。
 5:底本は、「乞ふた」。
 6:底本は、「公」。