大隈内閣と私の行動

 さて、桂内閣も倒れ、山本内閣も倒れて見ると、新たに内閣を組織すべき人物が、見当たらない。他の立憲国ならば、反対党に大命が下る筈であるが、日本の状態はまだそこまで進んでゐない。ことに山本内閣反対に尽力した私や島田三郎君は、位地も声望もまだ低く、大命を拝するだけの資格がない。そこで、窮余の策として、当時引退して居られた七十余歳の大隈伯を擁立しよう{*1}という説が起こつて来た。初めの間は、誰も相手にしないくらゐであつたが、日を経るに従つてだんだんこれが有力になつて来た。これまで内閣は度々更迭したが、隈板内閣以来は、誰も大隈内閣の噂をするものさへなかつたのだ。それが十六、七年ぶりにこの声を聞くに至つた。この時の影役者は望月小太郎君である。
 当時、望月君は井上侯と非常に親密な間柄で、侯は望月でなければ、夜も日も明けないといふ程であつた。同時に山県公ともよい関係に在つた。この望月君が、井上侯に、
「時局は大隈伯に収拾させるより外に道はない。」
と進言した。その頃は井上侯も、大隈伯とは疎遠になつてはゐたが、元来が梁山泊仲間の一人であり、昔は大隈邸に同居してゐた程の間柄であるから、望月君の意見を聞いて、これに同意し、遂に隈閣擁立の主謀者になつて、山県公を説き種々尽力された。
 かくて大命は大隈伯に降下した。久しく政界を隠退してゐた大隈伯は、名実ともに自分が総理となつて、内閣を切り廻すつもりはなく、万事を同志会の首領加藤高明男に一任する腹であつたものか、大命降下するや、すぐに加藤男を招いて閣僚の配置その他を決めさせ、組閣の方針がほぼ定まつた後に、初めて私と犬養君を招かれた。
 私は驚いた。桂、山本、両内閣倒壊のために働いた、犬養、島田、私らには、何を差しおいてもまづ第一番に相談しなければならない筈であるのに、人もあらうに、桂公に附随して創痍未だ癒えざる加藤男に相談して、一切を決定し、その後において、私らに相談を持ちかけて来た。事理順逆の顛倒もまた甚だしい。そこで私は、大隈伯に招かれた時、率直に意見を述べた。
「内務とか、大蔵とかいふ重要な椅子を他に割り当て、私らに伴食大臣の椅子を与へようとせられるのは、甚だ心得かぬるご所存である。ことに大浦君のやうな{*2}官僚系の人物を内務に据ゑようなどとは以ての外の次第だ。もし、これが英吉利であつたら、大命は私に降下したであらう。貴下は山本内閣倒壊に何らの力も出してゐない。それに大命の降つたのは、日本特有の事情によるもので、別段理義に基づいたご処置とは思はれない。故に私と共に内閣組織の相談をなさるのなら、ともかく、重だつたる役割もほぼほぼ決まつた内閣に、私に這入れといふお話{*3}なら、辞退致します。」
と。その時、大隈伯は、外務、内務、大蔵を除いた省なら、どこでもよいからよりどりにしてくれと言はれたが、私は入閣しないと断つた。伯は自分の子供同様に育てた私の口からこんな言葉を聞かされて、大分驚いた様子であつた。しかし、私は冷静に考へて、到底駄目だと思つたから、さう{*4}言ひ切つて、辞し去つた。
 大隈伯のこの仕打ちに驚いたのは、私ばかりではなかつた。犬養君も、元来同志会と両立し得ない立場にあり、加藤男との関係もよくなかつたので、初めから入閣を辞退してしまつた。
 ところがこの時、私の意見を漏れ聞いて、いかにも尤だと考へ、私を説きに来たのが、朝吹英二、永井柳太郎の両君であつた。二人は別々に来たが、
「君と共に内閣組織の相談をする事になれば、君はどうするつもりか。」
と云ふ具体的な話も出たので、私は、
「伯が総理となるに異存はない。又外務大臣も加藤男でよい。大蔵大臣の若槻君も差し支へないが、大浦子の内務大臣は同意が出来ない。それから犬養君が承諾すれば、これを大蔵に廻すといふくらゐで、後の役割はどうでもよい。」
と述べた。かう煎じ詰める、内務と大蔵だけの問題となるので、それなら調停の途もあるだらうと云つて、朝吹、永井両君が奔走した後、内務は大隈伯の兼任、大浦子は農商務といふことになつた。それで私は、この内閣は事実我々の内閣であり、意見もかなり行ふつもりでゐたから、
「大隈伯は加藤男の傀儡となるべき人物ではない。我々の意見がよければ、これに賛成する。」
と犬養君に入閣を勧めたけれど、犬養君は、
「加藤男がゐる以上、さうは行かない。否、この内閣は大隈内閣といふよりも加藤内閣だ。私はこんな内閣には椅子の問題など別にして御免蒙る。」
と言つて、遂に聞かなかつた。犬養君は伯と加藤男との関係を、私よりよく知つてゐたものと見える。
 さて、犬養君は遂に這入らなかつたが、私の意見は大体容れられたので、私もほぼほぼ満足して入閣することにした。役柄は別に望むところでないから、その旨を大隈伯に伝へると、
「それなら司法省に行つてもらひたい。」
と言ふことで、私は司法大臣になつた。隈板内閣の時も、初めは司法省に割り当てられ、大東義徹君の希望で、文部省に廻つたが、今度もまた大隈伯は司法省に行けと言はれた。司法省には余程宿縁が深いと見える。もつとも今回は、シーメンス事件で、世間がやかましい際ではあり、それに前宮内大臣田中光顕伯、渡辺宮内大臣等に関係して、種々賄賂問題が取り沙汰されてゐる時であつたから、世間では私の司法省行きを大いに意味のあるものゝやうに見たが、私自身には別にそんな気持ちはなかつた。

司法大臣としての私

 大隈内閣はかうして大正三年四月十六日に成立したが、入閣して見ると、大分見込みが違つた。この時もまた私は、今更ながら自分の無思慮無分別に驚いた。
 まづ第一に、私は入閣したなら、相当自分の抱負を実現せしめ得ることゝ信じて居たが、実際に当たつて見ると、私の正しいと思ふ意見は一向容れられず、かへつて加藤男の意見がズンズン通つて行く。その時漸く私は、なるほどこれは犬養君が言つたやうに{*5}加藤内閣に違ひないと思つた。それから大隈伯は私の意見を容れて、大浦子を農商務省に移し、内務を自ら兼任したから、多分政務上の大事は、私に相談し、私の意見を容れて決裁するだらうと考へて居つたが、これも私の違算であつた。即ち総理の兼任とはたゞ名ばかりで、実際は大浦子が内務省の仕事をやることになつてゐた。内務省の機密費までも子の自由になつてゐたくらゐであるから、他は推して知るべしだ。大浦子は私の容喙のため事実上内務大臣兼農商務大臣となつたのである。
 こんなことゝは私は、夢にも思はなかつた。入閣前に知つたなら、もちろん、閣員にはならなかつたのだが、今更致し方がない。私はこゝでつくづく自分の馬鹿正直を悟ると同時に、政治家といふものは、先輩でも何でもなかなか油断のならぬものだと考へた。
 しかし、大隈伯に内相を兼ねてもらつたために、多少自分の都合のよいこともあつた。私が第一に着目したのが、司法官の地位改善問題である。元来警察官は犯罪その他司法事務の一部を担当してゐるのであるから、その任免には司法省の意見も参酌すべきが当然で、官制もその通りに出来てゐる。ところが、多年の習慣で、地方の警察部長は、内務省だけで勝手に任免し、地方の検事正には少しもその進退黜陟に嘴を容れさせないことになつて居た。これは官制から見ても、実際から言つても、不都合千万なやり方で、これを直さなければ、司法権は正当に働くことは出来ない。大隈伯にこの事を話すと、
「大いによからう。」
と云ふので、早速地方官会議と判検事会議の連合協議会席上で、大隈総理兼摂内相から、「将来司法警察官の任免は、検事正と相談せよ」といふ演説をしてもらつた。これで私も安心し、司法官も喜んだ{*6}。しかるに、この事がたちまち大問題となり、内務省派が大浦子を陣頭に立てゝ反対運動を起こし、初めは大隈兼摂内相も、「何、あれでいゝんである。」と済ましてゐたが、やがて、その演説を抹消せねばならぬやうな始末になり、今度はかへつて反対の演説を地方長官会議でなした。一時は兼任のために、都合よく見えたが、これも右の如く私の敗北に終はり、結局、何の役にも立たなかつた。
 かうなつてはもはや仕方がないから、大浦子を蔭で働かせるよりは、むしろ表面に立たせてその責任を負はせた方がよいと考へ、議会解散と同時に、内務大臣に専任させ、農商務省には私の親友、河野広中君を推薦した。
 内閣成立後間もなく、欧洲大戦が勃発した。我が国がこれに参加した事情は後から書かう。
 国内では十二月二十五日に第三十五議会が解散されて、翌大正四年三月二十五日総選挙が行はれた。この時、反対党の政友会は、ほぼほぼ半数に打ちこなされて、臨時議会には懸案の二箇師団増設案も無事通過した。
 我が国の総選挙は、近年は不思議にいつも政府党が勝つ。これは選挙干渉の結果であると云ふが、たとひ干渉しなくても、我が国ではいつも同じやうな結果を生ずる。私は元来選挙干渉が大嫌ひであるから、朝に在つても、野に在つても、干渉には大反対である。この時も大浦君が内相としてその配下が地方官になつてゐる以上は、これらが干渉しないとも限らぬと思つたから、私は、
「地方官が選挙に干渉したら、検事の力を以て検挙させる。」
と、大浦子に話して置いた。また検事を働かせるために、機密費も多少増加し、これを各裁判所に配布した。そして、
「警察官が言ふことを聞かなければ、別に人を雇つて干渉等の被疑者を検挙せよ。政府の役人でも誰でも容赦はいらない。」
と命令した。同時に私は、政府の意思を、世間に明示して、公明正大に政府をたすける議員を選出する必要を感じたから、公務の許す限り全力を挙げて、全国を遊説した。この間の四十日ばかりといふものは、遊説と視察、それに歓迎会がひつきりなしで、畳の上に寝たのは僅かに六、七晩。文字通り不眠不休であつた。終には病気になつて医者から、その無謀を叱られたが、よく死なゝかつたと思つてゐる。総選挙の結果は、政府等の大勝利となつたことは前述の通りだが、心外にも大浦内相が四国の丸亀から立候補して当選した白川友一君から収賄したといふ問題が物議に上がつた。しかし、この問題は幸ひ事実相違で無事落着した。

司法大臣

大浦事件と私の意見

 さて、収賄事件は事なく済んだが、これを動機として取り調べ中、今度は議員買収といふ新事実が暴露された。それは、総選挙直前の第三十五議会に、政府は二箇師団増設案を提出したが、当時政友会は絶対多数を擁して、その通過を阻止する事は明らかであつた。たとひ、さう{*7}なつても議会を解散すれば勝てるに決まつてゐたが、大浦内相は機密費を以て政友会所属議員を買収し、同案の通過を図らんとしたのである。
 この買収の相談を受けた者の中には、東海組の議員が数名あつた。多分この人々の発議かと思ふが、彼らは後日を慮つてか、大浦子との会見に私にも同席してもらひたいと申し込んで来た。私は当時何も知らないから、無論喜んで立ち会つて見ると、何だか話し振りが可笑しい。そこで私は、
「国策上政府の意見に無條件で賛成するならともかく、それについて交換物を得よう{*8}といふことなら、立派な犯罪行為だ。」
と、言つた。その時大浦子はしきりに手を振つて鎮撫してゐたが、私は断乎としてその言葉を繰り返した。そのためか、三重、静岡等の東海組は結局被買収仲間に参加しなかつた。
 政友会から告発されると、私はマサカとは思つたが、大浦子の素振りが変であつたから、だんだん調べて見ると、不都合な点がある。しかし、大浦子一派は少しもやましいところはないと明言した。どうも藩閥育ちの官僚連は、政府の政策を遂行するためには、法律違反をしても、差し支へないと考へてゐるやうだ。私は常に政策遂行であれ、何であれ、法律に背いてはならぬと考へてゐる。いはんや内務大臣が法律を犯すことは、綱紀紊乱の根源である。黙過する訳にゆかぬと決心した。するとある日政府の要職に在る一友人が訪ねて来て、
「閣下は刑事政策といふものをご存知か。議員買収のよくないことくらゐは、誰でも知つてゐるが、歴代の内閣で、議員を買収しないものが、果たしてどれだけありますか。近い話が私は原君についても動きの取れない証拠を握つてゐる。しかし、そんなことぐらゐで、大政治家を葬ることは、国家の損失だと思ふから、それは私一人の胸に収めてゐる。」
と言つた。私はそこで、
「罪のあるものを罰するのは、当然の事だ。証拠があるなら、出して下さい。原君でも誰でも縛つてしまふ。」
と答へた。その時その友人は、大隈首相の処へ行つて、
「尾崎は無茶だ。大浦子が私利、私欲のためにやつたことでもないのに、自分の内閣員を縛るなどとは何事です。」
と言つたさう{*9}だが、こればかりはどうも致し方がない。しかし、問題の人は内務大臣であり、私も正義の許す限り同僚をかばひたいといふ気分から、種々研究の結果、検事総長平沼麒一郎君とも相談の上、大浦子が政界を隠退するなら、検挙せずに置かうといふことに司法省の方針を定めた。かういふ訳で、大浦子は二箇師団増設問題のために、あたら政治的生命を縮めてしまつた。気の毒の至りである。
 この問題については私にも一つの懺悔話がある。二箇師団増設問題は大正政変の最大原因であり、かねて我々の反対した処のものでもあるが、大隈内閣は総選挙後の議会で、衆議院に多数を得たのを機会にこれを通過させた。私は閣員の一人としても又議員としても、その通過に協力したのである。それには相当の理由はあつたが、随分苦しい立場でした。
 話はちと前後したが、大浦内相の辞職が決まると、今度は他の閣僚が共に辞表を捧呈しようと言ひ出した。なぜそんなことを言ひ出したかと云ふと、この内閣が大隈内閣よりもむしろ加藤内閣であることは前にも述べたが、初め加藤男に任せ切り{*10}であつた大隈伯も、だんだんやつてゐる内遂に面白くなつたやうだ。これがため加藤男及びその一派の面々も面白くなく思つてゐた処へ大浦事件が起こつた。そこで彼らは連帯責任論を持ち出し、体よく大隈首相を引退させ、名実共に加藤内閣に改造しようと考へたやうだ。私は連帯責任論に反対した。
「閣議に附せられた問題については、すべて連帯して責任を負ふべきであるが、議員買収事件は元来大浦子単独の行為であつて、吾々は事件が告発されるまで寸毫も関知しなかつた。従つてこれは連帯責任の限りではない。たゞ、総理大臣には監督不行届きの責任がある。これに関しては相当処置を取らねばなるまい。」
と云ふのが私の論拠であつた。しかるに大隈伯まで辞表に記名することになつたので、加藤高明男は例の冷笑的調子で、
「尾崎君は、一人で内閣をやりますか。伊藤内閣総辞職の時の、渡辺国武君の先例もあるから。」
と云つた。これに対して私は、
「連帯責任の意味では私は辞職はしないが、総理が辞表を出す以上は、閣僚は皆共に辞すべきものといふ見地から、私も辞表を捧呈する。又総理の辞表も連帯責任の意味であつてはならない。低い官人で云へば、進退伺ひの意味であるべき筈だ。」
と答へて辞表に記名した。すると八代海相は、横合ひから、
「憲政の神様も怪しくなつて来た。」
と嘲つた。私は又、
「かく責任の大義を明らかにするのが、憲政の神たる所以である。」
と、応酬した。丸で子供の喧嘩のやうであつた。平生は多弁な大隈伯もこの時だけは珍しく沈黙を守られた。
 大隈伯は一度は総辞職を決意されたが、留任の優詔を拝して、踏み留まることゝとなり、内閣の大改造を行つた。即ち加藤外相、若槻蔵相、八代海相が退き、高田早苗(文部)、箕浦勝人(逓信)、加藤友三郎(海軍)、石井菊次郎(外務)諸氏が入閣し、武富逓相が大蔵に廻つた。この時大隈伯は私が内務を要求すると思つたらしいが、私は一木文相を内務に推した。この改造案は大隈伯と私と偶然暗号し、ほとんど全部私の意見通りとなり、初めて{*11}私の意見が少しは行はるべき内閣が出来た。大隈伯は元来親同様な人であり、私はその門下生同様な生ひ立ちであるから、他に牽制する者がなければ、私の言ふこと、ことに正しいことは、大抵聞き容れてくれる関係であつた。

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校訂者注
 1:底本は、「しやう」。
 2:底本は、「ような」。
 3:底本は、「お談」。
 4・7・9:底本は、「そう」。
 5:底本は、「ように」。
 6:底本は、「嬉(よろこ)んだ」。
 8:底本は、「得やう」。
 10:底本は、「委せ切り」。
 11:底本は、「始めて」。