護憲三派の崩壊とその後の政情

 清浦子は政権に恋々たる余り、つまらぬ{*1}口実を設けて大正十三年一月三十一日、突如議会を解散して見たが、総選挙に破れて、みじめな最後を遂げた。私は解散当日、「大権の発動及び内閣組織に関する質問」演説を行ひ、宮内官吏の政治的干渉、元老の専横、各省官吏の暴慢等につき、反省を求めるつもりで、準備を整へて置いたが、解散のため、演説する事が出来なかつた。
 解散後の総選挙に勝利を得た護憲三派側では、大命が衆議院に多数を制した憲政会の加藤総裁に降下したので、理屈から云へば当然こゝで三派の連立内閣が現れる筈であるが、加藤子は出来るなら、さうしたくなかつたらしい。しかし、頭ごなしに連立を拒絶する訳にも行かないから、政友、革新両党々首に対して、協議の上共に内閣を作らうと云ふ代りに、自分の内閣の一員になつてくれと申し込んだ。随分無礼なやり方であるが、それにも拘らず、かつては大隈伯の招きすら拒絶した犬養君が、今度は政友会の高橋君を誘つて、一議に及ばず入閣した。私は不思議に思つたが、多智多策な犬養君のことだから、多分加藤子の腹を読み、その裏をかくつもりでやつたのであらうと解釈し、「犬養君らは他日折を見て、ひと騒動起こすに違ひない。」と演説した。
 果たせるかな、それから一年ばかりすると、高橋君がまづ政友会総裁を田中義一大将に譲り、続いて犬養君が革新倶楽部を提げて政友会に入り、田中内閣擁立の下地を作ると同時に、犬養、高橋両君は抱き合ひ心中と称して、妙な辞表を捧呈して、加藤内閣の倒壊を企てた。しかし、そのやり方が拙劣であつたから、加藤子はかねて希望してゐた通り、憲政会の単独内閣に改造した。大正十四年八月二日の事である。高橋君はとにかく、犬養君や岡崎君は、もう少し巧者な芝居を打つだらうと期待して居た私は、全然失望した。どういふ訳であつたか、今でも想像が出来ない。三派協調が破れると憲政会は政友本党に接近した。国民こそよい迷惑だ。かくて第一憲政擁護も、第二憲政擁護も共に政権獲得運動に終始した。実に遺憾の至りである。
 護憲内閣唯一の功績は多年の懸案たる普通選挙法の制定であつたが、それも誠意があつての事ではなかつたから、枢密院で制限をつけられても、たやすくこれを応諾し、又急速実行の熱意も示さなかつた。
 革新倶楽部と政友会の合同は、予定の行動でもあつたが、護憲内閣が出来ると間もなく話が出た。私は極力これに反対して来たが、遂に前述の如く合同することになり、大正十四年五月十日総会を開いて犬養君から、その顛末が報告された。かう{*2}なつてはもはや、仕方がないから、私は同志八名と共に革新倶楽部を脱退し、その月末に中正倶楽部及び無所属の有志と共に新正倶楽部という団体を拵へた。
 高橋、犬養諸君の辞職によつて、加藤子はかねての希望通り、憲政会だけの単独内閣を組織はしたが、人事は意の如くならないもので、健康勝れず、間もなく病逝された。実は私は、さきに原君が殺されはしまいかと思つた時、加藤子も殺されて、原君と二人で一人前の井伊掃部守の役を勤めるのであらうかと思つた。加藤子は幸ひ刺客には見舞はれなかつたが、その後ひどく健康を害し、余命いくらも{*3}ないやうに見受けたから、私は親近者に静養を忠告した。すると加藤子は、
「自分の体が衰弱したなどゝ云ふ者があるが、けしからぬことだ。マラソン競争こそ出来ないが、他の事なら何でも出来る。」
と大した力み方であつたさう{*4}だ。周囲の人もその見幕に怖れて、静養を勧めなかつたものと見え、無理を重ねて、遂に自ら寿命を縮めた。
 加藤子の逝去によつて、思ひがけない拾ひ物をした若槻礼次郎君は、前に原君の遭難によつて{*5}内閣を拾つた高橋君のやうな失敗も演ぜず、さすが好運児と云はれるだけに、この時も僥倖に助けられて、倒れるべき運命の内閣をしばらく持ちこたへた{*6}。若槻君が内閣を組織したのは、大正十五年一月三十日で、第五十一議会の最中であるから、新たに制定された普通選挙法を実行するため議会を解散し、自己の足場を新たにするのが、当然であつたが、これをやらないで、貴族院では研究会及び同成会と握手し、衆議院では不倶戴天と明言した所の政友本党と連盟して議会を切り抜けた。
 この第五十一議会が終はると、私は例の如く選挙区の三重県に議会の経過報告に出掛けたが、四月二十六日にふとしたことから風邪に罹つた。初めは私も単なる風邪として、軽く考へてゐたが、なかなか熱が下がらない。そこで遊説を中途で中止して、山田市で入院してゐると、程なく癒つたやうだから、その儘帰京した。
 その以前から私は防長二州の遊説を思ひ立つてゐた。薩、隅、日へは三度も行つて、藩閥攻撃の演説もしたが、長州は只その片端の馬関及びその附近で演説しただけで、深く内地に這入つた事がない。故に一度は防長二州を巡遊して、彼らの先輩の功労と非違とを述べて、その反省を求めて見たく思ひ、いよいよ長州征伐に出掛ける事に決心した。しかし、途中で発病でもしては、敵地の事ゆゑ{*7}、世の物笑ひになると心配し、特に既に全快したとは云ひながら{*8}、病後の事でもあつたから、念のため慶応大学病院に行つて、西野博士の健康診断を受けた。すると博士は細かに診察の上、
「旅行どころの騒ぎではない。中耳炎が相当進んでゐるから、直ちに入院して充分の手当をしなければいかん。」
と云つて、帰宅すら許さない。やむなく、その儘入院して、遂に数十日間を治療に費やした。従つて長州征伐は残念ながら中止するより外はなかつた。この時の施術以後私の耳はますます遠くなつて遂に廃物同様な身分となつてしまつた。
 その後山口県下を遊説した事もあるが、この時も何か差し支へが起こつて、広く各地を巡廻せずに引き返した。私と長州とは、よくよく縁の薄いものと思はれる。
 さて私は若槻内閣に対しては好意的中立の態度をとつてゐたが、松島事件の発展につれて、どうしても若槻君に辞職を忠告せねばならないやうになつた。それはかう{*9}だ。
 松島事件といふのは、大阪の松島遊郭の移転問題に関する疑獄事件であるが、これに連坐して詐欺罪に問はれた箕浦勝人君が、若槻首相を事もあらうに偽証罪といふ厭はしい罪名で告訴した時、私はその事の世道人心に及ぼす深刻な影響を想像して、これに善処する最善の道は、若槻君が首相をやめるより外はないと考へた。それは若槻君に告訴されたやうな疚しい所があるから、やめろと云ふのではなかつた。一には総理大臣といふものがいかに重要な、道義的地位であるかを明らかにし、二には神聖なる司法権に対し、寸毫の疑ひをも挟む余地なからしめて、頽廃せる世道人心を振作し、紊乱せる綱紀を緊縮する絶好の刺戟となる事を確信したためであつた。同時に又若槻君のために捲土重来の素地を残し、憲政会にとつても全く行き詰まつた局面を有利に展開する機会を提供するものとも信じたが、不幸にして若槻君は私の忠告をきゝ入れないばかりか、秘密の約を破つて政府及び与党側から私の勧告を公表した。
 たとひ、若槻君が身の潔白を信じて居ても、総理大臣在職の儘不起訴にすれば、世間には司法権に疑惑を抱くものが少なくないであらう。況んや必ずしも無罪であらうとも思はれない。もちろん疑獄事件になるやうな問題に深入りした箕浦君も悪いが、私が見ても、若槻君が松島事件の証人として、法官に対し陳述した言葉と、松島遊郭移転運動者たる箕浦君の問ひに対し、内務大臣として答へた言葉との間には、大きな相違がある。かかる曖昧な言葉を使つて、天下をごまかさう{*10}とする所に、若槻君の弱点がある。誠に惜しむべきことだと思つた。

国難来たるの警告

 確固たる足場を持たぬ若槻内閣は、事ごとに動揺を免れなかつたので、 大正天皇崩御遊ばされ、 今上陛下ご践祚、元号を昭和と改元すると間もなく若槻首相は、田中、床次両君と会見して三党首申し合はせを作り、政争を中止して妥協する事にした。しかし、元来犬と猿の間柄の両党が、妥協しても永続する筈がなく、申し合はせはたちまち反古となつて、政友会から攻撃され、遂に金融恐慌を惹起して挂冠した。
 その後で、機密費事件とか、三百万円事件とか、色々な疑惑をかけられた田中総裁が久しぶりで政友会内閣を組織した。しかし、人気のないことおびたゞしく、第五十四議会を劈頭解散して総選挙に問うたが{*11}、蓋を開けて見れば、僅か二名の勝ちであつた。しかも普通選挙最初の総選挙に政府のする所を見ると、干渉到らざるなく、党勢拡張に汲々たるものがあつて、まことに寒心に堪へなかつたから、私は臨時議会で、思想、政治、経済の三方面から国難来たるを警告(昭和三年四月二十八日衆議院上程)して、政府及び政党の反省を促した。一般には内相弾劾案と見られてゐるが、私の考へは、そんな簡単なものではなかつた。なるほど私は選挙干渉の当面の責任者として、当時の鈴木内相の処決を主張した。しかし、それは全く政治上の道理と、ご大典を控へて苛烈な政争を激成せしめてはならぬといふ考へに出でたのである。これを単なる党略的戦術の見地から見ても、あの場合、総括的不信任を以て、田中内閣を包囲攻撃すれば、窮鼠かへつて猫を噛むの類で、反撃して来ることは明白に看取された。故に強ひて退路を遮断せず、鈴木内相一人を討ち取つて、この内閣に深傷を負はせて置くのを、賢明な仕方と考へた。私は民政党の友人にこの事を忠告したが、当時はこんな見易い戦術さへ、民政党幹部には判らなかつたものらしい。守る方も、攻める方も、丸で戦の法を知らずに、無我夢中で、殴り合ひをやるのだから、実に物騒な政界であつた。
 世間は妙なもので、ほんの些細な仕事をしても、たちまち神様に祭り上げて見たり、かの時のように、それまで過去五十年の政治生活において、国家に貢献したすべてを合はせたよりも、僅か二週間の臨時議会で成した所の方が、君国のために貢献する分量は大きかつたと自ら信じ得る働きに対し、かへつて悪罵冷嘲を浴びせて見たりする。これは畢竟、私どもが国難と観ずる当時の世相を、世間はまだ国難と観じなかつたためであらう。どうか死地に陥つてしまはない内に、起死回生の道を講じたいと思へばこそ、世に逆らつて憎まれ口をきいて見たのだ。当時既に対支問題の進展につれて、誰の目にも我が国が、深刻な国難に直面して居ることは、分かりさう{*12}なものだつたが、事こゝに及んでなほ国難来たるの警告を嘲罵する如きは、所詮棺中に酒を呼んで太平楽を謳ふに等しい狂気沙汰と思つたが、その狂気沙汰は、当時の流行であつたやうだ。
 その頃私はつくづく考へた。党弊がさせるのか、質が低下したのか、どうも首相の挙措進退に心外なことが少なくない。政党は政党で疑獄沙汰と遂に離るべからざるものゝ如き感じを世人に与へてゐる。これではとても一国の政治を政党に托して置くことは出来ない。しばらく政党を政権の埒外に置いて、反省自粛させねばならぬと思つた。さういふ考へであつたから、昭和三年の初め頃、第三党樹立運動が起こつて、私などにも大分働きかけて来た時にも、私は明白に、現在のやうな政党は、いくら拵へても駄目だと断つた。
 ことに総理大臣と云へば、一世の儀表となるべき人である。たゞ法律ぐらゐを学んで、文官試験の関門を通過し、小役人から鰻登りに出世した官僚の徒に、一国の宰相たるものゝ気位がないのも無理はないが、居は気を移す。いやしくも宰相の地位に就けば、それにふさはしい気位が備はりさう{*13}なものだ。しかるに匹夫の心を持つて、宰相の職に居るものが、ふえて来たばかりでなく、宰相の地位に就くと、浜口君の如く、手腕の人としてよりも、人格の人として推された者でさへ、終はりを全う{*14}する事が出来なくなる。党派の魔力は恐ろしいものである。
 田中君は三大国難決議案の実行につき、確かにこれを実行すると、私個人に誓つたにも拘らず{*15}、これを実行しなかつたばかりか、醜態を続けて、失脚してしまつた。これに比べると浜口君は責任感の強い政治家であるやうに思つたから、難局打開の適任者として、ひそかに期待してゐた。その浜口君が無名の青年左郷屋のためにうたれたのは、実に痛ましい限りだが、この傷ついた浜口君を寄つてたかつて殺してしまつた党人根性は、左郷屋に劣らず罪が深い。
 浜口君が漸く議会に出られるやうになつたのは、第五十九議会も会期の三分の二を終はらうといふ頃であつた。その時の浜口君の衰躯は、正視に堪へなかつた。この人に質問戦を試みることは我々まことに人道上忍び得ないものであつた。又浜口君としても質問戦に応ずるだけの体力がなかつたやうだ。もちろん立憲国の政治家は、必要の場合には、決死の覚悟を以て、議会に出席し、その主張を貫徹すべきであるが、我が浜口首相が、決死の覚悟を以て登院したのは、果たして国家のため、いかなる大問題を通過せしめんがためであつたかと云ふ点になると、すこぶる曖昧である。況んや会期の三分の二を欠席し、さらに人情の弱点を捕らへて、論戦を制限せんとするは非立憲も甚だしい。そこで私は、浜口君に対しては気の毒に堪へなかつたが、首相登院の現状を以て、議会に対する首相の責任を尽くすに足らざるのみならず、かへつて議会の権能を毀損汚辱するの憂ひあるものと認め、浜口首相に消極的辞職勧告を意味する決議案を提出する考へで、各派の同意を求めた。ところが、天のいたづらとでも云はうか、浜口君に辞職静養を勧めようとした私の方が、先に病死しさうになつて、決議案は流産した。

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校訂者注
 1:底本は、「拙らぬ」。
 2・9:底本は、「こう」。
 3:底本は、「幾も」。
 4・12・13:底本は、「そう」。
 5:底本は、「由て」。
 6:底本は、「こたえた」。
 7:底本は、「ゆえ」。
 8:底本は、「云ひ乍ら」。
 10:底本は、「胡魔化(ごまか)そう」。
 11:底本は、「問ふたが」。
 14:底本は、「全ふする」。
 15:底本は、「不拘」。