在職中の思ひ出話

 次に市長在職中の思ひ出を二三書くことにしよう{*1}。
 日露の役に赫々の武勲を立てた東郷大将の歓迎会は、各所に開催され、私は市長としていつもその席に列したが、未だに{*2}大将の印象がハツキリと刻まれてゐる。大将はどんな宴席に着かれても、「俺が東郷だ」といふ顔はされず、いつも首を少し下げ、黙々として卓上の挿花をぢつと眺めて居られた。その態度は実に謹直そのもので、凱旋将軍と云つた誇らしさをどこにも見出し得なかつた。

東郷凱旋歓迎会

 大将の歓迎会に絡んで面白い後日譚がある。東京市主催の歓迎会に際し、市会は往昔家康が陣中に用ゐた{*3}胡床を二個模造し、その一つを東郷大将の椅子とし、残り一つを私の室に置いた。その後米国大統領に三度立候補して三度落選したブライアン氏が、国務長官に就任する前来朝し、私を訪問した時、私は、
「この腰掛けを使用すると必ず大統領に当選する。」
と戯れながら、これを贈つたが、彼は喜んで米国に持ち帰つた。先年アメリカに行つて、ブライアン氏の故郷を訪ねて見ると、彼は既に他界してゐたけれど、故郷の博物館にはその胡床が、「東郷大将よりの寄附品」との説明で陳列されてゐた。
 ブース大将の来朝も当時の思ひ出である。元来今日云ふ救世軍はもと済世軍と訳されてゐた。私はこの名称が妥当でないと考へ、救世軍と訂正してやつた。ブース大将は、これを聞いて非常に喜ばれ、私に感謝の意を表された。来朝当時しばしばその演説を聞いたが、実に驚くべき魔力を持ち、何人といへども感動させずにはおかなかつた。私も幾度か胸を打たれ、すこぶる感銘深きもののあつたことを覚えてゐる。

ブース将軍

 キツチナー元帥も市長当時歓迎した人である。私が明治二十一年頃初めて英国に行つたときから、既にその名は高く、独身者で立派な人格の将軍と聞いてゐた。ところが東京市の歓迎会を芝の紅葉館に開き、元帥を接待した時、私は初めて「世事には驚くほど迂遠な人である」ことを知つた。と云ふのは、その歓迎会に侍つた妙齢の給仕人に対して、一々、
「お前は大演習に行つたか。」
と聞かれた。元帥は、英国皇帝の特命により、我が大演習に参列するため、来朝したのであつた。右の宴会は大演習後間もなく開かれたので、元帥の脳中には、大演習以外に何物もなかつたやうだ。私は主人役で元帥と並んで座つてゐたが、元帥は非常にいかめしい容貌の持ち主である上に、少女らに向かつて只、「大演習に行つたか」と問はれるだけで、他に何らの話柄もない。又私も少女らに好かれる方でないから、主客二人の前には自然少女らが来ないやうになつた。すると元帥は、
「あの娘達はなぜこゝには来ないのか。」
と問はれた。私は、
「閣下は女嫌ひと承つてゐるから、用事以外には来ないやうに云ひ付けて置いた。」
と戯れた。元帥は、
「あゝいふ女なら嫌ひでもない。」
と真面目な顔付きで答へた。こんな風であるから、私は、「元帥が女嫌ひであるのではなく、女が、元帥嫌ひなのであらう」と思つた。

キチナー元帥歓迎会

 私が少年時代から二十余年間、辛苦を共にした糟糠の妻を失つたのもその頃であつた。
 先妻は長崎市田中孫兵衛氏の娘で、繁子と云ひ、その東京に留学してゐた時、私はこれと結婚して新潟へ同伴した。この田中家は明治維新前後までは、長崎市で相当の位置を占めて居て、当時の主人が、客を好んだため、薩長の有志者にして、その家に留宿したものが、前後数十名の多きに及び、その内には著名の人物となつたものも、かなり多くあつたさうだ{*4}。
 明治十四年に、私が新潟より帰京して、官吏となり政党員となつてからは、貧困な家庭に常に一二名の書生を置き、多い時は五六名に及んだ事もある。その上に弟や妹を、私の手もとで育てたから、妻の苦心は、非常なものであつたに違ひない。しかるに無思慮、無頓着な私は、ろくろく米塩費も与へず、常に四方を奔走してゐた。今から思へば、実に気の毒の至りである。それらの辛苦艱難のためでもあつたらうか、妻は結婚後十年余り経て、肺病に罹つた。昵懇な医師は、私に別居を勧めたが、私はその忠告を容れず、運命と諦めてその死亡するまで十余年間同居した。妻は、私に伝染させまいと考へて、器物飲食等に深甚の注意を払つてくれたが、私は妻の神経を刺戟し、そのため病気を重らせては済まないと思つて、なるだけ無頓着の様子を装つて、仲よく同棲したが、病気はだんだん重くなり、私の東京市長在職中に、遂に死亡した。

繁子夫人2

 これは私にとつては、非常の打撃であつたが、いつまでも独身生活をつゞけるわけにも行かないから、一両年を経て、今度は純然たる英国育ちの婦人を迎へて、後妻とした。これが先年ロンドンで客死した英子テヲドラである。

英子結婚

 英子の父は、尾崎三良男であるが、男爵は一時は井上毅子と並び称され、伊藤門下の逸材と云はれたが、いつも私共をいぢめるための法律を作つてゐたから、私は政敵として疾くにその名を知つてゐた。男爵が英国留学中、その教師ウヰリアム・モリソン氏の令嬢と結婚して挙げたのが、後に私の妻となつた英子である。このモリソン氏は、支那における布教事業と、その著述によつて、名を知られたアレキサンダー・モリソン博士の弟で、大の親日家であつた。明治の初期において、英国に留学した人は、私の義父三良男を始め、井上馨伯、末松謙澄子など、皆この人について学んだのださうだ{*5}。
 三良男と英国夫人の間には、三人の児供まで出来たにも拘らず夫婦の間柄は、とかく睦ましからず、遂に離縁した。児供ら三人は英国に残つて、母方に養はれてゐたが、英子は十七、八歳の頃、父を頼つて来朝した。しかし風俗習慣等の相違から、父の家に居ることを好まず、独立別居して慶応義塾幼稚舎の英語教師その他家庭教師などをしてゐた。その内に英国公使フレーザー夫人に知られて、その愛撫を受け、後には夫人の秘書となつて、各国を漫遊し、伊太利には夫人と共に二年余りも住んでゐた。フレーザー夫人は米国著名の文豪マリヲン・クロウフヲドの令妹で、夫人自身も文筆に長じ、色々な著述がある。クロウフヲド氏は、平生は本国に居らず、伊太利の古城に住居して、小説を書いてゐた。公使たりしその夫君の死後フレーザー夫人は英子を伴つてしばらく令兄の古城に同居してゐた頃、冬の長夜の徒然に英子をして日本の昔話などをさせた。共にこれを聞いてゐたクロウフヲド文豪は、
「貴女の話し方はそのまゝで立派な文章になる。書いて見たらよからう。」
と云つて、しきりに勧めるものだから、彼女も初めて{*6}著述の志を起こし、数種の書物を出版した。その書物は今でも多少欧米人に読まれてゐる。
 妻の父三良男は児供の頃から、文筆に長じた秀才であつたため、明治の初めに政府から英国に留学を命ぜられた。また妻の母方の曽祖父にはかなり名の聞こえたモリソン博士があつたから、いづれの血統から見ても、妻に多少の文才は有つてもよい筈だ。その上フレーザー夫人やクロウフヲド文豪の感化を受けたのだから、晩年には文筆に親しむを以て、無二の娯楽としてゐたが、不幸にして難病に罹り、各種の原稿を、未完の儘に残して逝去した。残念な次第である。
 私が今日でもなほ嬉しく思つてゐるのは、妻が私の食物に注意してくれたことである。そのお蔭で、生来病弱の私も今日の健康を保持してゐるらしい。しかし何分にも妻は英国に生まれ、英国で育つただけに、習慣の相違から、互に困つた事も数々あつた。今一例を挙げれば、英吉利の皇族コンノート殿下がご来朝になつた時の如きは、私は市長として殿下を午餐会にご招待申し上げた。市長が招待する以上、妻は主人として殿下と手を組んで、食卓に付くのが、普通の礼式であるが、当時の市会議員や参事会員には、そんなことは分からない。故に某親王の妃殿下にお願ひして、コンノート殿下のお相手になつていたゞいた。これがため妻は多大な侮辱を受けたやうに思つて、煩悶した事があつた。

昭和 テヲドラ夫人と

 いつ頃であつたか、確かな月日は覚えないが、やはり市長時代に、石川啄木といふ少年が、私を訪ねて来たことがある。未知の人ではあり、別に紹介状を持つて来たのでもなかつたが、面会すると、「尾崎先生に捧げる」といふ歌稿を示した。恥づかしい事にその頃私は歌について全然無趣味無理解で、石川啄木がどれだけの詩才を持つてゐたかわからなかつた。何でも歌などを作らないで、モツト有用な学問を勉強せよと小言を云つて帰した。それから幾年かたつて、自分が市長をやめた頃、朝日新聞紙上で「天才歌人、薄命の歌人石川啄木」といふ記事を見た。今から考へると、自分はあれだけの天才歌人に接しながら、なぜもう少し親切に待遇しなかつたかと後悔の念が浮かむ。
 しかし、それも無理ないことで、私は少年時代に、漢詩は少し作つた事もあるが、国歌は到底分からないもの、企て及ぶべからざるものと諦めてゐたのであつた。ところがその後 明治天皇の御製を拝読すると、私らにも分る。誠心誠意を基準とした天籟の如く感じた。こゝにおいて私も初めて{*7}詠歌の念を起こし、爾来漢詩をやめて、国歌を作ることにした。申すも恐れ多いが、全く 明治天皇のお蔭である。従つて私の歌には別に流義はない。強ひて云へば、頼朝流とでも云ふのであらう。私は先年富士の裾野に行き白糸の滝を見ると、そこに頼朝の歌があつた。まづくて理屈つぽいところが、私の歌によく似てゐるから爾来さう思つてゐる。

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校訂者注
 1:底本は、「しやう」。
 2:底本は、「今だに」。
 3:底本は、「用ひた」。
 4・5:底本は、「そうだ」。
 6・7:底本は、「始めて」。