墓標代りの意見書
大西洋航行中に、私は犬養君が総理大臣になつた事を知つた。その時、直ちに祝電を発しようと思つて書いて見たが、元来犬養君の抱負から言へば、総理大臣になつたといふ事は、大した名誉なことでもない。その上に政友会総裁とは云ひながら、事実は、政友会といふ屋台の借家人だ。借家人が借家を頭にかむつて総理大臣になつたのでは、到底自己の志を行ふことは出来まい。随つて、犬養君は世俗には名誉と思はれるだらうが、結局、真に彼のためであるかどうか。或は、彼の晩年の名誉を汚すやうになりはしまいか。これは問題であるといふ感じが起こつて、祝電を出すのをやめた。
英国に着くと、私はまづ妻の母を訪れた。それから間もなく前蔵相の井上準之助君が殺され、ついで三井合名理事の団琢磨君が殺された事を聞いた。私の渡米中に勃発した満州事変以来、祖国に捲き起こされた激しい思想の動揺が、万里の異邦にあつても、脈々と感じられた。私は既に満州事変が勃発した時、これは困つた。私のやうなものでも帰朝の上、忌憚なく国家のため赤誠を吐露すれば、或は殺されるかも知れないと思つた。そこで卑怯のやうだが、昭和六年の暮れには帰朝する筈であつた予定を変へて、今しばらく海外に在つて、形勢を見ることにした。別に生命が惜しい訳ではないが、云ふべき事を云はずに殺されては、政治家の使命に対して申し訳ないと思つたからだ。
そこで私はひとり、仏その他欧洲大陸諸国の視察旅行をしたり、英国に在つて、新時代の政治研究に没頭してゐたが、五月になると又もや兇報に接した。親友犬養毅君が、首相官邸において虐殺されたのである。私は実に感慨に堪へなかつた。
大正十年頃から、私は明治末期以後の日本は、あらゆる状態において徳川の末期に酷似してゐることを説いて来たが、眼前の事象は、遺憾ながらすべて私の主張を裏書きするやうに思はれる。その原因は国民が精神的にのぼせ切つて、自分は偉いと感じだしたからで、さう考へる時には、進歩は止まつてしまひ、孤立を好む所も畢竟さういう所から起こる。頭が昔に戻ると、その言行がすべて徳川末期と同じやうになる。佐久間象山、横井小楠らが殺されたやうに、今の時勢では島田三郎君や私などは殺されるべき人間であると思つた。自分と意見の違ふものを殺さねばならぬといふほど狭量では、国家生活は難しい。人物払底の際損をして見ねば、眼が覚めない。とにかく、日本では人物が出れば、よつてたかつて殺してしまふ{*1}。徳川末期には、まだ自給自足が出来て、武力的に窮地に陥つただけだが、今は経済的に破綻の道を辿つてゐる。
こんな世の中では、私のやうなものでも、帰朝の上、忌憚なく国家のために赤誠を吐露すれば、殺されるおそれがある。いや、老来既に従前の意気をうしなひ、世間からは生かして置いても毒にも薬にもならない人物と軽蔑されるやうになつては、頼んでも殺してくれるものはなからうかとも思はれる。その代り、老齢の身を以て天涯地角を漂泊する以上は、今日かうして居ても、いつ何時死ぬか知れない。もうその覚悟をしても遅くはあるまいとも考へた。
私は幼少の時、慈母より受けた第一の教訓は、「微笑みながら死ね」と云ふことであつた。私はこの教訓を忘れないやうにするため、「談笑死生間」と云ふ扁額を多年の間、書斎に掲げてゐたこともあつた。誠によい教訓を与へてくれたと今でもなほ慈母に感謝してゐる。特に古稀以上の年齢に達した私にとつては、生よりも、死の機会が一層多い筈だ。明治二十三年の国会開設から、日清戦争の頃、即ち政争の最も激烈であつた頃は、毎朝家を出るにあたり、無事で帰れると予期して出た事はなかつた。今日はその頃とは時勢が大いに違ふとは云ひながら、七十を越えた{*2}老躯を提げて海外万里の旅程に上るにあたつては、「死出の旅路」と思つてゐる方が確かなやうだ。さう考へると、いつ死んでも差し支へないやうに墓標を造つて置く方がよさゝうな気がした。しかし、世間普通の石塔や銅標では面白くないから、その代りに第二維新の方針となるべき事項を列記して、これを墓標の代りにしようと考へた。それにしても、ウツカリ帰朝して未だ墓標代りの意見書が出来ない内に、生命をなくしては何にもならぬ。今しばらく英国といふ安全地帯にあつて最後のご奉公を尽くさうと、ロンドンはケンシントンなるキヤムデン・ヒル・コートに仮の宿を定め、意見書の執筆に取りかゝつた。
留守中の当選
欧米人は、概して礼儀作法が正しいから、我々東洋人と会見した時でも、表面には随分尊敬の態度を示すが、内心では余り尊敬してもゐないやうに感じられる。私の如く身体矮小、容貌貧弱な人間に対しては、特にさう{*3}かと思はれる。たまたま「尾崎は日本屈指の人物だ」と云ふ立派な紹介があつても、先方では「こんな貧弱な先生が?」と云はんばかりに感ずるやうな気がする。その上に、私は年齢の割には若く見られるから、二回目の欧米漫遊の際には、特にそんな感じがした。私は少年時代には、「世間から尊敬せられないのは、たゞ年齢が若いためのみだ。年さへ取れば相当な扱ひをされるもの」と思つて居た。故に自然年寄りの真似したため、私は十七八才より二十四五才までは、年齢より大抵二三年ふけて見られた。しかるにその内、齢を重ねて四十歳、五十歳となれば、もはや年齢よりふけて見てもらふ必要もなくなつたから、自然に放任するやうになつた。そのためでもあらうか。今度は前とは反対に、年齢よりも若く見られるやうになつた。ことに欧米ではさう{*4}であつた。明治の末に、私が東京市長として、欧米に旅行した時などは、どこでも「若い市長だ」と評せられた。第四回目の洋行の際も、何人も私を見て七十余の老人とは思はない。中には、五十代の人と見るものもかなり多かつた。
しかるに、私が英国滞在中に、日本に衆議院議員の総選挙があつて、私は不在中に当選した。元来、不在当選といふ事は、難中の難事である。しかるに、私が不在中に当選した事を知つた私の知人は、皆大いに驚いた。ことに私が我が帝国議会始まつて以来の継続的議員である事を知つた時には、彼らはますます驚いた。英国には、最も長く議会にゐる議員をば『議会の父』と呼んで、尊敬する習慣がある。故に、英国流に言へば、私は議会の父であつて、しかも、ロイド・ジヨージと同じく、四十年ばかり議員をしてゐる事を知つた彼らは、驚かざるを得ない。彼らは私を五十代の人間と思つてゐたから、十歳余りで議員に当選した計算になる。驚いたのも無理はない。
これについて、思ひ出されるのは、およそ人間の容貌、性質、年齢等は、絶対不変のものではなく、その人の地位や、心がけ次第で、ある程度までは変更するものだといふ事実である。私が十歳ぐらゐの時、写した写真がこれを証明してゐるが、私は生来、人並外れて見苦しい子供であつた。同じ兄弟でも私の弟達は子供の時から、人並、或はそれ以上に立派な風貌を具へて{*5}ゐたが、私だけはなぜか、非常に見苦しく生まれ、母も常にそれを気にしてゐた程であつた。例へば、私は非常なソツ歯で、どうしても口を結ぶ事が出来なかつた。また私の兄弟は皆鼻筋が通つて高いが、私だけは格別に低く、かつ上を向いて居り、雨が鼻に這入つて困ると云つて、笑はれた事すらある程であつた。十二三歳の頃、私は初めて{*6}、容貌の余り見苦しいのをはづるやうになつた。そこで、子供仲間の内立派な容貌の人を見て、これに近似せしめようと、苦心し始めた。即ち容貌の修正を始めたのである。もちろん、立派な容貌になる事は出来なかつたが、それでも、どうか、かう{*7}か、口も漸く結ぶ事が出来、鼻も下に向くやうになつた。
又私は生来、非常な臆病者で、極めて内気でかつ万事控へめがちであつたが、天下に立つて大事をなさんとするには、これらの性質を是非とも改めねばならぬと一図に思ひ込み、容貌と同時に性質の修正をも始めた。その結果、容貌の方は、満足に修正する事が出来なかつたが、精神の方は成功点に達した。慶應義塾や、工学寮在学の頃は、既に多くの朋友から、強情不屈の人物と見られるやうになつた。私の言行に、世間が思つてゐるやうな強情頑固な点が見えるなら、それはすべて私が後天的に、意志的に作り上げたものに過ぎない。とにかく、よいか悪いか、自分で修正した結果、生まれつきと正反対の性質の人間になりおほせた{*8}事は、事実である。先年、金沢の医科大学で血液型の検査をしたところ、A型であつた。係の博士は過誤ではないかと驚かれたやうだが、私はかへつてその正確なのに驚いた。A型は従順怯弱の性質を意味し、正に私の本来の性質である。もし、私が精神の後天的修正をしないで、本来の性質を維持してゐたなら、従順温良な人間として或は今日以上の成功をかち得たかも知れない。即ち今日の如き孤立無援の人間とはならなかつたかも知れない。それはともあれ、人間の性質や風貌は、自分の意志次第である程度までは変化させる事の出来るものだといふ事は、私の体験によつてこれを証明し得るのである。手近の事例を見ても、二三年間国務大臣の位置に居れば、大概の人は、その容貌風采がよくなるが、辞職すると、悪くなる。
校訂者注
1:底本は、「しまう」。
2:底本は、「越へた」。
3・4:底本は、「そう」。
5:底本は、「具えて」。
6:底本は、「始めて」。
7:底本は、「こう」。
8:底本は、「なり終(おは)せた」。
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