遂に全国的暴動!
この間に、桂首相はしきりに新政党樹立を急いだが、我々の結束はいよいよ固く、形勢はますます政府に不利になつた。そこで、たまりかねて二月八日、西園寺侯と会見し、局面転換を図つたが、これもまた徒労に終はつた。すると西園寺侯はその翌九日、突然お召しによつて参内した。この時、宮中を退下した西園寺侯は、伏見内大臣の宮を経て、前内閣総理大臣として、また政友会総裁として、桂内閣援助の御沙汰を受け、しかも拝承の旨を奉答して退出されたのであつた。
西園寺総裁は、帰邸すると直ちに松田正久、原敬と私を招いて、前記の顛末を語られた。私は、その不都合を責めたが、
「既に奉答後であるから、今更取り消すことは出来ぬ。」
と、言ひ切られた。この時四人は額をあつめて、智恵を絞つたが、吾々は総裁の意見に服従出来ず、さればとて、侯をしてその奉答の意味を取り消させることも出来ず、進退極まつて、徒らに時間を経過するばかりであつた。その時、私は、
「議員なればこそ、こんな目に逢ふのである。議員を辞職さへすれば、この屈辱を免れることが出来る。」
と、発議した。松田君は、
「それは一案だ。よからう。」
と云つたが、直ちに決行しよう{*1}とは言はない。私一人辞したところで、多数の議員が応じなければ、意味をなさないから、私は発議しただけで、自分一人辞職することもしなかつた。
かれこれ、小田原評定をしてゐる間に、夜も既に深更に及んで、予約のあつた犬養君や、その他の者も西園寺邸へやつて来た。私は、こんな状態の下に、犬養君に遇ふのも、面目もないから口頭で政友会総務を辞職し、松田、原両君を残して、単身侯爵邸を辞し去つた。帰りがけに、芝山内を通ると、政友会本部には電灯が昼の如く輝いてゐる。それは、西園寺邸会議の模様を知るべく、議員とその他の党員が待つてゐるのであつた。私は立ち寄つて、意見を述べたところで、西園寺総裁が動かない以上は、彼らは結局屈服するものと速了し、立ち寄らずに品川の自宅へ帰つた。ところが、夜半過ぎに、松田源治君から電話が来て、
「なぜ寄つてくれなかつたか。こゝに居る多数のものは、ことごとく君と同意見で、総裁の意見には反対だ。是非来てくれ。」
と云ふことであつたが、私は、夜も余りに更けてゐるし、行つても結局駄目と思ひ、その夜は本部に行かないで、翌早朝試みに行つて見た。すると、徹夜した議員その他の連中は、血眼になり、或は涙を流して、
「総裁の命令といへども、これに従ふことは出来ないと。」
と強硬なる意見を吐いてゐる。私は、この有り様を見て、これなら共に戦ふことが出来ると思つた。その中に西園寺侯は、本部にやつて来た。そこで、私は、侯にむかつて、
「今日こゝで貴下が意見を述べ、賛成を求められても、会員の多数は私と同意見で、貴下には反対だ。故に私は、昨夜口頭で申し出た辞職は撤回する。」
旨を告げた。その時西園寺侯は、
「貴下は辞職する必要はないが、多数が反対では、私が総裁を辞するより外に仕方がない。」
と言はれた。私は、
「無論さうであります。」
と答へた。それでも西園寺侯は議員総会に臨まれ、決然たる辞色を以て、内大臣の宮に奉答の旨を述べ、「是非桂内閣を援助してくれ」といふ意味の演説をしたが、会員の多数は、これに賛成しなかつた。あくまでも不信任決議案を以て、政府に肉迫する事に決定し、国民党もまた同一の決議をなした。西園寺侯は、こゝにおいて聖旨を奉行することが出来なかつた罪を闕下に陳謝し、政友会総裁を辞すると共に、政界を去られた。それは後の話となるが、この日両国国技館に開催された憲政擁護、閥族打破に関する演説会は、聴衆二万と註され、その余勢を以て、明くる十日には、数万の大衆が議会の周囲に押し寄せた。憲政擁護各派の議員達は、白薔薇の徽章を胸に挿み、万歳の声に送られて議会へ向かつた。
桂首相は、この形勢を見て、議会の開会に先立つて、又もや三日間の停会を命じたが、その結果は群衆を、いきりたゝせるばかりであつた。政府は、これに臨むに、三千の警官と、三ケ小隊の騎馬憲兵とを以てしたため、横暴非立憲の声は随所に揚がり、遂に輦轂の下を擾乱の巷と化し終はつた。大阪、京都、神戸、広島等各地にも同様に暴動が勃発した。かうなつてはさすがの桂首相も責めを負はない訳にはゆかない。しかも、薩派の山本権兵衛伯は、同十日桂首相に対し聖勅濫用の罪を面喫し、その自決を促したので、桂公も恐懼して、翌十一日闕下に辞表を捧呈し、組閣後五十日あまりで倒壊し、最短内閣の記録を作つた。
この護憲運動で、諸方を遊説して居る際の笑話がある。山陰のある地方へ行つたところが、午餐の際に、しきりに酒を勧められた。余りしつこく勧めるから、私は戯談半分に、
「酒と女は夜のものだ。」
と言つた。すると晩餐のとき、酒と女の饗応で責められたが、その頃既に酒量は減つてゐたから、一向飲まなかつた。それで、地方紳士は私を以て女を希望するものと誤認したと見え、宴を撤して室に帰ると、そこに芸妓が一人居つて、蚊帳の中まで這入つて来る。私は驚いて、{*2}
「帰れ。」
と云つたが、某氏の厳命を受けてゐるから、このまゝ帰ると叱られると云つて、帰らない。その時は斯道の達人と聞こえた{*3}菊池武徳君が同行してゐたので、同君の智恵を借りに行つたら、
「気に入つたら泊めてやれ。気に入らないなら帰せ。」
と言ふだけで、何の智恵も授けてくれない。そのくらゐのことなら、私も知つてゐたが、何とかして穏やかに帰らせる工夫もがなと思つて、智恵を借りに行つたのに、菊池君は貸してくれない。よつて私は、やむを得ず、辞色を正して、帰れと強く命令したら、芸妓は泣く泣く帰つて行つた。私は時々戯談{*4}を言つて、失敗することがある。
これも、その頃遊説中の話であるが、京都へ行つた時、ある宴席で祇園芸妓の一人が、帰る時私を送つて来る。これは困つたことだと思つて、だんだん様子を聞くと、この老妓は名を歌蝶と云ひ、祇園屈指の踊り手で、憲政芸妓と云はれた程の政治好きで、憲政擁護運動の時などは、胸に白薔薇をつけて宴席に出たほどの熱心家であるさうだ{*5}。従つて、私をも崇拝してゐたものと見え、私がもし再婚してゐなかつたならば、押し掛け女房になるつもりであつたなどと冗談を云つてゐた。この時は彼女には既に立派な旦那があつて、後年その旦那のために選挙に運動し、不幸にも拘禁の身となつた。私が大隈内閣の司法大臣になつた時には、
国のため磨く心のあらはれて光ぞ見ゆる世となりにけり
己が身をかへりみずして国のため尽くす誠の花は咲きけり
と、和歌を寄せて祝つてくれた。
又その老妓が選挙違反{*6}で拘禁中に、大正天皇ご即位の大典があつて、多数の罪人が恩赦の特典に浴し、彼女もまた特赦せられた一人であつたが、その恩命は時の司法大臣たる私の名を以て伝達せられた。彼女はあんな嬉しいことはなかつたといつも言つてゐた。
山本内閣と私の進退
さて、桂内閣が倒れると、吾々は憲政擁護、閥族打破の方針実現のために、松田正久君に大命が降下するやう、内々準備工作をして、膳立てが出来かゝつて居たところ、突然山本権兵衛伯に大命が降下した。実は桂公が内閣を投げ出すと、後任に西園寺侯を推薦したが、侯は前に述べた様ないきさつで、違勅の責めを感じてゐた際であるから、直ちにこれを却けて、山本伯を推し、元老もまたこれに同意して、山本内閣といふことになつたのである。私は無論これに反対した。閥族の巨頭たる山本伯の組織する内閣はやはり閥族内閣たるを免かれない。桂公ですらも政党の必要を認め、これを組織してゐる時世であるから、新内閣は政友会単独の内閣、又は政友会と国民党の連立内閣でなければならぬ。政党に基礎を置かない山本内閣を援助するなどゝいふことは、政友会の断じてなすべきことではないと考へた。ところが松田君や原君らは軟論を唱へ、党員を説いて、結局総理大臣と外務大臣及び陸海軍大臣以外の閣僚は、全部政友会に入党させるといふ條件の下に、山本と政友会の連立内閣のやうなものを造ることを主張し、私の仲間も多くはこの意見に賛成した。それで私は再び政友会を脱退するのやむを得ざるに至つた。
私が政友会と共に政府攻撃をやると、いつも末路はかういふ風になるので、初めから心配しておつたが、果たせるかな、今度も私の懸念した通りの結果に陥り、内閣の更迭だけで、政友会は閥族政府と妥協してしまつた。そればかりではない。犬養君も桂内閣の倒壊で、憲政擁護運動は既に済んだと言ひ出した。これでは彼の憲政擁護は桂公のために進歩党を奪はれた復讐戦に過ぎなくなつてしまふ。しかし私は、単に一内閣を倒すためでなく、閥族の根城を破つて立憲政体の基礎を確立する目的で進んでゐたから、この運動はまだ済まないと考へた。かうして犬養君とも意見を異にしたので、遂に再び彼とも袂を分かつ{*7}ことになつた。
政友会脱退後、私は一時政友倶楽部といふ小団体を拵へた。これは政友会幹部の妥協苟合に反対して脱党した二十五、六名の集まりであつて、同じく政友会との提携を断絶した国民党と、行動を共にして山本内閣打倒、閥族打破に邁進した。この時岡崎邦輔君や竹越与三郎君らも私と同じ意見で一緒に脱退したが、その後ある口実を設けて復党した。
私はかうして山本内閣に対しても攻撃を続けたが、この内閣は、私の主張を多少とも容れて、陸海軍大臣及び朝鮮、台湾総督は現役大中将と決まつてゐたのを、予後備役まで広めたり{*8}、閣員を政友会に入党させて政党との接近も図つたりしたので、政府攻撃の勢力はすこぶる減殺された。政友倶楽部は大正二年の暮れに亦楽会と合して中正会と称し、依然山本内閣反対の立場を執つた。この時中正会に集まつたものは、花井卓蔵、大竹貫一、早速整爾、林毅陸、田川大吉、岩下清周らの三十七名であつたと覚えてゐる。それから一月も経つか経たぬ間に、偶然にも例の「シーメンス事件」が突発して、山本内閣攻撃の好材料が得られた。
シーメンス事件といふのは、シーメンス・シユツケルト電機製造会社の東京支店の一タイピストが、我が海軍の註文に関する重要書類を盗み出して会社を脅迫し、失敗するや、これをロイテル通信員アンドリユー・プーレーに売り渡し、プーレーが代つて会社を脅迫し、二十五万円を強要した事件が発覚し、その取り調べにつれて、会社が日本の高官に賄賂を贈つてゐたことが暴露されたのである。当時山本首相、斎藤海相、牧野外相、原内相、奥田法相は、これを隠密の裡に葬り去らんとしたが、端なくもベルリン電報によつて国民の知るところとなり、さらに平生薩閥の横暴を憤慨せる薩閥以外の出身軍人が、閥内の弊害を続々指摘し、シーメンス事件はたちまちにして護憲運動に代つて、天下の耳目を聳動した。
私ももちろんこの問題を提げて議会で戦つた。自分は山本伯個人には、何の敵意もなかつたが、閥族の一人として、自分主張の閥族打破と憲政擁護の目的のために、敢然攻撃の陣頭に立つたのである。この時は昨日まで私の表面の政敵であつた同志会が、私の応援者となり、ことに島田三郎君の如きは、共に陣頭に立つて活躍した。昨日の敵もかうなつて見れば、今日の味方である。しかも同志会員の中には、進歩党以来の私の旧友が多いので、議会における進退駆け引き{*9}は、すべて自分の党派を扱ふやうに都合がよく行つた。
話はそれるが、山本権兵衛伯は容貌魁偉、日本人としては、その体躯も長大な方であつた。私は歴代の総理大臣中で、その威容、人を圧するものを求めたなら、まづ指を山本伯に屈せざるを得まいと、常に思つてゐたが、山本首相がシーメンス事件の被疑者の一人として、盛んに話題に上ると、心にもなくつい戯談に、
「監獄に行くと権兵衛に似た顔の人物が幾らもある。」
と言つた。すると、貴族院の村田保君がどこからこれを伝へ聞いたか、この言葉まで引用して、職を賭して内閣攻撃をやつた。この時も私はつくづくつまらぬ{*10}戯談を云ふものではないと思つた。
それはとにかく、衆議院では私も山本内閣弾劾演説に立つた。それは必ずしも一シーメンス事件が目的ではなく、憲政擁護、閥族打破といふ自分本来の主義主張に基づいたものであつたが、この時思ふに、前議会で桂内閣を弾劾した時、桂首相を睨んで大喝すると、その顔色が土の如くになつたから、山本伯のあの厳めしい顔をも、桂公同様にしてやらうと、あの演壇上から、総理大臣席の山本伯を、声を励まして攻撃しつゝ、振り向いて睨みつけたところ、山本伯は桂公と打つて変つて、眼を怒らして私を睨み返し、すこしもたじろぎさうな気色を見せなかつた。これは少々手ごはいなと自分は思つた。つまり私の睨みも大喝も、彼に対しては、余り効かなかつたのである。しかし、山本内閣は軍艦製造費の不信任的大削減に逢ひ、進退極まつて倒壊した。伯に対する嫌疑はその後、全く無実なることが判明し、濡れ衣は晴れたが、さすが剛腹の伯もこの一件で政治的野心を挫かれてしまつたやうだ。
校訂者注
1:底本は、「しやう」。
2:底本、ここに読点はない。
3:底本は、「聞へた」。
4:底本は、「戯言(じようだん)」。
5:底本は、「さうだ」。
6:底本は、「選挙違犯」。
7:底本は、「別(わか)つ」。
8:底本は、「拡(ひろ)めたり」。
9:底本は、「懸引(かけひき)」。
10:底本は、「拙らぬ」。

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