妻の病気

 私の妻は、先年その長女品枝を米国に留学させるため渡米したが、ついでに母をロンドンに帰省した。その途上、船中で転び肩の骨を痛めたと云つて、帰朝後帝大病院整骨科で治療を受けたが、治療すればするほど次第に苦痛が増加する。そこで大学病院をやめ、築地の聖路加病院で光線療法を受けたが、それも効能が見えなかつた。その内に私が中耳炎にかゝつて慶応大学病院に入院してゐたから、妻は毎日のやうに見舞ひに来た。当時慶大病院の整骨科に年齢は若いが、すこぶる評判のよい博士がゐた。これに見せたらよからうと忠告するものがあつたので、診察を乞うた{*1}ところ、その博士はこれは決して挫傷ではない。肩の骨は堅牢で、転んだぐらいで挫傷する筈がない。何か黴菌が宿つてゐるためだらうと診断した。そこでまづ病気の性質を確認するため、聖路加病院の発議で、我が国有数の大家三名に共同診察を請ひ、種々の方法を施した結果、遂に肉腫即ちサルコーマであると決まつたが、その治療法は未だ発見されてゐない。米国や独逸には、或は既に治療法を発見したものがあるかも知れないが、まだ日本には伝はつてゐないと云ふ事であつた。折柄米国の元大蔵大臣の未亡人が、日本に遊びに来てゐたが、文学趣味のあるため妻と懇意になつた。その婦人は、米国の自宅の近所によい病院がある。そこへ行けば必ず治療が出来る旨を説いて、しきりに米国行を勧め、妻はその婦人と共に渡米し、その病院に入院して治療を受けた。
 当時私も外遊しようと思つてゐたが、妻はそれを待たずに渡米した。その後数ケ月経て、私が渡米した頃は、妻は大手術後の経過すこぶる良好で、既に外出も許されてゐた。しかしとても長途の旅行には堪へないと云ふ医師の忠告であつたから、私は妻を残して、娘二人と共に英国へ渡つた。その後妻の肥立ちはますます宜しく、医者も旅行を許したが、長途の汽車旅行は許さなかつたから、妻は米国の西海岸で乗船し、全部海上の一人旅で、私達とは半年ほど後れて英国へ来たが、見ると非常に肥えて、以前の着物は着られない程になつてゐた。家族一同喜んでゐたが、やがて横腹に苦痛を覚え出した。後から聞けば、肩の肉腫病が肺や心臓にまで蔓延したためださう{*2}だが、英国の医者は、それを妻に知らせないで、何にも特別の手当はいらない。飲食も遊覧もすべて平常通りにするのが、最良の治療法だと云つて慰めて置いたのであつた。
 これについて日本の医者には驚いた。帝大病院では患者が挫骨だと云へば、挫骨の手当てをしてゐたのだから、治らう筈がない。慶大病院の博士は肩骨の性質は知つてゐたが、病名は知らなかつた。無理もない。日本ではその当時誰も知らなかつたのだ。私はそれまでは日本の文化は、各方面において多少欧米より後れてゐるが、軍事と医術だけは、余り後れてゐないと思つてゐた。しかるに実際は大そう後れてゐる。欧米では普通の看護婦すら肉腫患者の扱ひ方を知つてゐた。軍事においても、同様である。私が三回目に洋行した時、欧米においては大戦の試練を経て、タンク、飛行機、大砲、毒瓦斯等の武器が、著しく発達して居り、日本の武器は大いに遜色ある事を知つた。政府が新式武器取り調べ費を要求したのは、私が第三回目の洋行から帰朝し、右等の事実を絶叫した後であつた。今後も油断をすれば、万事が諸外国より大いに後れるであらう。自慢高慢と油断ほど恐るべきものはない。
 満州事件勃発の初めにあたつては、米国人はたゞ突然の事変に驚いただけで、その影響や結果については、何ら予想してゐなかつた。ことにそれまで帝国政府は非常に信用を得てゐたから、本国政府の訓令を受けて、出先の外交官が、
「奉天は占領したが、錦州は攻撃しない考へだ。」
などと声明すれば、米国政府及びワシントン駐箚の列国外交官も、多くはこれを信じてゐた。多年東京に駐在して、私と懇親の間柄であつたところの某国公使が、私に向かひ、
「満州事変も一局部の紛擾に終はりさう{*3}だ。」
と云ふから、私は嘘言を以てこれを欺いて置くのは、かへつて帝国将来のために宜しくないと思つて、
「奉天を攻撃占領した以上は、当然錦州をも攻撃せずには居れない筈だ。この事変は大いに拡大するかも知れない。」
と答へたところ、その公使は、
「今日まで日本政府の声明に間違つた例がない。政府が錦州をば攻撃しないつもりだと明言する以上は、決して攻撃しないだらう。」
と述べてゐた。私は心中ひそかに、「日本政府はかくまで列国間に信用を得てゐるのに、遺憾乍ら今回はこれを失墜するだらう」と心配した。
 事変の初めには、列国政府中にも我が国に好意を寄せ、なるべく日本の利益になるやうに解決したいと考へたものもあつたやうだ。しかし、何分にも欧洲大戦以後、欧米列国は、国際問題を武力で解決した従来の方法を改めて、何事も條約と協議によつて解決しようとする思想が強くなつて、不戦條約すら締結した程の世界的状勢になつてゐたから、日本は遂に国際連盟において、五十余箇国の反対に遇つて、孤立した。この如き事態の下においては、私が我が帝国のため、また世界人類のために、貢献しようと考へて、ひそかに研究し懐抱して行つたところの目的を口外する事さへ出来なくなつた。故にせめては日米関係だけでも良好にしたいと考へ、米国生まれの日本人の教育及びその心がけ等を改善させるために、各地で卑見を開陳した。米国生まれの日本人に対する米国人の言行や、第二世の教育に従事してゐた日本人のやり方を見ると、結局第二世の位置をますます困難にし、一歩進めば日米間の外交関係に悪影響を及ぼすべき危険があるやうに思つた。故に双方の言行を改めさせるために尽力したが、微力の致す所、余り効果がなかつたやうだ。さりとて現在の儘放任すれば、所謂日本移民第二世の立場は、将来ますます困難に赴き{*4}、布哇においては、或は政治上の難問題を惹起するかも知れない。
 満州事変の結果、日本はやむを得ず国際連盟を脱退したから、私の如く連盟を改良強化して、平和世界を現出させようと考へても、当分は実行不可能となつた。のみならず{*5}、国内には右翼的風潮が増加し、親友犬養首相は海軍将校のために虐殺され、井上準之助、団琢磨等の諸氏も右翼団員のために虐殺され、国内的にも国際的にも、平和主義は当分実行不可能な世の中となつた。故に私の欧米漫遊の最大目的は、根抵より覆されたばかりでなく、帰朝して意見を述べれば、私の生命すら危険だといふ通信が頻々と来た。そこで私はしばらく帰朝期を延ばし、英国で日本の前途に関する意見の起草に着手した。
 その頃私の妻は、病気快復後米国より英国へ渡来し、前記の如く外貌は見違へるほど強健に見えたが、肉腫の病菌は、やがて肺や心臓を冒し、外科的手術を施す余地なきに至つた。病状すこぶる重く横臥したまゝ身動きも出来ないやうになつてからの事である。妻はしきりに帰朝を希望してゐたが、かねて知遇を辱うしてゐた妃殿下から、お見舞ひの電報に接して、ますますその希望が強烈になつた。私はたとひ船中において死亡するまでも、その希望に応じてやらうと考へ、付き添ひの看護婦二人の内一人だけは日本到着まで来てもらふ{*6}事に約束した。これも私が意見書の起草半ばにして帰朝を決心した一因である。とかくしてゐる内に、妻は一九三二年末、遂に死亡し、私は遺骸を携へて帰朝した。爾来今日まで警察官護衛のもとに、たゞ生きてゐるだけで胸底の思想は、これを口外する事だも出来ない。況んやその実行をやだ。当分の間は見物してゐるより外はない。
 しかし欧洲列国は、今や興亡の岐路に立つてゐる。今日の状態で進んで行くなら、結局は、戦争になるだらう。再び欧洲に大戦争が起これば、著しく進歩した武器と戦略のため、ヨーロツパ列国は、概ね滅亡し、文明は没落して、昔の暗黒世界に逆戻りするより外はなからう。これに反して、文明の利器を戦争に用ゐず{*7}、平和のために使用すれば、国内に戦争が終息したやうに国際的にも戦争は終息するであらう。今や世界の文明国は、興亡の岐路に立つてゐるが、今後いづれの方向に進んで行くかは、数年中にほゞ見当がつくだらう。その時まで生き長らへて、平和的世界を現出させるために、多少なりとも尽力したいのが、今日私が露命をつないでゐる唯一の目的である。
 もし欧洲大戦争が起こつた場合に、これに関係せず、完全に中立してゐれば、我が国は世界第一の富強国兼文明国となつて、無類の幸福を受楽するに至らんこと疑ひを容れない。しかし封建的遺習のなほ残存する我が国人に、それが出来るや否やは、今後の一大疑問である。私はこの事態に善処するためにも、余生を捧げたく思つてゐる。

今ぞ覚る無明の夢

 英国がいかに安全地帯であらうとも、いつまでもこゝに居るわけには行かない。私には祖国がある。その祖国日本は、今嵐の真つ最中にある。この一年半の留守中に、そこには満州事件はじめ幾多の事件が相次いで起こつた。しかも外国に在つては、これらの事件の真相が充分に分からない。そのよつて来たる処を研究して、国難克服に一臂の力を致すのが、政治家の務めだ。意見書も大分はかどつたので、さらば惜しからぬ生命を祖国に捧げんと、亡妻の遺骨を抱いて、昭和八年一月十三日ロンドンを出発して帰朝の途に就いた。
 船中でももちろん私は、「墓標に代へて」を書きつゞけた。照国丸は予定の如く二月二十一日神戸に入港した。
 その日神戸埠頭の厳戒ぶりは、たゞならぬ気配を示した。聞けば私がロンドンに在つて某紙に執筆した「国際協調主義」が、右翼急進派の意見と相容れず、私の帰朝に際し、上陸反対示威を行ふといふので、水も漏らさぬ警戒陣が張られたのだと云ふ。外遊足かけ三年、渦巻く非常時の日本の低気圧に押されて「非国民」とさへ呼ばれる私、昼食をとるために上陸してさへ、暴漢に襲はれかゝつた。「非国民」でもよい。日本は永遠だ。いつかは私の真心も分かるだらうとは思つたが、警戒当局の迷惑もあることだから、私は神戸上陸を中止してそのまゝ船で横浜に向かひ、二月二十五日逗子なる我が家に帰つた。
 余りに険しい世相だ。幾多の同志先輩が身命を投げ出して悪戦苦闘の末、漸く藩閥の勢力を打ち破つたのも束の間で、もうこの有り様だ。私の畢生の努力は、憲政の樹立と、政党の組織、訓練とに在つたのだが、二つながら失敗に帰し、政党は腐敗に腐敗を重ねて、その首領株は続々{*8}監獄に行く程の醜態に陥つて居り、立憲政治は到底物にならないかと悲観される程の不始末な現状を呈して居る。私が六十年間、心血をそゝいで尽力した事柄は、誠に見苦しい結果を生じ、人に対して合はせる顔もないほど、一生を無駄に過ごしてしまつたと思つてゐる。
    六十年を心つくして国民に
        仕へし跡のなどてさびしき
 そこで、こんな哀愁をいだきながら、その年十月一日から、自分の選挙区たる三重県の各所を歩いて、外遊中に議員に当選したことに対して挨拶かたがた講演をして廻つた。その時、もの静かな伊勢の秋色をめで、質朴な鄙人の空気に触れてゐると、何かなしに私は私は自分の一生を無益に費やしてしまつたやうに感じ出した。その上既往が馬鹿げて居つたのみならず、現在もなほ馬鹿げた事をしてゐると思ひながら、一夜悄然として眠りにつくと、夢ともなく現ともなく、一種の感想が私の脳裡に浮かんだ。普通の言葉で云へば、天啓とか、霊感とか云ふべきものであらう。思ひがけない事柄が、ヒヨツと脳裡に浮かんだ。
「昨日までの仕事は、すべて今日以後の準備行為に過ぎない。人間たるものは、さう心得ねばならぬ。」
と云ふ事が、天の告げたのか、誰が告げたのか、分からないが、私の脳裡に浮かんだ。既往六十年間、無駄な生活をしたなどゝ女々しい後悔をするのが間違ひで、今日までの失敗は、今後成功するための試練であり、準備である。人間は幾ら年をとつても、昨日までの経歴は学校で云ふならば予備門で、今日以後が本当の修業である。死ぬまでその気でやるべきものであると初めて{*9}気が付いた。さう{*10}気がついて見ると、まるで天地が一変したやうな心持ちがした。
 私が今後どれだけ生きるか、無論分からないが、私が七十六年間に得た知識と経験を本当に利用して働けば、或は思想的に、或は実行的に過去六七十年間に出来なかつた仕事が出来るに相違ないといふ心が起こつて、前途がすこぶる有望になつた。既往が準備行為であるとするなら、失策などがあれば、あるほど、将来の過失を減らす原因になるから、後悔するどころか、誠によい修業をしたと考へるやうになつた。この思想は、私が過去七十四年間に起こした思想中の、最も貴重なもので、これが心に浮かんだゞけで、私は生まれ甲斐があつたと思つてゐる。

政戦六十年の回顧

 犬養君が斃された後は、議会開設以来の衆議院議員は、私一人になつてしまつた。政戦六十年、思へば永い戦ひであつた。世に「長生すれば恥多し」といふ言葉がある。私はどちらかと云へば、貧乏な生活をこそして居れ、別に恥になるやうなことはしなかつたが、近頃政治社会に続出する失態を見ると、何となく気恥づかしいやうな気がする。初期議会の真面目さが思ひ出されるのだ。しかし、さう{*11}言つたからとて、私は昔の方が善かつたと云ふのではない。世の老人達はやゝもすれば、「昔はよかつた」と言ふが、あれは皆嘘だ。私も今の老人達が云ふ所の「昔の事」は、ひと通り知つてゐるが、昔と今と較べれば、今の方がずつと善い。日本の歴史を見れば明白に分かる。我が国人は支那人に教へられて、昔は善かつたが、世が末になつて悪くなつたやうに考へてゐるが、それは大きな誤謬である。老人達の云ふやうに世間がだんだん悪くなるなら、今ごろの人間は、原始的未開人になつてゐる筈だが、事実は左様ではない。もちろん昔を忘れては宜しくないが、昔に帰ることは出来ない相談だ。いつも前を向いて全世界を眺め、善いものはすべて取り入れて進歩しなくてはならぬ、かう考へてさて、過去の失敗は将来の戒めと悟つてはゐるが、議会近来の失態については、自分にも大いに責任がある。暗然たらざるを得ない。
 それにも拘らず衆議院は、私が第一回帝国議会以来憲政のために尽瘁したといふので、その功労に対し、昭和十年三月十六日院議を以て表彰してくれた。私は実に光栄と思つてゐる。この表彰の最初の発議者は、第一議会以来唯一の継続議員として、私一人だけを表彰する考案であつた。「いかに立派な表彰方式をとつても、第一議会よりの継続者は、二度と再びあるべき事でないから」と、私に話した友人もあつた。私はそれは偶然の事態を表彰するわけになるから、宜しくないと思つた。よつて私は、
 一、廿五年または三十年以上勤続した議員をばことごとく表彰する事
 二、憲政の功労者は、議員のみに限らない。故に院の内外と、その人の生死とを問はず、議会開設五十年期までに精細に調査して、適当の表彰方法を講ずる事
と云ふやうな次第を列記して、浜田議長に送り、以て各派交渉会に謀られんことを望んだ。私と共に数名の議員が表彰されたのは、多分この意見に基づいたのであらう。
 私は衆議院議員を四十有余年間勤めたが、議員としては勲三等に叙せられたに過ぎない。しかるに同じ私が伴食大臣として行政部に僅か二年余り居れば、たちまち正三位勲一等に叙せられる。官尊民卑の弊習は今日でも尚この如く顕著である。
 四十有余年の間、私が夢寐にも忘れることの出来なかつた議事堂とも遂に別れねばならぬ時が来た。東亜の盟主を象徴するにふさはしい豪壮な新議事堂に移るのは吾々の喜びではあるが、それでも旧議事堂に断ち難き愛着を覚える。四十四年の思へば長い戦ひであつた。
    物言はぬ家にも別れ惜しまれぬ
        我が半生の戦ひの跡
 こゝで、私の既往六十年にわたる政治生活を回顧すると、明治十四年に統計院の権少書記官として、初めて{*12}政府の役人となつたが、たちまち政変に遭遇して在職僅か二箇月ばかりで辞職した。その後、明治三十年に外務省の参事官になつたが、これ又四箇月ばかりで辞職のやむを得ざるに至つた。その翌年、文部大臣になつたが、この時もやはり五箇月目に辞職した。かくて二箇月、四箇月、五箇月と、少しづゝ在職期間は長くなつて、大正二年に司法大臣になつた時は、中途で一度辞表を捧呈したが、御沙汰によつて留任し、通計二年半ほど在職した。かくて官吏としてはいつも生命の短かい方であつたが、人民から選挙された職司としては、明治二十三年に衆議院議員になつてから今日まで四十余年間継続し、他に類例のないほど長続きをした。又東京市長になつた時も、十年間在職して、無類の長居をした。官吏となれば、在職期間は無類に短かく、民吏となれば、日本無双の長続きをする。全く不思議だと自分でも思つてゐる。生来、官辺には縁故のない人間と見える。


校訂者注
 1:底本は、「乞ふた」。
 2・3・10・11:底本は、「そう」。
 4:底本は、「趣(おもむ)き」。
 5:底本は、「加之」。
 6:底本は、「もらう」。
 7:底本は、「用ひず」。
 8:底本は、「続続」。
 9・12:底本は、「始めて」。