普選運動に乗り出す

 十箇月の欧米視察から帰つて見ると、物価騰貴による生活の脅威、労資の対立激化、社会不安は原内閣の社会政策では、解決し難いほど深刻となつてゐた。選挙資格の制限撤廃の要求につれて普通選挙論も高唱され始めた。同時に新思想の波に乗つて、議院政治に反対する意見も起こつて来た。ことに労働団体の中には、議院政治に反対する者が意外に多くなりだした。この人達は皆代表制に反対し、直接行動によつて目的を達しよう{*1}と云ふのである。直接行動と云へば、極穏やかなところで同盟罷業だが、これとても激高し易い日本人がやれば、暴動に変化し易い。これらの方法で目的を達しよう{*2}とするのは、実に危険千万である。かういふ傾向はどうしても予防しなければならぬ。それにはどうしたらよからうかと、だんだん思案を凝らした結果、遂に普通選挙を実施するより他に、方法がないと考へる事になつた。
 私の記憶では、真つ先に普通選挙を唱へたのは松本君平、岡崎邦輔、日向輝武の諸君であつた。私もいち早くこれを叫んだが、法律にせよとは云はなかつた。私はまづ普通選挙を求むる人間を作れ、しかる後与へよと、政治教育の必要を力説したのである。それは私が多年選挙に関係した経験から選んだ{*3}安全の道――議会政治のためにも、普通選挙それ自身のためにも最良の順序であると考へたのである。しかし、目前の社会状勢は、そんな事を言つて居る時ではなかつた。そこで、まづ選挙権を与へ、適当にこれを使つても、尚かつその目的を達する事が出来なければ、議院政治に反対するのも、致し方はないが、選挙権を使つて見もせずに、直ちに直接行動に行くのは早過ぎると説くより外に、鎮撫の仕方がないと自問自答し、断然普通選挙実行運動の陣頭に立つことにした。
 この時、犬養君の国民党が率先して普通選挙を主張し、憲政会では加藤総裁がこれに反対したため、一時行き悩みとなつたが、大勢を察して結局党議としてこれを議会に提出することにまとまつた。かくて大正九年二月十日、憲政会、国民党、その他の議員からそれぞれ普通選挙法案が、議会に提出された。政府の与党たる政友会は、同案に非常に反対したから、三案いづれも通過の見込みはなかつたが、政府はこれを採決に付せずに、二月二十六日、民意に問ふと称して、突如解散を断行した。これは原首相の思惑であつて、五月十日の総選挙に政友会は二百七十九名を獲得して、絶対多数を制した。
 第四十三議会は七月一日から開かれたが、政府は絶対多数を擁して、野党に反噬の余地を与へなかつた。しかし在職二年になんなん{*4}として、その間の失政は次第に民心の倦厭を来たした。僚友島田三郎君が、この特別議会に提出した国務大臣涜職に関する質問書は、余り痛烈に政府の急所を衝いたため政友会は、大いに怒り、虚構の言説を以て人の名誉を傷付け、議院の神聖を汚すと云ふ名儀を附して、多数を恃み島田君を除名しよう{*5}とした。この事を漏れ聞いて、私は島田君の質問書を全部写し取つて、そのまゝ私の名儀で提出した。島田君を除名するなら、私をも併せて除名しなければならないやうに仕向けたのである。これにはさすがの政友会も閉口したと見え、島田君の除名沙汰は立ち消えになつた。子供じみた振る舞ひと思ふ人もあらうが、単騎で、絶対多数を駈け悩ますのも愉快なものだ。
 大体私は、大軍を率ゐて正々堂々の陣を張り、戦はずして、勝ちを制する王者の戦は、得意ではないが、精鋭な手兵を提げて、大敵を駆け悩まし、又は単身独往、あたかも無人の境地を行くが如く、千軍万馬の間を斬り廻る事は、私の長所である。一騎打ちの戦ひでは、これまで余りヒケを取つたことはないやうだが、大軍を率ゐての戦には敗れる事が多い。畢竟人物が小さく出来てゐるのと、一つはまた少年の頃から改進党といふ一小政党に在つて、孤軍奮闘の習癖がついてゐるためでもあらうか。犬養木堂は私と違つて才気英発、奇略縦横の人物であるが、彼もまた手兵を率ゐて接戦する方が得意であつた。やはり改進党の小天地で成長したためであらう。俗に「氏より育ち」と云ふが、本当にさう{*6}かとも思はれる。
 この持ち前の習癖から、私は憲政会をも離れる事になつた。次にその次第を語らう。
 第四十二議会に提出された普通選挙法案は、うやむやの裡に行方不明となつてしまつた。元来各派に誠意がなかつたのだから、これを怪しむ者はなかつたが、時勢の力といふものは致し方ないもので、第四十四議会になると、再び同案が提出された。この時も政友会は無論反対で、その後憲政会との連立内閣が出来る頃までは、常に反対を固執してゐた。憲政会も加藤総裁の意を体して、どちらかと云へば内心は反対の方であつたから、表面賛成しながらも、その頃は未だ私らの主張する程度までには至らず、独立の生計説を固持したり、丁年以上を二十五歳以上に限定したりして、何とかして普通選挙法案を骨抜きにしようと試みた。国民党案もこれと大同小異であつた。
 かくて各派は夫々條件をつけて、名ばかりの普通選挙法案を提出したが、二月三日の議会ではまづ国民党案を議してこれを否決した。ところが憲政会案も国民党案と同趣意であるから、これを会議に付するは憲法第三十九條「一事不再議」の條項に違反する。よつて私は田川大吉郎君をして奥議長に討議無用を注意させたが、議長はこれに承服しない。そこで私もやむなく議長に一言注意を与へて退場した。
 この事はたちまち憲政会の一大問題となつて、田川君をば党紀紊乱の廉で即座に除名したが、私は党の元老だからと云ふ訳で、穏やかに脱退を勧告して来た。しかし私は、この問題の発頭人は私であつて、田川君ではない。田川君を除名するくらゐなら、私をこそまづ除名すべきであると云つて、脱党勧告を拒絶したため除名された。
 除名脱党は自分の常習犯である。私が政党を除名されたのは、今度が初めてゞはない。私は熱心な政党論者だが、良心の自由までも拘束する政党とは、調和が執れない場合がたびたび起こる。初めより自分らが組織した改進党の後進たる進歩党から除名された事もある。政友会からは除名されないが二度脱退した。今度の除名はかねて覚悟してゐた事で、田川君は議会で、{*7}
「憲政会は必ず我々の主張について来る。」
と述べたが、私もさう{*8}信じてゐた。さう{*9}してその頃私が帝国のため、また全世界のため、最も必要と考へてゐた問題は軍備制限であつた。

軍備制限を提唱

 憲政会を除名された結果、私はかへつて自由の身となり、軍備制限その他の問題をば、単身独往、思ふ儘に主張することが出来て、かへつて好都合であつた。
 その頃我が海軍には八八艦隊計画といふものがあつた。戦艦八隻、巡洋戦艦八隻を以て帝国海軍の根幹としよう{*10}と云ふので、それが完成すれば我が海軍国防は安全だと云ふ説明であつた。しかしこの計画を実施するためには、毎年五億円ないし八億円を要する事になつてゐた。ところが、当時経常歳入は十二億余円、その内租税収入は七億円余りであるから、海軍だけで租税収入の大部分、時には全部を費やさねばならない。これは我が財政にとつて非常な負担である。しかも宇内の形勢を見るに、大戦の結果として、軍備充実は極めて不評であり、かつこれを実行する資力が乏しい。その上に当方が増せば、相手国たる英米も増すのみならず、その資力は我に五倍する。かかる事情の下に八八艦隊計画を進行するのは、むしろ国防を危うくする憂ひがある。むしろ世界にみなぎる平和愛好の空気を利用して軍備縮小に努力する方がよいと考へた。そこで私は断然軍備縮小、海軍協定制限論を主張し、未だ憲政会を除名されぬ前に、党にも諮つたが、誰も賛成しない。いかに数字を示して説明しても、賛成しなかつた。また議会内外で唱へても見たが、ほとんど賛成者がなかつた。しかし、この問題は遠からず列国間の問題となつて、日本もその案内を受けることは明白だから、私は憲政会を除名されると、すぐ軍備制限に関する決議案を提出した。同案は大正十年二月十日衆議院本会議に上程されたけれど、賛成者は極めて少なかつた。そこで私は、
「諸君は今反対しても、一年以内にこれに賛成しなければならないことになる。少し前後を考へて、恥をかゝないやうに振る舞つたらよからう。」
とまで忠告したが、その結果は賛成三十八票、反対二百八十五票で否決された。犬養木堂の国民党は世界の平和のためと称して賛成したが、憲政会と政友会は共に反対した。反対投票した憲政会の某君は、その時の心境をかう{*11}告白した。
「議長から採決を促された時、自分は顔から火が出た。生まれて始めて政友会と同じ投票を入れた時には、実に何とも云へぬ変な気持ちがした。」
 議会閉会後、私は軍備制限問題を提げて、全国各地を遊説し、端書を配つて聴衆をして賛否の返答をさせたが、賛成と答へたものはたちまち十万人を越えた。私はこの結果を出来るだけ広く世界列国に知らせて列国人の賛同を促した。この運動中には私は各地において多少の危険に遭遇した。私を狙つてゐた{*12}刺客が捕らへられたのも、又十余名の暴徒が乱入して居合はせた警官その他に負傷させたのも、その頃の事であつたと記憶する。
 ワシントン会議は、それから間もなく開かれた。私は、政府の財政を救ひ、海防を安全にし、以て国家を救ふべき議論を提唱したために、今日でもなほ国賊、非国民、米国の雇兵などゝ云はれてゐる。
 ワシントン会議で軍備縮小協定が成立し、毎年五億円づゝの建艦費節約が出来た時、ある実業界の敏腕家が、私に向かつて、シンミリした語調で語つた。
「ドウして、あんな事を予見し得たのですか。我々実業家は、一生に一度あんな事を予見し得れば、子孫百年の計は立つのである。」
と。私は、
「諸君が毎日読む所の新聞紙を読んで、その海外電報を正当に解釈しただけである。先見でも霊感でも何でもない。」と答へた
 この会議に原首相が、帝国全権として加藤友三郎海相に配するに、徳川家達公を以てしたる人事行政は、好評を博したが、この他のやり方には感心の出来ないことが多かつた。ことに私が常例を破つて攻撃の鋒先を収め、好意中立の態度をとつてゐたにも拘らず、原内閣は別段平生の主張に副ふほどの仕事もしなかつた。積極的方針と唱へて色々経費を増したが、そのやり方には随分無理が多く、綱紀紊乱の傾向すら見えた。その上、原君はやゝもすれば好んで喧嘩を買ひ、敵を造る性質の人であつたから、一層世間の反感を買つてゐたやうだ。私は当時の情形を見て、
「原君は早く辞職しないと暗殺せられるだらう。」
と感じた。別に深い根拠はないが、我が国は、徳川末期の歴史を繰り返して居るといふのが、私の大体の観察であつて、井伊掃部守が殺されたやうに、誰か殺されるだらうと思つた。ところがその頃、井伊掃部守ほどの重みのある者が居ないから、二三人殺されて、一人の掃部守の役を勤めるので、その一人は多分原君であらうと思つた。
 原首相は既にすこぶる不評判になつたにも拘らず、多数を恃んで容易に辞職しさう{*13}もないのみならず、かへつてますます横車を押さん{*14}とする態度を示した。そこで私の妄想又は霊感は、いよいよ強くなり、辞職しなければ、必ず殺されるに違ひないとまで信じた。私は信じた儘を偶然来訪した朝日新聞記者に語つた。彼は原君に暗殺の憂ひがある旨を朝日新聞に載せた。それから五日か六日して、大正十年十一月四日に東京駅頭の兇変が起こつた。警視庁の探偵眼を以て見れば、この暗殺とこの記事の間には、何か連絡がありさう{*15}に思つたのは、無理もない。だんだん探つて見ると、その根本は尾崎から出たといふ事が分かつた。警視庁も現在の尾崎は暗殺に関係するやうな人物でないことを知つてゐたものと見え、該記事に関する嫌疑は晴れたやうだ。

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校訂者注
 1・2・5・10:底本は、「しやう」。
 3:底本は、「択んだ」。
 4:底本は、「垂ん」。
 6・8・9・13・15:底本は、「そう」。
 7:底本、ここに読点はない。
 11:底本は、「こう」。
 12:底本は、「狃(ねら)つてゐた」。
 14:底本は、「推(お)さん」。