閥族の再現

「挙国一致の実を挙ぐる{*1}に政党に基礎を置くは、その宜しきを得る所以にあらず。故に吾が内閣はいづれの政党にも超然たり」とは、寺内内閣が、その出現にあたつて堂々天下に披瀝した言葉であるが、たとひ元老に恃むところありとはいへ、政党操縦の名手と謳はれた桂公すら、自ら政党を組織せざるを得なくなつた時勢に、これは又驚くべき時代錯誤である。たちまち挙国の反対に遭つたのは不思議ではない。すると政府は巧みに政友会を篭絡してこれと提携し、前内閣の対支外交を素破抜いて、局面の転換を図つた。
 これより先、我々が内閣に在つた頃既に寺内内閣の内務大臣となつた後藤新平君が、対支外交を糾弾して秘密文書を各方面に配布したことがある。つまらぬ流説であつて、仮に事実としても、閥族にとつて毫も利益になるものではなく、むしろ不利益になるやうなものであつた。この不可解な挙動を寺内内閣はその儘継続し、前内閣の揚げ足取りを試みた。実は素破抜かれても、差し支へない程のことばかりであつたが、外交上形式的に秘密になつて居つたのを、彼らは秘密会を開いて素破抜いたのである。そこで私は逆襲して、
{素破抜かれたことは、前内閣の利益である。もし、その事が悪いならば、それに参加して居つた陸海軍両大臣を、依然として寺内内閣に留任せしめて置くのは、不都合である。なぜ両大臣を辞職させないのか。又両大臣は何故辞職しないのか。」
と{*3}詰め寄つた。これには政府及び与党も、大いに閉口して、早々に{*4}この問題を打ち切つてしまつた。私はこれでとゞめを刺したも同様、敵は再び盛り返すことが出来ないであらうと、凱旋将軍の如く、凱歌を奏して引き揚げた。ところが、翌朝新聞を見ると、何ぞ図らん、私の逆襲の模様は、少しも書いてないのみならず、かへつて前内閣は対支政策をあばかれて、非常な窮境に陥つたやうに書いてある。一夜の中に政府の新聞政策が成功して、事実とは全く正反対の人造的与論が作られたのだ。私はしまつたと思つたが既に遅かつた。いつも陣立て及び戦闘ぶりは、相当によいが、その結末をつけないのが、私の欠点で、よく失敗を繰り返す。
 この失敗で思ひ出すのは楠本正隆男の言葉だ。この人は維新時代から働いた人で、後に元老院議官、三代目の衆議院議長にもなり、吾々と一緒に政党領袖として活動したが、どこかシメクヽリのないやうにも見えたため、口さがなき京童は、「マヌ団」と仇名した。間抜けた団十郎といふ意味であらう。しかし、なかなか鋭いところがあつて、酒を飲むと、よく私をからかつて、
「尾崎君が床几に腰を掛けた大将振りは、なかなか立派だが、よく見ると、抜き身の槍を小脇に抱へ込んでゐる。大将が床几に腰を掛ける時には、槍の代はりに、采配を持つたら、なほよく似合ふだらうに、采配の代はりに槍を持つて居て、しかも、その槍が、鞘を払つた抜き身であるのは変だ。」
と言つた。これには私も感心して、自ら反省したが、どうも采配の代はりに、抜き身の槍を執る癖が止まない。
 余談にわたつたが、寺内内閣が出現すると、我々同志はこれを目して閥族の再現となし、所謂討閥運動を起こし、或は集会を開いて決議を行ひ、或は演説会を開いて公衆に訴へたが、この運動は年を越えて大正六年の春まで盛んに続いた。私もしばしば演説会へ出たが、何回となく暴徒に襲撃された。演説会へ臨むごとに、暴徒が必ず飛び出すやうになつた。昔は、随分政治上に壮士を使つたが、もう大正年代になると、大分少なくなつて居た。必ずしも寺内内閣が使嗾した訳でもなからうが、暴徒の横行は黙許されてゐたやうだ。ことに一月二十四日新富座に開いた演説会の如きは、形勢が不穏であると云ふので、数百名の巡査が警戒してゐたにも拘らず、暴徒は各所に起つて妨碍したが、一人の壮漢は飛鳥の如く警戒線を突破して演壇に飛び登り、短刀様のものを逆手に振り上げ、私の胸を目がけて打ち込んだ。この時まで演壇に直立してゐた私は壮漢が打ち込む途端に身を交はしたため壮漢の短刀は空を切つた。私を護衛してゐた森本一雄君は壮漢の襟首を小脇にかひ込んで引きずり降ろした。それから大騒動になつて、私は敵か味方か見分けの付かない多数の人々のために、演壇から引きずり降ろされて、ある小さな室の中に押し込められた。どうするつもりかと訝る間もなく、その内の一人が、
「先生しばらくこゝにおいで下さい。」
と云つたので、初めて{*5}味方と知つた。しばらくそこに居ると、やがて会場の秩序も回復したから、再び演説せよと云ふので、再び演壇に立つたが、その時自分ながら不思議に思つたのは、私が暴漢に襲はれた時の言葉の続きを覚えてゐて、何事もなかつたかの如くこれを継続して行くことが出来た一事である。私は平生自分ながら臆病者と思つてゐるから、こんなことが出来よう{*6}とは夢にも思はなかつた。どうして出来たのか、今日考へて見ても分からない。多分二度とは出来ないのであらう。当日その光景を目撃したものは、皆驚いたやうだ。石川半山が記述したその日の状況は私の全集の第十巻に載せてある{*7}。
 犬養君が自ら陣頭に立つて、寺内内閣不信任を提議したのは、反政府運動の浪に乗つたものであつて、たちまち衆議院各派の支持を得た。排閥運動を冷眼視してゐた政友会には木堂自ら折衝して中立の態度を執らしめ、賛成憲政会百九十八名、国民党二十八名、公正会十八名、合計二百四十一名、議会三分の二の多数署名を以て、一月二十五日議会に提出された。
 犬養君の国民党は、元来憲政会の敵で、寺内内閣にとつてはむしろ味方と言ふべき立場にあつた。その国民党が不信任案提出を発議したのは、憲政会を引きずつて政府に衆議院を解散せしめ、我々に一大打撃を与へるための反間苦肉の計である事は見えすいてゐた。こんな虚偽の弾劾案はこれを一笑に付して蹴飛ばしてしまつてもよかつたのだが、元来名分にとらはれる習癖のある私は、木堂の毒計と知りつゝこれに乗つて、虚偽の弾劾案を一変して、真誠のものとなすべく試みた。又政府に解散の決心ある以上は、無理にこの決議案を葬つても、結局解散されるに相違ない。かたがた以て偽計と知りつゝこれに賛成した。

外交調査会と西比利出兵

 さて、不信任案上程の当日となると、厳正中立を標榜した政友会は公然不信任案反対を唱へて、政府の歓心を得ることに努めた。犬養君の不信任案提案説明が終はると、政友会の元田肇君が反対演説をなし、次に私が賛成演説をなすべく演壇に登つて行くと、政府は突然解散の詔勅を出した。普通ならば、私の弾劾演説の後に採決があつて、その後で解散する筈であるのに、政府は狼狽の余り、この挙に出たのださうだ{*9}。
 なぜ政府はこんなに狼狽して、私の演説を遮つたのかと、だんだん聞いて見ると、寺内首相は私が桂公を弾劾した時の模様を熟知してゐるために、
「尾崎はどうも催眠術か何か魔法を使ふやうだ。それに掛けられて失態でも示すと、政府の威厳を汚すから、どうしても彼に演説をさせてはいけない。」
と言つて、私が演壇に登る途端に解散をしたと云ふ説もあつた。マサカとは思ふが、書記官長が解散のご詔勅を板の間に落とした周章ぶりを見ると、本当らしくもある。事実はどうあらうとも私に演説をさせないで解散するとは、卑怯千万な振る舞ひである。
 総選挙は四月二十日に行はれたが、犬養君の策略が当たつて、憲政会はひどい目にあつた。政府はこの時、「不自然なる多数党の打破」と称し、中央官吏を派し、選挙取り締りの美名に隠れて干渉を督励せしめ、さらに政権を濫用して、在郷軍人会、自治団体、学校職員、官公吏をして与党を助けさせた。かくて選挙後の政府は鞏固な地盤に立ち、その年六月に開かれた第三十九特別議会には、憲政会は内閣不信任案を提出したが、簡単に否決されてしまつた。
 寺内首相は、口に超然主義を唱へながら、総選挙が終はると間もなく、外交調査会を拵へて、各党々首をこれに祭り込まんとした。これは三浦観樹将軍の発議になつたもので、外交を政争以外に置きたいと云ふのが、その口実であつたが、実は内閣に屋上屋を架するものでなければ、政党に箝口法を施したものに外ならない。憲政会からも、加藤総裁を採ると云つて来たが、私はそれに反対した。加藤男も外交界の第一人者を以て自ら任じてゐたから、素人仲間に入るのは嫌であつたと見えて参加しなかつた。私と加藤男とはいつも意見が合はなかつたが、この時だけは不思議にも一致した。
 この外交調査会の賛成した寺内内閣の仕事に、シベリヤ出兵事件がある。これには全国大いに賛成してゐたやうだが、私は初めから大反対であつた。なぜかと云へば、シベリヤ{*9}出兵はアメリカの発議によつて、チエツク・スロバツク兵を救援するのがその目的であつたが、人道主義や理想主義のアメリカと事を共にしては、他日になつて衝突する惧れがある。従来なら格別、欧洲大戦の結果として、他国に防禦がないからと云つて、その虚に乗じて無理をすることは、世界の与論が許さない世の中になつた。他日多くの年月を経た後は、またどう変るか知れないが、少なくとも当分の間は、力づくで、横車を押すことは出来ない。日本に世界を相手にする実力がない限り、シベリヤに兵を出して、奇利を得よう{*10}とするが如きは、他日に禍根を残すだけで、無謀の極だと思つたから、大いに反対をしたのである。初めは山県公もたしかに出兵反対と聞いてゐたから、私は安心してゐたが、公はいつの間にか口説き落とされてしまつた。我が国は予定以上の大軍を出したが、チエツク・スロバキアの兵を救ひ出した後は、アメリカはかねての声明通り、さつさつと兵を引き揚げた。日本だけ後に残つたが何事も出来ず、空しく歳月を閲する内に六億円余りの大金をシベリヤの荒野に費やし、数千の傷病兵を出したのみならず、尼港の虐殺事件を引き起こした。その謝罪すらさせることが出来ず、恥辱と損害だけを土産に引き揚げることになつた。
 第三十九議会閉会頃から第四十議会へかけて、内外の国事はすこぶる多端であつた。外には日米條約の外露国大革命の勃発、地中海軍艦派遣、対支借款問題等があり、内には世界大戦による物価の狂騰と、これに伴ふ奸商の頻出があつた。政府は九月一日暴利取締令を公布して、奸商を戒飭すると共に、小額紙幣を発行し、或は船舶管理令その他の法律を設けて、物価の昂騰を緩和せんとしたが、その目的は達せられず、生活はいよいよ不安に陥り人心は恟々たるものがあつた。そして人心不安を防止するために、言論圧迫が行はれて、いやが上にも人心を不安ならしめた。
 大正七年になると、物価はますます騰貴し、ことに米価の如きは、その昂騰、底止する所なく、とうとう大隈内閣当時の約三倍の高値に暴騰して、有名な米騒動の勃発となつた。この時畏き辺りでは、三百万円を救恤のため御下賜遊ばされた。誠に畏れ多く又ありがたい次第である。こゝに至つてさすがの寺内首相も、米価調節の失敗と、暴動勃発の責めを不健康に引きくるめて、九月二十一日総辞職をした。
 寺内内閣が倒れると、お召しによつて元老会議が開かれた。元老の意向は西園寺侯の出蘆を望んだが、侯はこれを拒絶し、政友会総裁原君を推薦した。かくて大命は原君に降下し、日本に初めての平民内閣が九月二十七日に生まれ出でた。これまでは政友会も、官僚もしくは軍閥と妥協提携して居つたのだから、思ふやうに平生の持論を行ふことが出来なかつたが、今度は純然たる政友会内閣が出来たから、多年の持論をいくばくか行ふのであらうと考へて、私はしばらく好意的中立の態度をとつた。歴代の内閣はすべてこれを攻撃したが、原内閣だけは攻撃しなかつた。それがために、私は政友会からはしきりに感謝の言葉を受けた。攻撃しないためにお礼を云はれるのは、珍しいことだが、常に悪口するものは、悪口しないだけで、礼を云はれる。悪口屋の一得とでも申してよからう。

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校訂者注
 1:底本は、「挙げる」。
 2:底本は、「拙らぬ」。
 3:底本、ここは一字下げてある。
 4:底本は、「怱々に」。
 5:底本は、「始めて」。
 6:底本は、「出来やう」。
 7:『尾崎行雄全集 第十巻』(1927刊)153頁~157頁所収 石川半山著「壇上に於ける尾崎の豪胆」。
 8:底本は、「そうだ」。
 9:底本は、「シベリア」。
 10:底本は、「得やう」。