加藤友三郎と山本権兵衛

 原君の横死によつて、高橋是清君は、幸運にも内閣は拾つたが、これを自分の所有物とする事が出来ず、在任僅か六ケ月で倒れた。この内閣の時も、普通選挙法案が衆議院に提案されたが、賛否双方の発言通告者五十名の多きに及んだため、討議は三日間にわたり、私は最終日の二月二十七日の終末に至つて漸く発言を許され、初めて議政壇上において普通選挙を説いた{*1}。私は憲政会にも、政友会にも偏せず、独自の立場から思想的鎖国の不可能と、安全弁の必要を強調したため、双方からしばしば賛成又は反対を受けて、大騒ぎであつた。この時も普通選挙法案は政友会の反対で潰れた。
 さて、高橋内閣が倒れると、適当な後継者がない。幸ひその前にワシントンへ使ひして、政治的手腕を認められた加藤友三郎大将が帰つて来たので、推されて総理大臣となつた。加藤内閣は政友会の支持を得たが、むしろ時代に逆行した超然内閣の形であつた。しかしその施政ぶりはかなりよかつた。
 加藤大将はかつて海軍次官をやつた事もあるが、桂大将と違つて一向政治的趣味及び手腕のある風を示さなかつた。謂はゞ純粋の軍人型の人で、有名な八八艦隊計画の立案者であつた。しかるにワシントン会議に際して、原君から全権に推されると、進んでこれを引き受け、海軍専門家としての無双の知識と、我が財政に対する深い理解とによつて、断然華府{*2}協定を成立せしめた。文官出身たると、軍人たるとを問はず、加藤氏以外の人物であつたなら、海軍部内の反対を押し切つて{*3}、この難問題を片付けることは出来なかつたかも知れない。
 総理大臣となつてからの議会における応答ぶりなどを見ると、歴代の総理大臣中、恐らくはその右に出るものは少ないと思ふほどの鮮やかさであつた。在職僅か一年余りで、大正十二年八月二十四日病のため斃れた。彼は日露戦争の際は、東郷大将の参謀長として、対馬海峡の大海戦に偉功を立てゝ、その手腕を発揮したが、その後、権兵衛伯に見込まれて、海軍次官となつた。その頃私は東京市長であつた関係上、内外人に対する歓迎会や、その他の会合において、しばしば彼と同席して知り合ひになつた。彼は元来、寡言の性質で、必要以外には余り物を言はなかつたから、面会しても、別段、談話はしなかつたが、私に対しては何だか好意を持つてゐるやうに感じた。又彼は果断専行の権兵衛伯の下にあつて、次官を勤める事は、不愉快であつたらしくも見えた。そのためでもあらうか、彼は余り長く次官を勤めずして辞し去つた。その後は私は彼に面会する機会もなかつたが、大隈内閣が、例の大浦事件で頓挫して、内閣改造の必要に迫られた時、私は海軍大臣の適任者として、彼を推薦した。大隈伯は他に意中の人があつたやうに思はれたが、遂に私の推薦に賛成した。
 これより先、清浦伯が内閣組織の大命を拝承した時も、彼は海軍大臣に擬せられたが、彼は一議に及ばず、これを拒絶した。他の役割は全部決まつてゐたが、加藤君のこの一蹴に遇つて清浦内閣は流産した。新しい内閣にすら、入閣を拒絶した彼であるから、余り評判もよくなく、かつ途中でつまづいた大隈内閣から招かれても、承諾しさう{*4}もなく思はれた。しかるに誘つて見ると、彼はたやすく入閣を承諾した。世間はもちろん、大隈伯は驚かれたが、これは多分加藤君と私との関係が良好であつたためであつたらうと私は思つてゐる。即ち私が内閣に居るため、加藤君も入閣を承諾したのだらうと思ふ。
 大隈侯の辞職後、内閣は二三度も変つたが、加藤君は引き続いて海軍大臣の位置に居ること、ほとんど七年の久しきに及び、さう{*5}して権兵衛伯や斎藤実子と並んで、世間から海軍の名長官と謳はれた。加藤君はこんな優れた人物であつたから、もし健康が許し、もつと長く政界に活動したなら、立派な総理大臣と云はれたであらうに、比較的に若死にをしたのは惜しい事であつた。
 加藤内閣に続いて第二次山本内閣が出来た。山本権兵衛伯はシーメンス事件の汚名を被つて、総理を退いてより、遺恨十年一剣を磨いてゐたが、時運到来して、遂に十年目で再び内閣を組織したのはよいが、運悪く組閣中に東京に大震災が起こつて、非常の難境に陥つた。伯は一代の智勇をことごとく網羅するつもりで、各党の首領株は云ふに及ばず、党与を持たぬ大石正己君などにまで入閣を勧めた。多少政界に名を知られた者で勧誘を受けなかつたのは、私一人ぐらゐであつたらう。しかし、憲政、政友の両党首は辞退し、結局大したものは出来なかつたが、それでも最初の陣容はなかなか堂々たるものであつた。
 さて、大震災に対するやり口を見ると、どうも果断に乏しい。十年昔の権兵衛伯とは、別人の如く見えた。私も山本伯とは、第一次山本内閣の時、シーメンス事件で戦つたけれど、別に、伯個人に対して、悪意があつた訳ではない。それに、私も十年近く凡庸市長を勤めた縁故もあるから、この機会に乗じて及ばずながら帝都将来のために尽くしたいと考へて卑見を提出した。卑見と云ふのは、政治、経済、学芸等をすべて一都会に集中して置くと、地震の時に大災害を受けるばかりでなく、一朝外国と戦端を開く場合には、なほ一層困る。特に将来は昔と違つて大抵の大都市は空襲によつて、一夜の中に全滅せしめることが出来る。しかるに都市がいくつにも分かれて{*6}居れば、一部分は破壊されても、他の都市は免れることが出来るから、又と得難いこの機会に政治都市、経済都市、学芸都市等を分立して、別々に置きたいと思つた。よし東京を三分することが出来ずとも、少なくとも皇居の所在地をば、もつと安全な所に移し奉り、又同時に学芸都市をば、この俗気紛々たる都会から分離して造りたかつたのである。平生ならばとにかく、大学が焼けた後には、従来の敷地を売り払へば、国庫を労せずして、学芸都市として適当な土地にこれを移転する費用が出来る。これは帝国大学の人達にも説いて見たところ、少壮者は賛成したが、老成家は反対して、旧のまゝとなつた。
 結局東京改造にも思ひ切つた事が望めず、伯も大分切れ味が鈍つたやうだから、この内閣は、とても長続きは出来まいと思つたが、図らずも、皇太子殿下狙撃事件が起こつて、恐懼総辞職をした。
 元来山本伯は容貌魁偉{*7}、資性豪壮、一代の快男子であつたが、彼が二回目の内閣を組織した頃は、年齢は争はれないもので、多少老衰の気味があつて、その行動は、むしろ不手際に終はり、その政治的生命もこゝで終はりを告げた。気の毒な事である。実はもう少し働かせて見たかつたのである。
 思ひ起こせば、彼は海軍の一局長時代から、既に権兵衛大臣と云はれた程のやり手であつた。隈板内閣の時、何かの海軍問題で、私などが反対すると、海相西郷従道侯は、
「あなたのお説には賛成出来るが、何分権兵衛が承知しないので困る。彼には私もたびたび泣かされます。」
と云はれた。
 明治三十一年に権兵衛伯が初めて、海軍大臣となるや、その頃未だ大佐ぐらゐの身分であつた斎藤実君を抜擢して次官となし、引き続いて永年の間、海軍大臣の位置を占め、遂に海軍の大御所と云はれるやうになつた。
 その頃、私は彼と私交はなかつたが、潜かに彼の活躍ぶりを傍観して、一世の人物と思つて居た。されば、第一次桂内閣の時などは、政府との交渉事件は、財政問題であつたにも拘らず、私は大蔵大臣たる曽祢荒助氏を排斥して、縁もゆかりもない山本海相を指名し、桂首相と二人で政府を代表し、政友会の代表者たる松田正久君と私とを相手に談判される事を希望した。この談判中に、一方は総理大臣、他方は海軍大臣に過ぎなかつたが、山本伯は常に桂公を呼び捨てにして「桂が、桂が」と言つて居た。
 又彼が総理大臣となつた時は、山県公の意見に反対して、宮中席次、その他枢密院の同意を要する問題を片付けた。その以前に、桂公が勲章関係の問題を起こした時、山県公は、「俺の目の黒い間は、枢密院をば通過させない。」と頑張つたが、山本内閣の時には、自分の意見に反対する議案をも通過せしめた。それほど彼の押しとにらみはきいたのである。
 もし、私の仲間が彼を助けて、その意を行はせたら、一層よい事をなしたであらうが、不幸にして、私は権兵衛伯の人物には感心してゐながら、第三次桂内閣倒壊後の内閣組織について、彼と意見を異にしたため、やむなく敵対の位置に立ち、第一次山本内閣を破壊する事には、私も主なる役目を勤めた。
 彼の第一次内閣は、シーメンス事件のために倒れ、第二次内閣は組閣の当日大地震に遇ひ、その後摂政宮殿下の御遭難があつて、間もなく倒れ、遂に人物相当な働きをなし得ずして、世を去るに至つたのは、気の毒の至りである。この点から云へば、彼はむしろ運命に恵まれない人物であつた。

第二次護憲運動

 山本伯に代わつて起つた清浦内閣も超然内閣ではあつたが、私はこの内閣が、前に控へた総選挙を一党一派に偏せず、最も公平に行ひ、最大多数を得た党派の首領を後継首相に奏薦して辞職すれば、同じ超然主義でも立派なものだと思つた。そして清浦子もこの意図あることゝ信じ、心中ひそかに多少の好意を寄せてゐたが、子は任用その人を得ないために、遂に貴族院に在つては研究会、衆議院に在つては政友本党と結託するに至り、ために第二の憲政擁護派の攻撃を被つて、僅か五ケ月の短命で倒れてしまつた。
 加藤友三郎内閣から清浦内閣まで三代二ケ年の間、政権が超然内閣の手に移つた事は、政党にとつて少なからぬ打撃であつた。ことに久しく政権から離れてゐた憲政会の焦燥は一通りではなかつたらう。あたかもよし、普通選挙法を要望する国民の叫びは年と共に熾烈に赴きつゝあつたから、加藤総裁も遂に多年固執した「独立の生計」といふ條件を撤回して、局面の打開を企てた。この憲政会の転向によつて無所属倶楽部、国民党を交へた非政友三派は一致して普通選挙法獲得に邁進することゝとなり、一時は三派合同まで唱へられたが、これは憲政会の反対で実現しなかつた。しかし、国民党は大正十一年九月一日、光輝ある歴史を捨てゝ解党し、我々無所属及び憲政会脱党七人組と合体して、新たに革新倶楽部が生まれた。
 その頃は政友会も政権に遠ざかつてゐたので、これまた普通選挙論に転向するに至つた。かうなると昨日の敵は今日の友で、政友、憲政、革新三党は所謂護憲三派と称し、結束して清浦内閣と戦つた。この第二の憲政擁護運動で、可笑しく思つたのは憲政会であつた。自分が打たれて痛く感じた武器は、人に向かつてこれを使用したいのが、人情の自然と見え、憲政会(同志会の後身)は随分熱心であつた。この時も私に向かつてしきりに加盟を勧誘して来たが、私は第一回の憲政擁護に懲りてゐるから、辞退して、彼らに言つた。
「諸君の目的は、たゞ清浦内閣を倒すにあるのだらう。次の内閣組織の協定すら出来にくからう。況んや真に憲政を擁護し、これがために必要なる政策を施すなどゝいふことは、思ひもよるまい。」
 それでも三派の旧友が、代る代る懇請してやまないから、私は上野精養軒における三派の会合に出席し、三党首の面前で、護憲の聖語を濫用すべからざる旨を説き、彼らの運動に釘を打つて置いた。又大阪公会堂の演説会にも加藤、高橋、犬養の三君と共に出席したが、護憲運動を政権獲得運動に変質させないやうに、私の希望を演説した。三党首は厭な顔をして聞いてゐたが、聴衆は大いに喝采した。
 憲政会には私の親友がたくさんあるが、彼らはこの運動中、しきりに清浦内閣を特権内閣だと攻撃した。そこで私は、
「君らの方が、むしろ特権階級だ。君らは財閥の婿で、かつ貴族的性格の加藤子を、首領に戴いてゐるではないか。加藤子に比ぶれば、清浦子の方が余程平民的だ。」
と言つた。すると総選挙には、今度は大義名分論を担ぎ出して、政友会をば、倶に天を戴くべからざる仇敵でもあるかの如く罵つた。よつて私は、
「自分も政友界は嫌ひだが、そんな立派な口をきくと、他日困ることが出来るだらう。」
と説いたが、果然護憲三派は清浦内閣倒壊後、政権獲得運動に過ぎなかつた事の真相を暴露した。

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校訂者注
 1:底本「思ひ出の議会演説 普選案賛成演説(大正十一年二月二十七日)」参照。
 2:底本は、「華府(ワシントン)」。
 3:底本は、「推切つて」。
 4・5:底本は、「そう」。
 6:底本は、「別れて」。
 7:底本は、「傀偉(かいゐ)」。