桂公進退を乱る
桂公と私との関係は、前にも述べたが、桂内閣は明治三十八年十二月西園寺侯に明け渡すまで、ニコポン主義の妥協と日露戦争のお蔭で、四年七ケ月といふ我が国未曽有の長命を保つた。しかも戦勝の余栄を担つて伯爵はたちまちにして侯爵(明治四十年)となり、自慢好きの彼の得意やまことに思ひ見るべきであつた。同時に、私も彼が思つたよりも、やり手であることを知つたが、それでもなほその人格には感服することが出来なかつた。その後桂公は、西園寺首相の内閣投げ出しの後をうけて、明治四十一年七月第二次桂内閣を造り、日韓合併を断行し、その功労によつて又一爵昇せられ、遂に栄爵の極を占めたが、内政上では組閣当初の超然主義は、幸徳秋水一派の大逆事件や、四分利公債問題等が勃発し、行路難加はるに及んでたちまち、「世は明治四十四年である。いつまでも旧習を墨守して超然を装ふ訳には行かぬ。時勢に順応して変通するのは、政治家の能事である」と、弁疏{*1}もそこそこに政友会と情意投合して延命策を図つたが、人心漸く去るを察したか、その年八月突然総理大臣を辞した。
政党操縦の名手と云はれた桂公も、この二回の内閣組織で政党の実力を認識し、政党に基礎を持たねば、施政の円満なる遂行は期せられないことを悟り、伊藤公の政友会組織にならつて、自ら政党を組織し、その勢力によつて政界に活躍せんとする決心を固めた。これに着手する前に、外交上において世上の耳目を一新すべき事功を求め、明治四十五年後藤新平、若槻礼次郎両君を引き具して、欧米視察の途についたが、露都において、 明治天皇御重患の悲報に接し、急遽帰国した。のち間もなく 陛下の御崩御があり、桂公は内大臣兼侍従長となつて、新帝輔弼の重任に当たつた{*2}。入つては内大臣、出でては総理大臣、加ふるに陸軍大将の栄職を以てす。正にこれ桂公得意の絶頂である。
桂公にしてもし修養を積んでゐたなら、こゝらで反省し、その出処進退を戒慎したであらうが、内大臣に在ること僅かに四ケ月にして、第二次西園寺内閣の倒壊するや、得意に乗じて「乃公出でずんば蒼生をいかにせん」とばかりの意気込みで宮中を出で、第三次桂内閣を組織した。こゝにおいて宮中府中の別を紊乱すると云ふ非難が大いに起こつた。もつとも第二次西園寺内閣の総辞職は二箇師団増設問題によつて、軍閥のために毒殺された傾きがあつたため、元老会議は十一回も開かれたが、容易に後継内閣が出来なかつた。その結果遂に桂公の出馬となつたのだから、桂公に対する非難は、同時に藩閥の大御所山県公に対する非難であつたとも云へよう{*3}。しかも、この非難は桂公の兼ねて予期したところであつたと見え、畏くも優詔を煩はし奉つて、自己の出所進退を弁護せんとしたから、世論はさらに一層喧しくなつた。即ち平素藩閥官僚政治にあきたらざる民間の有志は、桂公の進退を難じ、閥族の陰険を罵るとともに、憲政擁護を叫び、大正の初頭に当たり護憲運動を起こしたのである。
当時、私は政友会に居つて、桂公のこのやり方に憤慨してゐたが、政友会自身は桂内閣を敵として奮起{*4}する気概{*5}のないものと思つてゐたから、容易に陣頭に立たなかつた。しかるに政友会は多年の政敵たる犬養君の国民党と提携し、倶に旧怨を忘れて一致協力、政府反対の気勢を示し、世論もまたこれを鼓舞した。私はこの有り様を見て、今度こそは政友会も中途にして腰を抜かすやうな事はなからうと考へ、その仲間に入つて陣頭に立つ決意をした。
かくて大正元年十二月十四日政友会、国民党、無所属、実業家及び新聞記者の有志数十名がまづ築地精養軒に対時局有志会を開き、護憲運動の火蓋を切つたが、多年兄弟の如く政界に並立して来た犬養君と私が離れ離れになり、敵味方の状態になつて居たのに、多大の失望を感じてゐた世間は、今度の提携で久しぶりに両名轡を並べて出陣したものだから、同志はもちろん、さうでないものまでも大いに喜んだらしく、憲政擁護、滅閥興民の声は、燎原の火の如くたちまち全国を風靡するに至り、誰云ふとなく、吾々両人を「憲政の二柱の神」とまで言ひはやした。十二月十九日には憲政擁護各派連合大会を歌舞伎座に開いて、
「閥族の横暴跋扈今やその極に達し、憲政の危機目睫の間に迫る。吾人は断乎妥協を廃して閥族政治を根絶し、以て憲政を擁護せんことを期す。」
と決議した。それから私は全国に遊説した。越えて大正二年一月十二日には、大阪で憲政擁護各派連合大会が開かれ、私も壇上に立つた。この日、東京では日比谷松本楼で十八団体の結束が行はれ、同十七日には全国記者大会が築地精養軒に開かれるなど、意気まことにさかんなるものがあつた。
怒りに燃えた私の演説
桂首相は、この四面楚歌の声のうちに休会明け議会を前にして大正二年一月二十日、その懐抱する新政党の組織計画を発表した。内大臣就任に際し、政界との絶縁を声明はしたものゝ、政党組織については多分に色気を持つて居た桂公は、旧進歩党を自己の手中に収め、これを基礎に、同志会なる新党樹立の計画をひそかに誘導しつゝあつたのだが、これに参加するものは少なかつた。
この同志会の前身は右に述べた通り進歩党で、そのまた前身は改進党である。進歩、改進両党の創立及び維持拡張には、及ばずながら私は最も多く尽力した一人であるから、同志会多数の人々は、皆私の旧知であつた。それのみならず同志会組織について、桂公と最も深く話し合つてゐた秋山定輔君は、私をもその仲間に入れる計画を持つてゐたらしかつた。これは後で気付いたことであるが、桂公の同志会を組織したのは冬で、その年の夏秋山君夫妻は軽井沢の私の借宅に遊びに来られ、一週間余りも滞在して居た。秋山君とは議会で同じ仲間であつたこともある。ことに秋山君が露探の嫌疑を受けて世間から非難された時の如きは、私は身を挺して彼をまもつた。けれどもこれまではお互に私宅を訪問しなかつた。私の性癖とも云はうか、余程昵懇な間柄でないと、私は友達を訪問しなかつた。しかるに秋山君夫妻は、その年の夏軽井沢に私を訪問して一週間も滞在し、毎日毎晩色々の話をされた。
その中には桂公の政党計画の話もあつたが、私は世間話のつもりで、たゞ聞いて居ただけで、反対もせず賛成もしなかつた。私は常に人の意見に反対する癖があるが、秋山君はこれを知つてゐるから、この時黙つて聞いてゐた私を以て、桂公の政党組織に参加するものと考へたらしい。
その時私は少しも気付かなかつたが、後で左様に考へたらしい事実が起こつた。即ち同志会がいよいよ旗揚げをする事に内定した時、秋山君は一夕品川の拙宅に来て、これに参加せよと勧め、参加する以上は、無論私の意見を行ふといふ意味を説いた。私の意見さへ実行してくれるなら、何人とでも行動を共にするのが、私の流儀である。しかし、桂公が私の意見を行ふとは信じられなかつたので、断然これを辞退した。が、秋山君は非常な熱心を以て翌朝二時か三時頃まで私を勧誘して居た。当時神経衰弱もまだ癒つてゐないし、徹夜してまで口説かれたので、私もひどく弱つた。それがため感冒にかゝり、数日間臥床したが、この時の秋山君の熱心なのには実に驚いた。
かくて桂公は秋山君の言葉を信じて、私がその内閣を応援するものと思つてゐたらしいが、かへつて前に述べた通り、私が政友会を率ゐ、犬養君と提携して真正面から打つて掛かつたのだから、桂公はもとより、秋山君としても大いなる見込み違ひがあつたのだらう。
かうして一月二十一日、休会あけの議会は開かれたが、与論は是が非でも、桂内閣を倒さずにはやまない勢ひであつたから、桂首相は十五日の停会を奏請して、その間に議会切り抜けを企てた。即ち新党樹立を急いだので、このため国民党は大半を引き抜かれ、政友会また一角を切り崩されたが、彼らの計画は、遅々としてはかどらない。しかも犬養君は、あくまで残塁を守つて、我々と行を共にした。
とかくする中に、二月五日停会明けの議会は開かれた。我々が内閣不信任案を提出したことは云ふまでもない。提案者は元田肇、犬養毅、関直彦、松田正久の政、国両党領袖達と私で、賛成者は実に二百九十九名の多数であつた。政友会はいよいよ反政府軍の主力となつて、本舞台において、桂内閣と決戦しなければならぬ場合となつた。そこで対議会策に関して松田、原、元田、私の四人が種々協議した。原君はしきりに質問を発して、それから、戦端を開かうといふ意見を述べ、元田君がこれに賛成した。私は質問でろくな言質が取れる気遣ひはない。かへつて論鋒を鈍らすだけであるから、直ちに攻撃に掛かつた方がよいと唱へたけれど、これに賛成するものが少なかつたので、やむを得ず私は質問もせず、黙つて、見て居ることにした。
さて、元田君が質問戦をやつたが、その質問がうまく行かなかつたので、かへつて桂首相に愚弄され、大いに凱歌を奏されたかの感が深かつた。この模様を見た私は、憤怒に堪へなかつた{*6}。質問したがために、政友会の陣容は大いに乱れた。それまでの私は、内閣反対の精神はあくまで強硬であつても、これに用ゐる{*7}言語は出来るだけ穏やかにし、理屈詰めにして、真綿で首を締めるやうな演説をするつもりで、その準備をしてゐた。ところが、元田君の質問に対して、桂公は鼻先であしらひ、余りにも無礼な軽蔑的扱ひをしたために、私は覚えず激怒した。怒気を帯びて、質問後直ちに、演壇に駆け登つたものであるから、せつかく準備した演説をば全く忘れて、頭ごなしに、桂公に喰つて掛かつた。ことに桂公が勅語に対して責任はないといふやうな愚弄的答弁をしたのを痛撃し、彼らが守り本尊の如く崇拝する、
「独逸のビユーロー公は、独逸皇帝の突発的演説に対してすら、責任を負ふと明言して居る。しかるにその発布に関係した内閣大臣でありながら、責任を負はぬとは何事だ。」
と、痛烈に非難した。これには桂公も大いに閉口したやうである。余り激しき語気を以て演説を始めたものだから、演説全体が、極めて突発的感情に駆られて、思はず激烈になつた。
同志会、即ち以前の進歩党の連中は、大いに騒いで反対したが、彼らが反対すれば、する程、私はますます強く彼を攻撃し、遂に手を挙げて、桂首相を指させば、桂公は椅子からころげ落ちるだらうといふやうな、不思議な感じが湧いて来た。その感情に駆られて、大声疾呼しながら{*8}、突然指頭を以て桂公を突くが如き姿勢を示した。その時、桂公の顔色は、俄かに変じたやうであつた。演説中のことであるからよくは分からなかつたが、何だか彼の顔色は、俄かに蒼白になつたやうに思つた。しかし、予感に反し桂公が、椅子からころげ落ちなかつたから、私は失望した。激越な演説を、二十分間余り為し、ガツカリしながら演壇を降つたが、いつもと違つて僅かな演説の間に非常に疲労した。かつ予定の方針とは全く違つた演説をしてしまつたのだから、大いに失望落胆して、飛んだことをしてしまつたと、考へながら自席に戻つて来ると、同志らが私を咎むると思ひの外、意外にも平生仲のよくない会員までも、飛んで来て感謝の意を表した。そこで初めて{*9}沮喪した意気も幾許か回復したが、何だか変な演説であつた{*10}。
この時、傍聴席に在つた仏人某の如きは、私の演説を聴いて、覚えず踊り上がつて、守衛から退去を命ぜられたさうだ{*11}。又アウトルツクの主筆メービー博士も、偶然傍聴席に在つたが、その後鎌倉で面会した時に、なぜあんな激烈な演説をしたのかと驚いて評して居た。博士は日本語を解し得なかつたが、私の態度と、音調を見聞きして、驚いたのであらう。感情の激する時には意外な言動があるものだ。
桂首相は私の演説に弁明を試み、島田三郎君が反対演説に登壇した時、再び{*12}同日より向かう{*13}五日間停会の詔勅が下つた。
校訂者注
1:底本は、「弁疎(べんそ)」。
2:底本は、「膺つた」。
3:底本は、「いへやう」。
4:底本は、「憤起(ふんき)」。
5:底本は、「気慨(きがい)」。
6:底本は、「堪えなかつた」。
7:底本は、「用ひる」。
8:底本は、「し乍ら」。
9:底本は、「始(はじ)めて」。
10:底本「思ひ出の議会演説 桂内閣弾劾演説(大正二年二月五日)」参照。
11:底本は、「そうだ」。
12:底本は、「二度び」。
13:底本は、「向ふ」。
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