第四次洋行とその目的
私は、三月八日以来風邪にかゝつてゐたが、浜口首相辞職勧告決議案の提出のため、押して登院、奔走してゐると、同十八日に至り、突然高熱を発した。流行感冒性肺炎といふので、早速慶応大学病院に入院したが、何分七十三歳の老人が肺炎になつては、とても助かるまいと思つた。一時は地獄か、極楽か、いづれへか無銭旅行のやむなきやうに見えたが{*1}、その旅行の中途において再び浮世に逆戻りをした。
無理に無理を重ねた幾十年の政戦に、自分ながらよく健康が保たれたと思つたが、先には中耳炎を病み、今また肺炎を病んで、さすがに老境のひしひしと身に迫るを覚えた。しかし天なほ吾に貸すに{*2}いくばくの生命を以てす。立つて政治的更生と精神的復活を期せねばならぬと私は思つた。さう{*3}考えてゐると、米国のカルネギー・インスチチユーシヨンから、米国へ来遊せよとの招待を受けた。この財団はカルネギー氏の遺言により、国際平和を増進するため、各種の事業を経営してゐるが、その一端として、各国の名士を招待し、意見を交換させる事をもする。折から妻も、五月以来米国の西岸で、難病治療中であつたから、その見舞ひかたがた渡米する事にした。
文明の進歩は、世界を狭く小さくすると同時に、個人をば大きく広く又長くもする。例へば、ずつと昔は地球を一周する事は、不可能であつた。漸く一周する事が出来るやうになつても、数年の長年月を費やした。明治の初めに仏蘭西の有名な小説家が、「八十日間世界一周」と題する小説を書いて、世間を驚かした事があつたが、今日では三十日以内で、世界を一周する事が出来るし、飛行機ならば、一週間くらゐで出来る。それだけ世界は狭くかつ小さくなつたのである。しかるに個人の力は、だんだん大きくなつて、遂に一人の力で、全世界を動かす事すら出来るやうになつた。エヂソンやフォードは、その実例である。普通の商売人でも少し手広く取引をするものは、全世界を相手にしなければならぬ。この世界と個人との正反対の変化の結果、人類の政治的生活も、その根本を改めねばならなくなつた。個人が小さく、世界が広かつた時代には、部落生活に依り、酋長を戴いて、安全幸福を求めたが、文明が一段進歩すれば、封建生活に入り、諸侯を戴くの必要が起こり、さらに進歩すれば、国家生活となり、国王を戴くの必要が起こつて来た。その後、世界はますます縮小して、四海比隣となつたから、米・露・支の如き大国ですら、国境を閉鎖して、自給自足の生活を営む事が不便不利になり、広く全世界を相手にして、物資の売買交換を行はねばならぬやうになつて来た。
しかるに人類は、とかく慣れ来たつた習慣を離れがたいものと見えて、数百年間国家生活をして来た関係上、今日のやうに、国内だけで安全幸福を求むる事が、不可能な世界状態になつても、尚なるべく鎖国的旧態を維持せんと苦心してゐる。即ち、現在の人類は、文明進歩の環境に充分に調和する事が出来ないのである。国際間の軋轢も、世界的生活難も、皆この人間の環境と、その精神状態が、調和しないために起こるに過ぎない。故に我が国現在の苦境を打開するには、一箇国だけでは出来がたい。どうしても世界列国と歩調を合はせて、共に改善の策をめぐらさなければならない。世界の識者中には、既にこの事を悟つて、着々これを実行に移さうと努力してゐる者がたくさんある。国際連盟の如きも、世界の現状を改善しようとする一種の試みであつて、将来ますますこれを改良発展させれば、世界列国は、皆政治上にも、経済上にも、今日の苦境を超脱する事が出来る。これに反して、反対の方針を採り、欧洲大戦以前のやうに、列国対峙して、武装的平和政策を採れば、結局、文明は没落し、世界は再び暗黒時代に復帰するより外はない。よつて私は列国の識者と会見し、国家抗争の現状を改めて、国際協調へ導く事に多少なりとも尽力したい。その結果我が国内外の難局をも打開しようと考へたのが、第四回目の洋行の目的であつた。
その手続きとして国際連盟を強化し、遂に国際的紛争は、その経済的たり、政治的たり、また思想的たるを問はず、すべて協議と裁判によつて解決し、以て武力的解決の現状を改善するために一臂の力を添へたかつたのだ。即ち国際的無政府状態を一変して、国内的同様のものとなさんと希望したに過ぎない。この外に日米両国の関係を一層良好ならしめるためにも、少しは尽力する事が出来ようか{*4}と思つてゐた。
こんな思想をいだきながら昭和六年八月十三日横浜を出発して米国に赴いた。米国到着後、第一に嬉しかつたのは、税関吏が、私の荷物には、すべて「無検査通過」といふ張り札をしてくれた事であつた。私の第二次洋行の時は、東京市長であつたにも拘らず、英国よりの帰途、ニューヨークに上陸すると、下級の税関吏が、意地悪く荷物を検査して私どもを困らせた。故に今回の取り扱ひぶりについては、特にその好意を感じたが、後から聞けば、これは妻が病床よりかねて知り合ひの国務省の大官に書面を送つて、私の到着を予告したため、ワシントン政府の命令によつてなした仕事であつたさう{*5}だ。この張り札が付いてあつたため、英国到着の際も、さなきだに、寛大なイギリス税関吏は、このたびはさらに一層親切であつた。海外より多く旅客を招かんと希望する我が国の税関吏は、旅客の位地品格等によつて、多少の斟酌を加へる必要があらう。
門出を試す一演説
米国到着後は、とりあへず加州サンヂエゴの病院に入院中の病妻を見舞ひ、それより西海岸の各地において、日本人を相手に、講演した後、娘だけ伴つてニューヨークに赴いた。折から該市にはフレンドシップ・ヂンナーと称する盛大な晩餐会が催され、かねてより私も招待されてゐたから、臨席して簡単な挨拶言葉を述べた。この宴会はコロンビヤ大学や米国肉類商人組合の発起で、ニューヨークの商業会議所その他の協力によつて催され、欧洲大戦に参加した有名な将軍や、平和克服に貢献した列国の政治家等を招待するのが、その目的で、ヨーロッパ各国からも、かなり著名な政治家や軍人が出席した。食卓の数は三百余、来会者は数百人の多数に及び各国の名士が、会場に入場する時は、各々その国の国旗を先頭に立て、国歌を吹奏し、すこぶる荘厳な儀式であつた。私は内外各地で晩餐会にしばしば列席したが、こんな大きいものは、初めて{*6}であつた。その席上で、私は今回の世界旅行の目的の成否を試みるため、左の演説をなした。
日本が満洲において惹起せる不幸な事変のために全世界の友邦を困らせて居る最中に、国家間の平和及び友誼について、意見を述べる事は、私としては、少し間の悪い事である。しかしながらこの日支間の紛争は、一時的事件であつて、こゝに私の述べたいと思ふ事は、永久にわたる事柄である。貴国は現在世界中において、最も富み又恐らくは最も有力な国である。故に世界の国々は、たとひ貴国が最高の友誼を以て接しても、いくばくかの嫉妬心又は恐怖心を持たずには居られない。今日の文明の程度では、いかなる国家といへども、真実の又永久の友邦を持つ事は不可能である。なぜならば、弱い国は軽蔑されるし、強い国は恐怖されるからである。故に各国家は、あたふ限りの武備、同盟、権謀を施す。日本は前世紀の末葉までは、余程貧乏な微力な国であつた。諸外国は心ひそかに軽蔑して居たかも知れないが、それでも表面では、アメリカに可愛がられ、支那からは嘆称され、又ロシヤ及びイギリスからは、お世辞を云はれて、その結果日英同盟さへも出来た。しかし当時日本は決して国際的に余り良い地位には居なかつた。今や日本は工業及び武備を進歩せしめたので、真実の友邦を持つことが出来ない。見よ、アメリカは合衆国は、ハワイ及びフィリッピンを防禦するの必要を感じ、イギリスは印度及びオーストラリアを守るために、シンガポールに海軍根拠地を建設中である。これは一体誰に対する防禦なのであるか。日本に対する防禦ではないか。これが国家の運命である。もし諸君にして、日本が軍国主義的であることを非難せられるならば、私は、日本を軍国主義的にしたものは、諸君、即ち西洋諸国だと云ふを憚らない。
真の国際友誼{*7}の増進を図らんとするこの席において、私は外交的の言葉を用ゐ{*8}ずして、ごく{*9}腹蔵なしにお話をする。日本が歌を詠んだり、活け花をしたり、香を焚いたりして平和の日を楽しんで居る間、約言すれば芸術及び美術に耽つた時代には、諸君は日本に三等国の地位をさへも与へなかつた。アメリカ人及びヨーロッパ人が日本に同等地位を与へたのは、日本がイギリス流の海軍及びドイツ式の陸軍を採用し、世界において最も大きな二つの国と戦つて勝つた以後の事である。これは本当の事実であつて、決して諸君を非難するために云ふのではない。
すべての国家は、正義を基礎とせずして、力を基礎として築き上げられて居る。この国家存立の根本的條件が改造せられない限り、国家相互間の非友誼的精神は、根絶するを得ない。世界のすべての国家をして、正義の国際裁判所を採用すること及び狭隘なる国家主義の教育制度を変更することにより、道徳を基礎として立つやうにさせたならば、すべての国家は、嫉妬及び敵意を放棄して、友誼及び好意を基礎として立つやう{*10}になるに相違ない。平和及び安寧は友誼のみによつて得られるのである。カナダと合衆国との国境は、三千哩以上もあるが、その国境には双方とも実際何らの防備をもしてゐない。しかし両国は互に恐怖心を持たずして安心してゐる。この良い実例は、世界の他の諸国が、見習ふ事の出来るものである。
交通機関の不備のために、世界が今日よりも大きかつた間は、一国は他国を犠牲にして繁栄する事が出来た。しかし今や世界は余程小さくなつた。――恐らく現世紀の初めに比すれば、十分の一になつたであらう――又世界の破壊的武器の能力は数百倍になつた。それだから、いかなる国家も他の国家を敵としてゐては、生存も繁栄も出来ないのである。しかし人類が国際主義でなくして、狭隘なる国家主義の教理によつて教育されて居る間は、真の友誼の情操は、決して満足に発達しない。最も正直な最も親切な人間でも、国家的情操によつて支配される場合には、全く我が儘になり、非合理的になる。この事実は戦時中キリスト教の高僧達が、銘々自国の勝利のみを祈祷したことによつて充分に立証される。国家主義は古い世界に甚だ必要であつたし、封建主義は、それよりもさらに古い世界に必要であつたが、今や世界は小さくなつたから、狭隘な国家主義は、時勢に適しない。国家主義は全然放棄されないまでも、封建主義の如く、根本的に改善せられなければならぬ。現在は何事も皆国際的になりつゝあるのであつて、さう{*11}なつてゐないのは、人間の心情だけである。真の友誼は、国際主義によつてのみ涵養せられるのである。
列席した会衆の受けもよかつたらしかつたが、翌日のニユーヨーク・タイムス紙の如きは、その社説を以て、当夜の名演説として、これを称賛した。この工合なら、私も多少旅行の目的を達する事が、出来るだらうと思つて、失ひかけた元気を回復したが、それは一時の事であつて、日本の国際的立場は、だんだん悪くなるばかりであつた。
当夜列席した政治家は、平和條約を起草したケロツグ氏、伊太利の元首相でパリ媾和会議の主席全権たりしオルランドー氏、ドイツ大使、私等で、軍人中には英国のロベルトソン元帥、大戦中米国の総指揮官であつたベルシング将軍等があつた。また世界的飛行家として、大西洋を横断したリンドバーグ大佐、北極の探険者バード少将、飛行船で世界を一周したヱツケナー博士等も招待された。ヱツケナー氏は私の後列にゐたが、バード少将とオルランドー氏は私の左右にゐたから、色々話したが、バード少将は、米国で最年少の少将で、非常な人望家であつた。その後数年を経ての事だが、バード少将が南極に行つた時、同行の人々は、各地に米国流の地名を付けたが、少将はそれよりずつと前に白瀬中尉が探検して日本の地名を付けて置いた事を聞いて、ことごとくそれに改めさせた人である。
当夜の宴会で、一般会衆は私達のテーブルの一段低い席にゐたが、私の席に近いテーブルに、私の娘二人は日米人と共に座つてゐたが、私の演説を心配したためか、たびたび私を眺めたらしい。バード少将は私に、
「あそこの婦人が、たびたびあなたの方を見るが、知人ですか。」
と尋ねたので、
「私の娘だ。」
と答へると、敬意を表して来ると云ひながら、座を去つた。帰つて来て、しきりに褒めそやすから、私は、「親爺に比べて、どうか」と戯れたら、少将は少し返事に困つたやうに見えた。そこで、私は、{*12}
「あれらの方が少しはいいかも知れん。」
と追加したら、少将は笑ひながら、
「私もさう{*13}思ひます。」
と答へた。少将が北極探検後渡英した時は、非常な歓待ぶりで、各所から歓迎された。たびたび「どこが最も寒かつたか。」などゝ貴婦人連から問はれるものだから、少将は「英国の寝室」と答へたさう{*14}だ。暖房設備の完備してゐるアメリカから、イギリスに行くと、その寝室は特に寒い。私も寒く感じたが、日本の寝室はなほさらの事だ。
校訂者注
1:底本は、「見へたが」。
2:底本は、「借すに」。
3・5・11・13・14:底本は、「そう」。
4:底本は、「出来やうか」。
6:底本は、「始めて」。
7:底本は、「国難友誼の増進」。
8:底本は、「用ひずして」。
9:底本は、「極く」。
10:底本は、「ように」。
12:底本、ここに読点はない。
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