迂闊に乗つた市長の椅子

 伊藤侯と意見を異にし政友会を脱退した私は、その頃宿痾の神経衰弱がよほど強くなつてゐたから、いづれの党派にも属せず、しばらく静養しよう{*1}と思つてゐた。すると、旧友の丸山政名(進歩党)、中鉢美昭(政友会)の両君より突然東京市長に就任せよとの勧誘を受けた。私は東京市が府と分離せぬ前に、府会の常置員として少し計り市に関係したこともあつたが、その後は何ら関係もなく、また興味も持つてゐなかつた。あまつさへ、身体の具合も良くなかつたので、これを辞退したけれど、両君は、
「市の実務は、及ばずながら吾々両人が、助役となつてすべて処理する。たゞ市長の名さへ貸してもらつて、一週間に二三度参事会に出席してくれゝばよい。」
と切に望まれた。自分は無思慮にもその口車に乗り、病気静養にはこの上もなく都合のよい閑職と考へてウツカリ承諾した。後から考へると、実に軽卒の至りであつた。
 縁もゆかりもない私が、どうして市長に担がれたかといふと、それは死んだ星亨君の残党達の仕事であつた。前にも述べた如く、星君は何とかして私と提携したいと希望し、常にこれを子分達{*2}に話して居つたものと見え、彼の死後星派の人々は、私に好意を寄せてゐた。例の乱暴者川上行義氏もその一人で、この人は死ぬまで私のために働いてくれた。しかし、初めは不思議に思つたから、
「どうして君達は、流儀違ひの私のところへ来るのか。冗談であらう。」
ときいた。すると川上氏は、
「いや、冗談ではない。吾々は本気だ。自分達の親分星は賄賂をとるやうな汚い男ではない。吾々は星の醜名を雪がねばならぬ、それには正反対に金銭の汚れがないと謂はれてゐる貴下の門に走るのが、一番得策だと思ふ。また星は晩年愕堂と一緒にやるのが、一番よいと言つて居つたから、かたがた吾々は貴下を市長に推すのである。」
と答へた。
 かうして星派の市会議員が、中立派と合体して、ほとんど満場一致で、私を市長に推薦してくれたから、私は明治三十六年六月二十九日、第二代目の市長となつた。のんきに静養しよう{*3}と思つて、市役所に出勤すると、これは意外! 種々雑多な仕事を持つて来て、一々市長の決済を待つてゐた。これは当然のことであつたが、思慮なき私にとつては、はなはだ意外であつた。私を市長にする運動には、無関係のやうだつたが、参事会員には旧友の大石正巳、大岡育造、神鞭友常、江原素六、奥田義人、渡瀬寅次郎の諸君が居た。なかんづく大石君とは兄弟にも等しい間柄であつたから、私が市長となつた以上は、必ずたすけてくれるだらうと思つてゐた。しかるに参事会に出席して見ると、材木の値段がいくらとか、割栗道路の坪あたりが何円だとか、私の全く知らないことが問題となり、野々山幸吉君など、専門的知識を振りかざし、私に迫つて来る。それを受け止めるだけでは、「ものを知らない市長さん」といふ非難を逃れることが出来ない。
 私はこの時ぐらゐ、「知識は勢力の基である」といふ西洋の諺を、身にしみじみと、感じさせられたことはなかつた。かやうな時こそ、大石君や神鞭君が、助太刀してくれるだらうと、心ひそかに期待してゐたが、これまた意外! 助太刀どころか、かへつて私をいぢめる側に立つた。余り馬鹿々々しいから、辞職しようかとも思つたが、一事もなさず引きさがつては、天下の物笑ひになるのがいまいましさに、愚図々々してゐたら、参事会が先手を打つて、市長不信任の決議をした。かうなると、辞職したくても出来なくなり、むしろその反対に、力の及ぶ限り対抗し、決戦しよう{*4}との意気に燃えた。
 私が辞職しないものだから、参事会の連中は、石や、材木や、ドブさらひの値段などを質問して、徹頭徹尾私をいぢめ抜き、種々の追ひ出し策を講じた挙句、市長に委せてある委任事項を取り上げに掛かつた。私は喜んでこれに応じた。
 当時の参事会は、決議機関でなく、執行機関であつた。市長は参事会の決議を行ふだけの役人で、何らの職権もなかつた。法律の上では、小使ひ一人の任免も、物品一個の買ひ上げも、ことごとく参事会の職権であつた。たゞ参事会の委任で、ある程度の人事異動と、ある値段以下の物品買ひ入れだけを、市長がつかさどつてゐた。こんな委任事項を取り上げられたところで、別に大した影響もないから、喜んで全部返上してしまつた。実はさうした{*5}ならば参事会は、事務の煩雑に堪へず、困るに違ひないと、心中ひそかに期するところがあつたからだ。これが敵の攻撃に対する私の逆襲でもあつた。
 果たせるかな、煩雑きはまりなき毎日の仕事は、ことごとく参事会の決議を必要とするので、参事会開会の度数はふえた。彼らはたちまち困却して、遂に些細な事項だけを、再び市長に委任しよう{*6}とした。私はからかひ半分に、これを拒絶したが、結局以前よりも、市長の権限を拡張して、委任され、この児戯に等しい喧嘩騒ぎは収まつたが、しかしその後も、他の方法で、私をイビリ出さうといふ手段が、依然継続された。
 この時私が最も驚いたのは、意外な方面から、市長擁護の運動が起こつて来た一事である。当時浅草公園で写真屋をして居た江崎礼二といふ人が、私の擁護者となつて陣頭に現はれた。この人は既に亡くなつたが、その頃すこぶる元気で久しく市政に関係して居つた有力者の一人である。この人が参事会に詰問書を提出した。その趣旨は、
「元来市長は市会の選挙したもので、参事会員もまた市会に選挙されたものだ。しかるに参事会員が、市会の意向をも確かめず、ほしいまゝに市長に辞職を勧告したり、不信任の決議をしたりするのは、市政のいかなる條項に準拠したのか。」
と云ふに在つた。無論準拠すべき明文はない。
「もしその説明が出来ないならば、参事会員は市会に対し謝罪するか、さもなくば辞職して越権の申し開きをすべし。」
と鋭く斬り込んだ。これには大石、大岡、その他の参事会員もことごとく当惑したやうだ。そこで大石、神鞭、その他の人々は、嫌気がさしたものと見え、辞職したが、大岡君は内々市会に謝罪して留任した。この時、市長の委任事項は従前よりも拡張せられたのである。
 この江崎一派が、突然かやうな市長擁護運動をなしたのは、実は敵は本能寺に在つて、自分が参事会員を狙つてゐたからであつた。その目的は見事に成功し、若干の参事会員の辞職に伴ひ、江崎氏らは、その補欠に選挙された。

第一着に市区改正

 こんな風に就任早々うちわ喧嘩を始めた{*7}から、そのため時間と頭脳を費やし、市長の仕事は、ろくろく出来ず神経衰弱が重るばかりであつたが、時の経つに従つて私に好意を寄せてくれるものも、かなり出来て、十年近く在職した。その間に少しは東京市の仕事も出来たから、思ひ出すままゝに述べて見よう{*8}。
 東京市の市区改正は、多年の問題であつたが、従来は姑息なやり方で、火災後の場所だけ、市区改正をするくらゐであつた。これでは金はかゝらないが、徒らに多くの年月を要する。当時の市中で京橋と新橋間は、明治初年の大火の時、煉瓦造りに改められ、まづ模範的市街として、道路も広く、屋並みも正しく改正されてゐたが、その続きで、一層繁華な京橋と万世橋間は旧態依然、徳川時代のまゝであつた。その雑踏はいよいよ甚だしく、人馬の怪我がすこぶる多かつたので、一日も早く市区を改正する必要があつた。そこで、
「なぜ改正しないか。」と尋ねると、
「地価が高過ぎて、これを買ひ上げることが出来ない。」
と云ふ。何でも地価は坪あたり二三百円との話。私は高いどころか、やす過ぎる。今の内に早く改正する方が、多大な利益であると考へた。そこで確か一千五百万円の外債を募り、この金で市区改正を行ふ案を立てた。まづ最も地価の高いと言はれる場所を第一に改正し、続いてその他に及ぶべく、ひと通り全市の改正に着手することにした。
 さて実際の仕事を始めて{*9}見ると、京橋万世橋間の如きは、予定の経費よりもやすく出来上がつて、予算が大分余つたやうに記憶してゐる。しかも市区改正後は百円で買ひ上げた土地が、八百円程に騰貴した。それまでは私に好意を示さなかつた角田真平君が、この時から態度を変へて、好意を表するやうになつた。この時私は彼の事務的才幹を認め、市区改正局長に任じて、この事業に当たらせたが、痒いところに手の届くやうによく働いてくれた。
 角田君は、沼間門下の俊才で、改進党組織時代から、我々東洋議政会と対立して居つた鴎鳴会の一員であつた。少年の頃から俳句が好きで、竹冷宗匠の名を謳はれてゐた。それに、格別の艶聞家で、新柳二橋を初めとして、各所の花柳界では、大モテとの評判が高かつた。私はその模様を研究するため、彼と会飲した事もあつた。いかにも名声虚伝ならず、芸妓酌婦の中には、意を角田に寄せるものが、甚だ多いやうに見受けた。しかして彼が婦女子の歓心を買ひ、これを恍惚たらしむる手段を見るに、いかにも浅薄軽佻で、人をして嘔吐の気を催さしむるものが多かつた。私は当時、花柳会の婦女子の低級なるに驚くとともに、いはゆる風流男子なる者の、取るに足らざることを悟つた。尤もこれは市長時代の経験でなく、国会開設以前の話である。
 ついでにこゝで外債の話をして見よう{*10}。
 私は子供の時から貧乏で、金を借りることにかけては、相当の経験を持つてゐるが、それは自分のための私債であるから、金利の高いぐらゐの事には頓着しなかつた。しかし東京市の借金になると、左様な訳には行かない。出来る限り低利の金を借らねばならぬ。借金博士を以て任じてゐた私も、外債の募集については、色々面倒なことが起こつて、当惑した。何分一千万円以上の借金であるから、利息が一分違つても、何十万円といふ金額の差を生ずる。それに中間に立つて、募集の世話をしよう{*11}と云ふものが、内外人の中から起こり、これらが種々策動した結果、意外の面倒が起こつて、一時は失敗するかと思ふほどの困難に陥つたが、遂にどうかかうか出来上がつた。ところが市会で、
「千五百万円も外債を募れば、何十万円かのコンミツシヨンがある筈だ。市長はそれをどうしたか。」
と質問する議員があつた。私はこれに対してびつくりすると同時に、憤怒もした。甚だ無礼な質問と考へたので、厳然声色を正して、
「余の政界に馳駆することほとんど三十年、未だかつてかくの如き不愉快な質問を受けたことはない。余はコンミツシヨンの何物たるを知らない。随つて左様なものが来るか来ないか、さらに見当がつかない。多分一銭一厘も来ないものと信じてゐるが、もし何十万円か来たならば、斯道の達人たる質問者にご相談の上、その処分法を決定しませう。」
と答へた。さすがに質問者も赤面したやうであつた。
 私の在職中になほ一億円程の外債を募集したことがある。これは前回の面倒に鑑みて、募集その他一切の仕事を、大蔵省に一任した。それで仲介者間の競争及び妨碍もなく、又コンミツシヨン問題も起こらず、円滑に運んだ。なぜ大蔵省が世話したかと言ふと、当時正貨準備がだんだん減つて、兌換制度の基礎が危殆に瀕してゐたからであつた。もし一億円の正金が這入れば、政府も一時安心が出来るに違ひない。私はこの状勢を察して、従来政府が好意を示してゐなかつた電車買収問題を外債による資金で解決せんと試み、見事成功したのであつた。
 外債について思ひ出すのは、先代安田善次郎君の事である。巨額の金を受け取つた後、僅かの日数でも、その保管方法を誤れば、たちまち数十万円の損となる。素人たる私は、種々苦心した揚句、初代の安田善次郎君を訪問して、その処置法を尋ねたが、これに対し、極めて簡単明瞭なる答弁を得て大いに感心した。一代にして巨富を作つたのも偶然ではないと思つた。

東京市長時代

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校訂者注
 1・3・4・6・11:底本は、「しやう」。
 2:底本は、「乾分達(こぶんたち)」。
 5:底本は、「そうした」。
 7・9:底本は、「初め」。
 8・10:底本は、「見やう」。