戦後の欧米視察

 六年にわたつた世界大戦も漸く終はり、ヴエルサイユに講話会議が開始される頃から、民主的思想は我が国でも流行の勢ひを強め、階級打破を叫ぶ声がやかましくなると同時に、労働者と資本家の反抗的気分もだんだん増加して来た。
 欧米列国人の思想感情も、従来とは大いに変化して来たやうだから、戦後の世界はどうなるか、特に戦争の創痍は、どうして医するかといふことゝ、それに対する日本の立場を研究するため、私は欧米視察を思ひ立つた。児行輝を伴なひ、田川大吉郎、望月小太郎、鈴木正吾、横山雄偉、森本一雄の諸君と共に、大正八年三月十七日に春洋丸で横浜を出帆した。
 私は元来船に弱い方で、いつも乗つてから三昼夜ぐらゐはベツド{*1}に横になつてゐる。ところが今度は横浜を出る時に、どうした拍子か、寝ることを忘れて、甲板で遊んでゐたが一向平気である。仮装行列などもやり、なかなか賑やかな航海であつた。
 船中で偶然、支那の汪兆銘と一緒になつた。身体は大きいが、実に品の良い柔和な美男子である。一見貴公子で皇族と云つても通りさうな風采で、握手して見ると、その柔らかさは丸で女のやうである。これが爆裂弾の専門家かと、実に意外に思はれた。年もまだ若い。あの年輩で、あれだけの名を成すとは、実にえらいものだ。
 十六日間の航海の後、吾々は無事サンフランシスコに上陸し、それから北方のシヤトルに行つた。もともと今度の旅行は物見遊山のためではなかつたが、米国の横断鉄道は、既に二回の旅行で南北二線ともに知つてゐるから、シヤトルで同行者と別れ、私は鈴木君と共にカナダ線でニユーヨークに行つた。
 四月初めのことであるから、ロツキー山の景勝は、まだ雪で被はれ、ホテルなども皆閉めてあつた。別に見るものもなく、一路ニユーヨークに直行し、少しばかり滞留しただけで、英京ロンドンに渡つた。
 ロンドンにはそれから十月初め頃まで居た。あたかも講話会議が開かれて居る際ではあり、世界の情報もこの地に集まつてゐるので、何かにつけて便利と思つたからである。
 ニユーヨークからロンドンへ大西洋を渡る時にも、私は不思議に平気であつた。太平洋でもさうであつたが、今度も海が荒れて食堂を欠席する人も多かつたのに、私はとうとう一度も欠かさなかつた。このやうに船に平気になつたのも、神経の鈍くなつたせいだらう。景色にしても、三十年前に忘れられるほど佳いと思つた景色が、二十年後に再び行つて見ると、余り大した感じがない。ラインの眺めなどは、初めての時は実に佳いと思つたが、二度目にはさほどに思はなかつた。初めて渡英した折、グラツドストーンと握手すると、何だか電気にでも打たれたやうな感じがした。愉快なのか面白いのか、全身に一種云ふに云へない感じを覚えた。ソレばかりではない。イギリスの土地を踏むこと自身が、既に感動を与へた。これがピツトの出たイギリスかなどゝ思ふと、土が電気のやうに全身に作用した。ところが、二十年後に行つた時には、クレマンソーも、ロイドヂヨーヂも、余り私に感動を与へなかつた。今度はなほさらその感が深かつた。
 日本を発つ前に、日本では外国から色々な新思想が入つて来て、世人多くはその方向に迷ふ状態であつたが、身自ら欧米に遊んで見ると、所謂新思想なるものは既に旧思想となつてゐた。日本ではこれまで堤防を築いて外国思想の輸入を防いで居たから、新しいと思つたので、ラサールにしろ、マルクスにしろ、いづれも六七十年以上も前のものであつて、それ以外には別段新思想と云ふべきものはないやうに思はれた。私は多少の失望を禁じ得なかつた。
 かくてひとたびは失望したが、さてその実行方面を見ると、私もはるばるこゝまで来た甲斐があると思つた。それ程欧米の社会主義的傾向は強かつた。私も故国では相当進歩的に考へてゐたが、とても私の想像とは比較にならぬ程社会主義的思想が強烈であつた。その上、良かれ悪しかれ、世界はこの思想を中心として、こゝしばらくの間は動くことは明白だ。日本もこの嵐の中に立つて、地歩を運ばなければならないとすれば、私の視察も無駄ではないと考へた。この思想の急潮がどうして生まれたかと云へば、それは今度の戦争で欧米各国政府はどうしても、多数の力によらなければならないと云ふ事を、従前以上に深く感じた結果である。多数と云へば無産階級であるが、無産階級も多数の力、即ち自分らの力の偉大なることを自覚した。この無産階級の自覚と他覚が、マルクスやラサールの思想を俄かに活躍せしめた一大原因である。
 ロンドンで、デイリー・メール社を見に行つた。三十余年前に渡英した時も、新聞社を見たが、その時は、ピアノのやうなものを叩いて、版を組んでゐた。今度行つて見ると、やはりピアノ型のものを叩くのだが、例へば「ユキオ・ヲザキ」が一つの鉛版になつて、コトンと落ちて出て来ると云ふ風であつた。何千種といふ漢字を使はねばならぬ日本では、こんな便利な仕事は出来ない。
 漢字のために我が国人は、どれだけ損をしてゐるか分からない。アメリカにゐる日本人の子供と、本国の子供を比較すると、本国のは少なくとも、一年ぐらゐ余りは智識が後れてゐる。漢字全体は容易でないにしても、第二国語としてエスペラント語のやうなものを小学校から教へたらよからう。
 日曜日の午後などにハイド・パークに行つて見ると、あちら{*2}でも、こちらでも演説をやつてゐる。実に盛んなもので、クリストの十字架の像を掲げて説教をやつてゐるかと思ふと、その隣では、無神論をやつてゐる。共和主義の演説をやつてゐる隣で、君主々義の演説をやつてゐると云ふ調子で、ソレが時々お互に聞こえるので、議論を始めることがある。聴衆も、共和主義を聴いてゐるかと思へば、君主々義の方へも行つて見るといふ風で、誠に自由だ。
 言論を自由にしておけば、思つた事を演説して、ソレで賛成者を得ることが出来ると思つて満足する。実際は宣伝によつて、さう賛成者を得られるものではないのだが、とにかく本人は、それで気休めをすることが出来る。ところが思想の自由を認めず、言論を圧迫すれば、鬱結して結局爆発することになる。宣伝が出来なければ、他の手段に訴へよう{*3}とするのは、自然の人情であつて、その結果は暴行になる。

言語に絶する戦ひの後

 六月下旬に講和{*4}條約が調印されたので、英国では七月十九日に国民祝賀祭をやつた。この日はロンドンは満都花の如く飾られ、実に盛んなものであつた。私もその様子を見にトラフアルガル・スクウエヤーへ行つたが、いやもう非常な人出で、これが平生は牛の如く落ち着いた英人の言行かと疑はれる程の騒ぎで、丸で子供のやうに狂喜してゐた。大道で男女相抱擁して踊つてゐるかと思へば、大声を放つて歌つてもゐる。婦人連も昔の英国のレデーと異なつて、大戦以来すこぶる男性化したから、実によく騒ぐ。針金で作つた二尺ばかりの棒の先に毛の付けたものを一本五十銭で売つてゐたが、それで道行く人の顔や頚を撫で廻る。私も大きなレデーに撫で廻されて弱つた。とうとう地下鉄に逃げこんだが、六尺豊かの巡査が撫でられて、怒りもならず笑ひもせず、目を丸くして、のつそりといたづら者を見向く体裁などは実に滑稽であつた。また廻すとギリギリと音のする物もあつて、それを不意に人の耳の傍で鳴らす。五色の紙を細かく切つたのをポケツトに入れて居て、人の頭からそれを振り掛ける。文字通りの無礼講で、大変な浮かれ方であつた。沈着な英人がこんな騒ぎをするのを見ても、戦争中の艱苦がいかに劇甚であつたかが想像される。
 九月の中頃に私はロンドンからパリーに行き、すぐに有名なヴエルダンの戦跡をとぶらひ、又ベルジウムに行つて、十日間ばかりフランスとベルジウムの戦場見物をした。私は戦争に従軍したこともなければ、又それまで戦場を見たこともなかつたが、とにかくポムペイの廃墟を標準にして想像を書いたら、大した間違ひはあるまいと考へた。
 ポムペイは云ふまでもなく、イタリーの古い繁華な都会であるが、今からおよそ二千年程前にヴエスヴイアス火山の噴火のため、一朝にして地下に埋没し、三百年余り前になつて偶然発掘され始めたのである。私も昔洋行した時、発掘してゐる所を見に行つたことがあるが、家でも道でも埋没前のまゝで掘り出されてゐた。人や犬が窒息苦悶してゐるまゝで転がつてゐる。実に惨憺たるものであつた。しかし、今回の戦跡はとてもそれとは比べ物にならないほど凄惨なのには、私は呆れ果てゝしまつた。
 市街は全く破壊されて、影も形もなく、たゞ一面の草原になつて、礎一つ見えない。いくら案内者に説明されても、さうかとは思はれない処がいくらもある。市街の跡といふ実感は少しも浮かんで来ない。同行の田川君は日清、日露の両役に従軍してゐるが、とても比べ物にはならないと云つてゐた。
 ヴエルダンの周囲は山と云ふよりも丘陵であつて、すり鉢の底のやうな所に有名な砲台がある。丘陵には大森林があるが、それは丸で草でも刈つたやうに、木がことごとく下から一尺五寸ぐらゐの処で打ち切られて、その先がさゝらのやうになつてゐた。無論砲弾で打ち切られたのであらう。どこへ行つて見ても、兜だの剣だのが散乱してゐた。見渡す限り塹壕と鉄條網とが天に連なつてゐて、破壊されたタンクがまだそのまゝあつた。とにかく戦場は、丸で鉄と銅と鉛などの大鉱山だ。惨憺たる光景は言語に絶する。どんな天変地異でも、とてもあれだけの破壊は出来まいと思つた。
 戦場見物中、私が日本で考へてゐたのとは、全く反対であつたのはベルジウムである。ドイツは余程ベルジウムに対しては、懐柔政策を執つたものらしい。例へば、ブラツセルの王宮の如きは、護衛兵を付けて、何人にも入ることを禁じてゐたと云ふくらゐで、普通ならば本営をあの王宮に置きさうなもので、少なくともドイツの国旗を宮上に翻す筈なのに、それすらしなかつた。ブラツセルに侵入したドイツ軍は、旅館その他の家の真鍮の金物などを外して持つて行つたと聞いたが、私の泊まつたホテル・アストリアと云ふ旅館では、さらにそんな様子は見えなかつた。或は再び取り付けたのかも知れないが、どうもさうは思はれなかつた。ホテル・アストリアは私がこの前往つた時にも泊まつた旅館である。
 とにかく、億兆の巨費を硝煙と化し、何百万、何千万といふ良民を死傷せしめ、理義不分明な戦闘を六年も続けたのであるから、その愚劣、実に驚く外はない。私は人間の無際限なる愚劣さ加減を見に来たやうなものだ。
 かうして戦場を見物し、欧洲の社会に接して見ると、欧洲は混乱動揺してゐて、未だ静平に復してゐないことがよく判つたが、その混乱については何も分からぬと云ふのが本当であらう。私が到着した頃は、日頃は堅実で計算上手のイギリス人ですら、戦費をどう始末するとかいふことは考へないで、衛生省とか運輸省とかを新しく作り、どしどし経費を増加してゐた。
 最初、蔵相チヤンバーレーンの出した予算は、廿五億円の不足であつた。私は予算を見ることは不得手だが、それでも一見して、この不足は今後ますます増加すべき性質を持つてゐる事だけは了解した。果たせるかな、三ケ月ばかりの内に四十余億円の不足となり、大蔵大臣は俄かに悲観演説をした。三ケ月前まで楽観してゐた国民も俄かに悲観的に騒ぎ出した。
 この如く英国民自身の精神状態が、混乱動揺してゐて、まだ静平に復してゐない。これを申すならば、実に旋風一過後の海面の如き状態で、眼前に逆巻き来る一波は見えるが、次の波は分からない。況んや海水全体の帰着点は尚更である。多くの旅客はこの一波々々を見、しかもこの洶湧{*5}せる波瀾の一刹那にも均しき場面を捕らへて、静態だと思つて帰るのだが、しかし、それは無論動態でこそあれ、決して静態ではない。私は面白くてならぬから、もつと見て居たかつたが、見極めの付くのは少なくとも六ケ月か一年後だ。とても簡単には行かない。さう長く滞留も出来ないから、帰朝することにした。しかし大体の見当だけは、ほぼ付いたから、帰朝後は文化の向上、軍備の制限と改良及び国際平和等のために微力を尽くし、以て帝国に貢献しようと決心した。

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校訂者注
 1:底本は、「ベツト」。
 2:底本は、「彼方」。
 3:底本は、「訴へやう」。
 4:底本は、「媾和(こうわ)」。
 5:底本は、「淘湧」。