欧洲大戦と対支外交
話は少し前後したが、欧洲大戦が勃発して英吉利がこれに参戦すると、日本も英国との同盟條約によつて参戦する義務が生じた。この事について、当時は欧洲列国でさへ、あれ程の大事にならうとは思つてゐなかつたのであるから、日本で親英、親独各々見るところによつて、種々説が分かれたのも、無理はなからう。閣内でもまづ参戦の形式について、私と加藤外相との間に意見の相違があつた。加藤君は、まづ独逸に向かつて、
「結局支那に還附する目的を以て、膠州湾の占領地を日本に引き渡せ。」と交渉し、これに応じなければ、それを口実に宣戦しよう{*1}と云ふ。私はそれには反対で、
「膠州湾をただちに支那に返せと云ふなら多少の理屈にはなるが、元来縁もゆかりもない日本が突然横合ひから、己に引き渡せと云ふのは無理な註文だ。これでは独逸は同意したくとも同意出来よう{*2}筈がない。そんな無理を云はずとも、日英同盟のよしみによつて、やむを得ず宣戦するといふ一片の通告をするが宜しい。」
と主張したが、結局外相案が実行された。しかし、そのため、後日支那との交渉の邪魔になり、膠州湾を還すと云つても、支那はありがたいとも思はなかつた。私の主張する如くに宣戦し、膠州湾を攻略して置けば、還す時には、支那に向かつて好意の土産物となつたであらう。
それから、英国に対する参戦通知についても私と加藤外相の意見が合はなかつた。外相は英国政府に照会を発しよう{*3}と言つたので、私は、
「英国政府の意見を聴く必要はない。條約の明文によつて直ちに同盟のよしみを尽くす方がよい。」
と主張した。これも外相案が行はれて、英国に参戦方について照会を発したところが、英国からは私が懸念した通り、しばらく待つてくれと云ふ意味の返事が来た。無理もないことで、当時は戦争が始まつたばかりで、英国政府は未だ自分の危険などは余り感じない時であつたから、むしろ日本の勢力が支那大陸及び支那海に大いに伸びるのを快く思はなかつたであらう。
その頃、私も閣員として陸軍将校の戦況講釈をしばしば聞いたが、その多くは局部々々の専門的観察ばかりで、大局については、余り感心出来なかつた。終局における独逸の勝利が先入主となつてゐたらしい。もちろん私は専門家でないから、戦場の勝敗は分からないが、独逸が陸戦に勝つて欧洲大陸を蓆捲したところで、最後はナポレオン戦争時代のやうになると思つた。文字通り孤立無援であつた英国も、遂にナポレオンを破つて勝利を収めたことを考へれば、亜米利加が独逸の敵にならなくとも中立を守り、その上日本が英国を助ける以上、独逸はいかに欧洲大陸で勝つても、結局敗北する事は、疑ひを容れる余地がないと私は信じてゐた。
この大戦中に、支那では袁世凱の登極問題が起こつて、国論は賛否相分かれ、内乱の徴があつた。袁が支那皇帝たらんとする野望は、当時列国もこれを予期し、我が国の元老達も暗にこれを認めてゐた模様であつたが、そのために支那が乱れては日本に大害があり、東西に大乱が起こつて、世界はいよいよ収拾すべからざるものになる。故に我が国としては袁に即位強行を思ひ止まらせるやうに尽力すべきである。我が国が率先してこれを提唱すれば、英、仏、米等も付随して来るであらうと考へた。ある日閣議の席上で右の意見を述べて見た。しかし、当時は内閣改造直後で、石井外相はまだ帰国途中で留守だつたし、元老方面の意向も右のやうな{*4}始末であつたから、余り賛成者もなかつた。ところがその後、外務省から幣原次官と小池局長が内閣へ、何かの報告に来た時、私は両君を相手に雑談しながら、自説を持ち出して、
「どうだ。今、袁世凱の即位に反対の忠告を発議すれば、英米諸国は、我に付随して来るだらう。さう{*5}すれば、従来の追従者が一変して主導者になることも出来る。しかもその事が世界の利益になると思ふが、外務省の諸君はどう考へるか。」
と尋ねた。閣僚は皆黙つて聞いてゐたが、この時覇気満々たる小池局長は次官を差し置いて、
「それを日本が発議すれば、列国は付いて来ると思ふ。」
と即座に私と同意見なる旨を述べ、つゞいて幣原次官も、ほぼほぼ同様な意味を述べた。さうなると、これまで同意しなかつた大隈総理はじめ各閣僚まで、
「それは面白い。やつて見たらどうか。」と云ふことになつたので、私はこの機逸すべからずと、外務省をして列国の意向を探らせると、果たして帝政反対といふことが判つた。そこで石井外相の帰朝を待ち、改めて閣議の決定を経て英、米、仏に交渉した。すると列国はたちまちこれに賛成し、伊太利までも参加して十月二十八日(大正四年)に対支連名通達を発したが、これには袁世凱も非常に狼狽したらしい。従来追随外交ばかりやつて居た日本が主導的{*6}位地に立ち、しかも老獪な袁は我が山県、井上の両元老をはじめ、大隈首相らの意中もかねて確かめ、反対しないと見極めてゐたのだから、どうしてこんな故障が起こつたか全く見当がつかない。ひとり袁のみならず、山県公もどうしてこんな妙なことになつたか分からず、首相、外相に厳しく叱言を云つたやうである。
かくて袁の即位は大打撃を蒙つたが、我が元老、ことに山県、井上両公の如きは、政府と意見を異にし、援袁政策を抱懐してゐることを知つてゐたから、袁は我が通告を甘く見て、即位を強行しようとした。ちやうどその時、駐支英国公使のジヨルダン氏が、日本に引きずられて口惜しかつたか、ひそかに袁に即位強行を進言した。と、果たせるかな、袁討伐の兵は各地に起こつて、支那は一朝にして平和を失つてしまひ、列国の協調も怪しくなつて来た。しかも内では山県公に責められて弱音を吐くものも出来て来た。そこで私は、
「列国中協調を紊るやうな者があるなら、その本国にかけ合つて、厳重に戒告せしむべきである。」
と主張し、英国の外務省に一本突つ込ませると、先方は素直に我が言ひ分を容れて、駐支公使に対し、
「爾後支那関係の問題については、同盟国たる日本と打ち合はせなしに、単独行動を取つては相ならぬ。」と云ふやうな訓令を発し、同時に帝国政府にもこれを内示した。これまで支那において、万事主導的位置を執つてゐた英吉利としては、重大なる譲歩であり、日本の外交としては、大きな収穫であつた。しかし国内では山県公などが帝政反対の取り消しを執拗に迫つたので、遂には大隈首相も、
「この辺で大抵にして打ち切らう。」と言ひ出した。さうなつては、仕方がない。私は辞職を決心すると共に、最後の案を有り合はせた小紙片に書いて閣議に提出し、少なくとも、これだけのことを実行すれば格別、
「そんな元老などの言で、せつかく確保した日本の主導的{*7}地位を放棄するやうなことをするなら、自分はこの場で辞職して事の顛末を世論に訴へ、諸君と決戦しよう。」
と言ひ放つた。大分悶着があつたが、それ程までに云ふならと、結局私の提案が容れられた。私がその時小さな紙片に認めた記録は、今でも外務省に保存してあらうと思ふ。
大隈内閣は、対支二十一箇條要求で、不手際を演じたが、この一事は、支那に対して、その不手際を、償つて余りあると、私は考へてゐる。支那の排日論者は、所謂二十一ケ條問題のみを疾呼せず、共和政体の倒壊を救はれた恩誼をも、回想すべきである。私自身としては、誤つて二十一箇條問題に賛成した大失策を、この一挙によつて取り返し、なほ御礼を受くべき権利があると思つてゐる。一人の私が居なかつたなら、支那の共和政体は、二十余年の前に倒壊し、支那四億の民衆は、今ごろは、袁家の専制政治に圧伏せられ、又苦悩してゐるであらう。
三派合同と私の目算
大隈内閣改造後、私は閣員としてご即位の大典に奉仕するの光栄に浴した。十一月中頃の京都は大分寒かつた。ことに大嘗祭の暁には、霜さへ降りて寒さはひとしほ{*8}身にしみた。天子様もお寒くあらせられるだらうとご心配申し上げた。私などは平常猟師で、壮健を誇つてはゐたが、あの時は、大礼服の下へウンと保温衣を著込んで{*9}、懐炉を五つも持つて行つた。それでも尚かつ寒かつた。灯も凍るこの寒夜に、玉体はいかゞ{*10}あらせらるゝ、もしやおかぜでも召さるゝやうの事があつてはと心配した。
あたかも世界大戦が日本に関する限り、一段落が付いて、論功行賞が行はれた時であるから、この大典に際して叙爵陞爵の議も起こつた。陸海軍両大臣は男爵を授けられ、前外相加藤男は子爵に陞爵された。桂流にやれば閣僚にも及ぼさるべきであつたが、衆議院に在ることを以て一生の任務とする私は、万が一にも叙爵の恩命を拝するやうなことがあつては、衆議院を去らねばならなくなると憂慮し、予め大隈伯に内談して、さういふことのないやうにしてもらつた。
この時、福沢諭吉先生にも、贈位のご沙汰がありかけた。三田の連中は、それは故人{*11}の志でないと云つて拝辞の運動を起こしたが、せつかくの恩命であつて見れば、辞退は出来さうにもないと云ふことになつた。私はふとその事を聞いたから、早速係{*12}の人々と懇談して、遂に贈位の御沙汰の下らないやうにした。
辞退の話ばかりしたから、今度は文豪小泉八雲氏――帰化外人ラフカーヂヲ・ハールン――に対する贈位の御沙汰を請うた{*13}事について語らう。小泉氏程文筆の力で、日本の名声を全世界に紹介した人はない。私はその勲労を顕彰するため、何らかの恩典があつてしかるべきだと思つたから、それまでもたびたび当局者に進言したが、ハールンの名さへ知らない閣僚があるくらゐだから、なかなか問題にならなかつた。そこで、国民の一人として、せめては面会して謝辞でも述べたいと思つて、高田早苗君を介して面会を申し込んだ。小泉氏は非常な近眼であるのみならず、容貌風采も揚がらなかつた人なので、大の面会嫌ひであつたが、珍しく私の申し込みを承諾してくれたばかりか、進んで私を訪問すると云つて、その日時までも約束した。
ところが、その数日前になつて、突然面会を謝絶して来た。私は小泉氏が常になく自ら訪問する約束をしながら、この挙に出でたのは、何か重大な理由がなければならないと、不思議に思つて様子を探ると、これは意外、彼は、
「尾崎は英国婦人と結婚し、これを虐待し、かつ離縁した人物だ。」
といふ事を知つて、大いに憤慨し、面会謝絶となつたことが分かつた。高田君はかう理由が分かると、それは尾崎違ひで、ユキヲ尾崎は、その離縁された英国婦人の令嬢に同情して、これと結婚してゐる事を説明し、私のために冤を弁じて、再び斡旋してくれた。すると、小泉氏も深くその粗忽を謝し、重ねて私を訪問する約束をされたが、その後間もなく病を得て長逝され、遂に親しく面会する機を得なかつた。だから私は御即位の御大典に際し、贈位のご沙汰を拝するために、多少なりとも尽力することが出来、しかもその望みを達することが出来たのは、本懐の至りである。
御即位の大典を滞りなく済ますと、元老の大隈内閣いぢめ{*14}が、いよいよ露骨となつた。対支政策について、事ごとに政府を牽制したことは前にも述べたが、藩閥から見れば、桂、山本、両内閣を倒した政友会の多数の力を打ち破つてしまへば、もはや大隈内閣の使命は、終はつたとでも考へたのであらう。盛んに嫌がらせをやつて、倒閣促進を図つた。大隈伯も何分八十歳の高齢であるから、大分疲労したものと見え、やめたかつたらしい。しかし藩閥者流の専恣に快くなかつた伯は、
「もう大抵にして辞職したいけれど、後任者がなくて困る。」
といふことを時々漏らされた。内外の情勢が、かうなつては、大隈内閣も長いことはない。私はある時、大隈伯に向かつて、
「後任者は棄てゝ置いては、いつまで経つても出来る筈はない。しかし、造れば出来る。現在同志会、中正会、及び公友会の三派は連合して政府を支持してゐるが、この儘ではなかなか後任者は出来ないから、三派を合同して、議会の絶対過半数を制する所の新団体を組織し、加藤高明子をその首領に推せば、加藤子は自然に伯の後任者となる事が出来る。但し、大政党といふものは、造つても一年ぐらゐ訓練しなければ、とても立派な働きは出来ないから、伯が、もう一年辛抱する覚悟があれば、私は合同に賛成して、一大政党を組織し、加藤子をその首領とすることに同意する。万やむなくんば半年でも宜しい。が、合同が出来たからと云つて、すぐ伯が辞職するやうな事なら、私は合同に賛成しない。少なくとも私の居る中正会は、参加しない。」
と言つた。大隈伯はこれを聞くと、
「それはよからう。将来の政局のことは、予測し得ないが、事情の許す限り、新党組織後およそ一ケ年間くらゐなら、在職の約束をしても宜しいから、是非新党を造つてくれ。」
と私の意見に同意された。そこで私も初めて{*15}連合三派を合同して、憲政会を造ることに同意し、大隈伯も確か三月中頃であつたと思ふが、政務奏上に参内の折、老齢の故を以て辞意を内奏し、併せて他日適当の機会に骸骨を乞ひ、後任に加藤子を推挙つかまつるであらうといふことを上聞に達した。
かうして、憲政会の組織が目鼻がつくと、加藤子はじめ旧同志会会員は待ちあぐんで居つたものゝやうに、内閣組織をアセリ出し、しきりと大隈総理に辞職を迫つた。
一方大隈伯からさきの内奏の趣を打ち明けられた山県公は、加藤内閣絶対排撃の秘策を廻らして、後継内閣横取りの議を凝らした。この内外からの陰謀策動には、さすが楽天家の大隈伯も当惑されたやうであつたが、憲政会が十日には結党式を挙げるといふ十月四日、突如参内して正式に辞表を捧呈し、その後、はじめて私に報告された。これで私の合同の目的は根本から覆へされてしまつた。私は実に憤懣に堪へなかつたが、既に出してしまつた辞表は、どうすることも出来ない。
大隈総理は辞表を捧呈すると共に、加藤子を後任に奏薦して、我が事終はれりと、御前を退下したが、元老はこの時早く宮中に会議を開き、加藤子を排して、寺内正毅大将を後継首相に奏薦し、大隈伯が退下して数時間を出でざる午後二時、大命は寺内大将に降下した。確か閣僚の辞表は未だ捧呈ずみにならなかつた時であつたから、世間はたちまち元老の専横と、寺内内閣の非立憲を非難した。後この内閣と提携した政友会すら、主義においては反対であると明言した。
校訂者注
1・3:底本は、「しやう」。
2:底本は、「出来やう」。
4:底本は、「ような」。
5:底本は、「そう」。
6・7:底本は、「主動的」。
8:底本は、「一入」。
9:底本は、「著込んで」。
10:底本は、「如何」。
11:底本は、「古人(こじん)」。
12:底本は、「掛(かゝ)り」。
13:底本は、「請ふた」。
14:底本は、「虐め」。
15:底本は、「始めて」。

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