その頃の政治行動
市長在職十年間は、市政の上に多少の業績を残したが、その他の政治問題にはほとんど関係なく、唯僅かに議員に列して議会に出席して居ただけであつたから、「愕堂健在なりや」などとも云はれた。しかしその間面白い問題として、私の多少関係したのに衆議院議長河野広中君の内閣弾劾奉答決議文がある。
伊藤総裁と意見が合はず、政友会を脱党した私は、有志を集めて同志研究会といふ小団体を造つた。会員は僅かに十九名に過ぎなかつたが、加藤高明、奥田義人、小川平吉、望月小太郎、望月圭介、秋山定輔などの錚々たる人物が揃つて居た。折柄桂内閣は政友会を丸め込んで、杜撰な行財政を強行せんとし、かつ切迫せる日露交渉にも見るべきものがなかつたから、人心は漸く政府にあきたらず、非難の声を挙げるに至つた。我々はその急先鋒となつて、政府攻撃に当たつた。ことに日露関係の悪化は、国民の憂慮するところであつた。日英同盟は日露戦争を前提とするものであるから、私は出来る限り避くべきであるとは思つたが、一旦成立した以上は、日露開戦によつて帝国が蒙るべき損害を最少限度に喰ひ止めるべき方策がなければならない。ところが露西亜は日英同盟成るを見るや、ますます言を左右にして交渉を延ばし、軍備を盛んに整へ、非友誼的、侵略的態度を公然示してゐるに拘らず、我が当局の寛容は、実に驚くべきものがあつた。国難を眼前に控へながら、その優柔不断なるに呆れた我々は、桂内閣ではとてもこれを有利に乗り切ることは出来まいから、どうかしなければならぬと考へた。
その時秋山定輔君の発案で、小川平吉君がこれに和し、開会劈頭の 勅語に対する奉答文中に内閣弾劾の意味を加へようと云ふ相談が起こつた。奇抜な考案ではあるが、普通の手続きでは実行の見込みが立たない。議長河野広中君に相談したが、容易にまとまらなかつたものと見え、遂に私のところに持つて来た。後から考へれば、つまらないイタヅラ事であつたが、私は仔細を聞いて、
「そりや面白い計画だ。やつたらよからう。これが成功すれば、解散か、総辞職か、二者その一を出るに相違ない。いづれに帰着しても、非常な刺戟を政府及び国民に与へ、すこぶる有意義の結果を生むに相違ない。」
と賛成した。それから、
「河野君はグヅグヅした人のやうに見えるが、大事に臨んではすこぶる果断力を示し、かつ驚くばかりの俊敏な働きをなす事があるからよからう。」
と云つた。そこで我々の意見を伝へて、さらに河野君の決意を促すと、彼は、「尾崎が賛成した」と云ふので、漸く腹が決まり、弾劾上奏文の大芝居を打つ事となつた。
河野君は漸く納得したが、あとにはいかに当日の議場でうまくやるかの問題が残つてゐる。議長の奉答文朗読が要点に達した時に、猛烈な拍手を以て賛意を表すより外に方法がない。又異議を唱へさうな議員は出来るだけ同志で注意しよう{*2}と云ふ事になつた。その頃は奉答文は議長の手もとでする慣例になつて居たから、河野君は書記官をして恒例通りの奉答文を起草せしめ、自分は別な秘密の申し合はせ通り弾劾の字句を加入した奉答文を懐中して、議長席に就いた。
第十九議会の開院式は、明治三十六年十二月十日に行はれた。多少の危惧を以て眺めてゐると、河野議長は悠揚迫らず議事を進め、やがて自製奉答文を朗読した。
恭しく惟ふに
車駕親臨してこゝに第十九回帝国議会開院の盛式を挙げ優渥なる 聖詔を賜ふ臣ら感激の至りに堪へず今や国運の興隆洵に千載の一遇なるにあたつて閣臣の施設これに伴はず内政は弥縫を事とし外交は機宜を失し臣らをして憂虞措く能はざらしむ仰ぎ願はくは 聖鑑を垂れ給はんことを臣ら協賛の任に在り慎重審議を以て上
陛下の 聖旨に答へ奉り下国民の委託に酬はんことを期す衆議院議長臣河野広中誠恐誠惶謹んで奏す
音吐朗々として、議場の四辺に響き渡るばかり読みあげた。議員一同はこれを恒例の奉答文と信じて深く意を払ふものなく、いつもの通り拍手を送つて賛成した。河野議長が「異議なきや」と確かめたに対しても満場は拍手を以て答へた。しかしその中にさすが俊敏の聞こえ高き望月小太郎君は、変な奉答文と気付いたものか、「議長」を連呼し、質問を発しよう{*3}としたけれど、議長はこれを制止し、ものゝ見事に議事を終了してしまつた。この時ばかりは私も日頃の河野君に似合はぬ堂々たる芝居ぶりに一驚を喫した。この大芝居は、九代目団十郎と左団次の勧進帳に優るとも劣らぬ出来栄えと感服した。
この弾劾的奉答文は、上奏されない内に、議会の解散となつて目的を達する事が出来なかつたが、間接には政府当局鞭撻の具となつて、ほぼほぼ我々の希望は達せられたと云つてよからう。世間では私を発頭人の如く云ひふらし、中には、「奉答文の草案が市役所の用箋に書いてあつた」などと、真実らしく噂するものもあつたが、実は秋山君らが私のところに相談に来られた時には、その草案は既に出来てゐたので、私は僅かに字句を訂正した程度である。かやうな訳で、私とこの問題との関係は極めて薄い方で、余り深入りはしてゐなかつた。しかしもしこの時私が賛成しなかつたら、河野君はあの決意をしなかつたかも知れない。さう{*4}考へると私はつまらない罪作りをした事になる。
二度目の欧米巡遊
東京市長時代の私の政治的行動については、別に取り立てゝ云ふ程のことはない。河野議長の弾劾上奏案も市長にならぬ前からの仕事の続きだつたとも云へる。その他では明治四十二年十二月二十日、私がかつて脱党した政友会に再び入会したことぐらゐなものであらう。これとても強ひて理屈をつければ、貴族院の勢力に対抗するため、衆議院の勢力を強大ならしめる必要を感じ、これがために政党勢力を大ならしめんとする方途に出たものとでも云ふ事が出来よう{*5}。しかし、私は二十年来進退共に名義を求めて政治的行動をなして来たけれど、この数年前よりその主義を改めて無名義で進退しようと考へ方を変へたので、今度の政友会入会も何ら名義と称すべきものもなく、又一の條件もつけなかつた。それはあたかも昔日一度は客として宿泊した政友会てふ旅館に再び宿泊して、宿帳に姓名を記したるまでに過ぎないから、政友会にしても新たに尾崎といふ一頭数を加へただけのことであつた。
こんな訳で、私はいつも新聞上の評判を求めず、これを自然に放任するから、世間の評判はすこぶる悪かつた。多くの新聞は「愕堂死せり」などゝ書いて軽蔑した。かう{*6}なると世間の人気は全くなくなり、私をば相手にしなくなる。ある時、東京市長時代の末頃であつたと思ふが、誰かに頼まれて、青年会館で演説すると、聴衆も甚だ少なかつたが、私が演壇に登ると、未だ口をも開かない内に、「簡単簡単」と呼ぶ者があつた。私は従来そんな待遇を受けた事がないから、びつくりした。
これは政治的行動と云ふべきほどのものではないが、明治四十三年に私は一代議士としてベルギーに開かれた万国議員会議に出席した。これまでも有志代議士が、出席したことはあつたが、我が衆議院が正式に代表を派遣したのは、この時が初めてゞあらう。五月十一日に東京を出発して敦賀から海路浦潮に渡り、シベリヤ鉄道の物倦いばかり単調な汽車旅行を味はつて、モスコー、セント・ペテルスブルグを訪れると、まづ目を驚かすものは宮殿であつた。さすがに専制国の宮殿だけあつて、実に金璧燦爛驚くべき壮麗なものであつたが、それよりもなほ驚いたのは、宮殿が一般公衆に開放され、地方から出て来た百姓などにも、すべて参観を許す。中には赤毛布どころでない、モツト汚い荷物などを提げた乞食かと怪しまるゝ者さへ、宮殿内の巡覧を許されてゐる一事であつた。これは一方において帝室の尊厳を示し、一方には、臣民をして帝室を愛敬せしむるためであらうが、露国の如き専制国としては、随分思ひ切つたやり方だと思つた。そんな訳であるから、皇帝が謁見を賜る場合も至つてお手軽である。
私も露国皇帝に謁見を許された。私が謁見したのは、質素な離宮の一室であつたが、あの荘厳な宮殿から推して、謁見も定めし非常な儀式張つたものであらうと思つて行つた。しかるに玄関を入ると侍従武官が出て来て案内してくれ、ある室の前へ行くと扉を開けて入れるやうにし、自分は室外に立つてゐた。私はそこでこれは待合室であらうかと思つて、何気なく、すつと入ると、意外にも陛下が、ちやんとおいでになる。陛下の御室と知つたら、無論入口で敬礼するのであつたが、いかにも簡単なのに驚いた。室内には陛下と私と二人限りで、私が入ると、武官はすぐに外から戸を閉めてしまつた。それから十五分間ばかり差し向かひで親しくお話があつた。
それから英国に行つてやはり皇帝に謁見を許されたが、その時思つた。専制国の露国でさへ、あれ程お手軽であつたから、平民的を以て鳴る英国では、どんなであらうと。しかるに英国では謁見室で加藤大使と一緒に拝謁を許され、その場に侍従が二、三人ほど陪席してゐたやうに思ふが、皇帝陛下はニコニコしてすぐに握手され色々のおはなしがあつた。ご様子と云ひ、おはなしぶりと云ひ、人をして春風駘蕩の中にあるやうな気持ちをさせた。
今度の旅行は主として欧米の山紫水明の地を訪ねて、いささか平生の俗務に掩はれたる心の塵を洗はうと思つてゐたから、欧洲大陸も処々方々を巡覧して見たが、諸般の制度文物は、私が二十余年前逐客となつて、遊んだ頃に比べると、随分変つてゐた。もちろん自分でもこの間の進歩変遷には月鼈の差あることは予期してゐたが、実際を見て、さらにこの感を深くした。日本も進歩したとはいへ、その比ではないと思つた。都市行政などについても、多少注意してみたが、とても規模が違つてゐて、その儘採用すべきものはなかつた。これほど彼我の相違は明白であつたが、この前の旅行の時に比べると、感激はすこぶる薄かつた。私の神経が鈍つたせいでもあらうか。
万国議員会議については別段記述するほどのこともなかつた。会議が終はつて、欧洲も一通り見終はつてから{*7}、私はアメリカへ渡つた。今回の周遊は、東京市長の資格を辞し、一代議士として旅行したのであるが、到る処で大いに歓迎された。滞英中は無論のこと、米国でも盛んに歓迎された。ある日ニユー・ヨークのブロード・ウエーに在るウオターマン万年筆の本社を尋ねると、その商店の主人が大いに歓待してくれた揚句に、万年筆を献上したいと云つて、私夫婦に一本宛贈つてくれた。欧米では市長といへば、大分尊敬されかつ評判の高いものだから、多分私を広告に使ふためであつたらう。それから大統領タフト氏は附近各市の市長及び休暇中の閣僚までも呼び集めて、私のために晩餐会を開き、その席ではメーヤー・ヲブ・トウキヨウ(東京市長)といふ音楽をやらせた。
かうして到る所で、歓迎を受けたのは、畢竟戦勝国の帝都の市長たる地位によるもので、私は深く感激した。横浜に帰着したのは、十一月十八日であつた。
校訂者注
1:底本は、「慊(あきた)らず」。
2・3:底本は、「しやう」。
4:底本は、「そう」。
5:底本は、「出来(でき)やう」。
6:底本は、「かう」。
7:底本は、「見了(をは)つてから」。
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