国防に関する質問主意書(昭和十年三月二十日)

一、政府は陸海両軍中いづれを以て国防の主力となす方針になるや。
 (参考)この方針は、関係列国の形勢によつて変化すべきものなるが、現在の国際関係においては、いづれを主とし、いづれを従として可なるや。慎重の考慮研究を要する問題である。
 {*1}もし国力が許すならば、陸海軍及び空軍の三者は、いづれも皆世界列国中匹敵する者なき程度まで拡張するほど安心な事はあるまい。しかし、それは、いかなる富強国といへども、断じて為しあたはざる筈のものである。もし強ひてこれを為さんとすれば、常にその経済力を疲弊せしむるのみならず、また列国の猜疑心を喚び起こし、いたづらに敵国を増加し、かへつて国家を危殆に陥れる恐れ{*2}がある。故に世界の強国中英・米は、主として海軍に依り、仏・伊・露は、主として陸軍に依つて、各々その国の安全を維持して居る。特に英国の如きは、一衣帯水を隔てゝ、強大なる陸軍を有する所の仏国に隣接してゐるが、力を海軍に専らにし、陸軍は、非常の劣勢を以て辛抱してゐる。又仏国は、僅か三十哩に足らざる海峡を隔てゝ近く英国と対峙し、長い海岸線を持つてゐるが、英国の三分の一内外の海軍力を以て辛抱してゐる。これはすべての軍備を隣国に劣らざる程度まで整備すれば、英仏の経済力を以てするも、なほ国家を疲弊せしめ、以てその安全率を減殺する恐れ{*3}があるからだ。
 しかして英・仏両国人民は、毫も恐怖の色なく、泰然自若として各々その業務に安んじてゐる。これに反して我が国の附近には強大なる陸軍国なく、海軍国は数千乃至一万哩の外に在る。しかるに平生戦争にかけては、世界無双と自負するところの我が国人中に、数千里外の英・米と対等の海軍力を備へなければ、安全感が得られないと云ふものゝあるのは、いかにも不可解だ。この輩をして仮に英仏人の位置に立たしめば、一夜も枕を高くして眠ることは出来ぬであらう。
 また米国の如きは、その地域は我に二十五倍しその富力は我に七倍するも我が半分強に過ぎざる陸軍を以て辛抱してゐる。この他ベルギー、オランダ、スヰス、デンマーク等の小国人民は、帯甲百万の強国間に介在しながら、ほとんど無防備同様の状態にてその生を楽しんでゐる。のみならず{*4}、その公債株券等が、大国以上の市価を有するのは、その国家が、比較的に安全なためである。見るべし、国家の安危は、単に軍備の大小強弱のみによつて定まるものに非ざることを。これに反して、多年世界の最大軍備国と聞こえたる露・独の二大帝国が、帝国としては、既に滅亡したる事実も、経世家の宜しく考慮すべき所である。
 軍備は元来戦争の道具であつて、平和の道具ではない。故に軍備によつて安全を求むるのは、火によつて炎焼を免れんとするの類であつて、本来無理な注文である。こゝに国あり、いづれの国にも劣らないほど強大なる陸、海、空の三軍を備具すれば、その国だけは安全だらうが、附近の列国は、いづれも皆脅威を感じて、不安全になる。故にやむを得ず合従連衡以て安全を求めて、欧洲大戦以前と同様な形勢を現出する。その結果は、前に安全であつた国家が、今度は最も不安全になる。独逸帝国は、この経路を践んで、滅亡したのである。
 また独逸帝国が、いかにその軍備を拡張しても、陸軍だけに止めて置いたなら、英国は、多分独逸の敵とはならなかつたらう。しかるに盛んに海軍を拡張したため、英国をも敵の陣営に逐ひ込んで遂に滅亡したのである。陸軍を拡張すれば、恐怖危惧又は競争の念慮により、陸軍国が敵となり、海軍を拡張すれば、海軍国が敵となる。二軍ともに拡張すれば、敵を海陸双方に作る事になる。国防の最大要務は敵を作らないのに在ることを忘れてはならぬ。敵を作るのは、国家を安全ならしむる道ではない。況んや味方をば一ケ国も作らずして、同時に二三ケ国の敵を作るにおいてをや。
 しかし現在の如き国際的無政府時代においては、防備を撤廃することは出来ない。故にいかなる強大国といへども、陸海いづれをか主とし、やむなく敵を作る場合といへども、出来る限り、これを一ケ国に止める工夫をする。我が国人も今日この考慮を怠れば、他日或は噬臍の悔あらんことを恐る。これ外交的及び経済的見地より右の質問をなす所以である。
二、現内閣は総歳入の四割六分に及ぶ所の国防費(公債を除いた普通歳入の七割余)を以て国力相当の費額と考ふるか。
三、世界の広きも、この如き高率の軍事費を支出して、財政経済の破綻を招かざる邦国はない。しかるにひとり我が帝国に限つて、その憂ひなしとする理拠いかん。
 (参考)軍備がいかに充実しても経済力が、これに伴はなければ、国防の目的を達するあたはざる事は、独・墺・露三帝国の破綻がこれを証明してゐる。
 欧米列国における総歳出と軍事費の割合を見るに、米は総歳出の一割七八分、英は一割六七分にして、その割合最も多い仏・伊二国といへども、なほ二割余に過ぎない。三割以上に及ぶものは一ケ国もない。世間やゝもすれば米国が本年度において約八億弗の国防費を支出せんとするのを見て、その多額なるを説くものあれど、その総歳出は八十億弗に及び、失業者救済費は、約四十億弗、即ち軍事費の五倍に及ぶことを知らねばならぬ。政友会が僅々一億八千万円の窮民救助費を要求してすら、これを爆弾動議と唱へて、挙世震駭する我が国の現状に比すれば、実に驚くべき相違である。
四、政府は最近二三年間におけるが如き予算の分配を以て、国家各方面の事業を満足に発達せしめ得べしと信ずるか。
 (参考)陸海軍費は昭和七年以降急劇に増加し、遂に歳出総額の四割六分を占むるに至つた。しかもそれは両省が直接に支出する金額だけであつて、この他なほ軍事公債の元利払ひや、徴兵関係の費用の如く、他省の負担となつて居る軍事費がかなりたくさんにある。
 我が国には宮内省及び特別会計たる鉄道省を除き、省と名の付く官衙が十一あつて、いづれも国家重要の職務を取り扱ふ所である。しかるに総歳出の四割六分を陸海両省に充当しては、他の九省は、残りの五割四分を以て、その職責を尽くさなければならぬ。これでは陸海軍だけは、発達しても、他の主要事業は、萎靡不振の状態に陥らざるを得ない。現に各省共に為すべき事業は、山積してゐるが、経費不足のため、やむなく見合はせてゐる。かの国民保険の如きは、国防の根本に関する問題であるにも拘らず、なほこれに対して必要なる施設を為すあたはざるほどである。上下水道の築造、伝染病の予防等、世間普通の衛生設備すら、遅々として運ばない。従つて壮丁の健康状態が思はしからざる事は、徴兵検査の結果を見ても分明だ。国家もまた人体と同じくその主要部をば、釣り合ひよく、満足に発達せしめなければならない。近年の如き予算の分配では、不具の国家を現出する憂ひはなからうか。軍備だけは、一等国に列しても、他の設備においては、二等国にも劣るやうになりはしないか。いな、{*5}現にさう{*6}なつてゐるやうにも見える。また全人口の約半数を占むる所の農村漁村は非常の困弊に陥り、中小工商業者は、全国到る所生活難を訴へ、国民教育費の欠乏、欠食児童の増加等、悲事惨状実に言語に絶する。他の文明国においては、窮民救助に総歳出の半額を支出する者すらあるのに、ひとり我が国においては、これらの窮民に対して、施設する所は極めて軽微である。
 また各種の科学研究に必要な設備は、概して貧弱を極め、欧米の二三等国にも及ばざるほどである。軍事の次には、最も進歩して居るべき筈の医業に関する諸器械すら、その高価なるものは、多くは欠乏してゐる。畢竟経費不足のためである。
 かくては国家各部の必要機関は到底均衡を維持して、満足に発達する事は出来ず、不具的国家が現出するわけになる。現内閣もししからずと云はばその理由と事実を示されたい。しからざれば真誠の愛国者は、国家将来のために深憂を抱かざるを得ない。
五、政府は、明年度以後最近の機会において、各省不均衡の予算を、更正する意旨なきか。
 (参考)陸海軍以外の各省大臣をして腹蔵なく、その意見を開陳する自由を有せしめば、恐らくは一人として、近年の如き予算の分配に満足するものはないであらう。しからば国家の重任に当たる所の各大臣が、何故に軍部偏重の予算に忍従するかと考ふるに、およそ四つの理由を想像する事が出来る。
 (一)諸大臣は軍部両省の要求に反対すれば、多分内閣の破壊を招くだらうと心配する事。
 (二)自分達の内閣は、破壊されても、後継内閣によつて、予算の分配を更正し得る見込みさへ立てば、内閣の倒壊を賭して、その所信を固執するくらゐの人物は、いづれの内閣にも多少は居るに相違ないが、不幸にしてその見込みが立たない事。
 (三)犬養首相の虐殺以来、軍部の威圧力が、意想外に増加した事。
 (四)閣僚中にも危機病、非常時熱に浮かされて、謂れなく英・米・露の侵略を危惧するものがある事。
 右の四事は、その根拠の強弱いかんに拘らず、閣僚を動かす原因となるに相違ない。はたしてしからば、予算更正の道は、
 (一)軍部の威圧に抵抗し得る内閣を作るか。
 (二)但しは又軍部両大臣をして、国家の大局より打算して、これを発案せしむるかの二つより外にはあるまい。
 右の二案は、いづれも非常に困難なやうに見えるが、いよいよ現在の如き予算の分配方では、国家が不具になり、かつ内外両様の危険が、増加する事が、明白になれば、いかなる困難をも乗り切らねばならぬ。現内閣の首相は、海軍部内の有力者であるのみならず、その後ろには、さらに一層有力なる海軍の大先輩斎藤子爵が、付随してゐる。故に少なくとも海軍部内だけは、両大将の力を以て抑へ得べき筈だ。両君にしていやしくも国家を現在の危険状態(こゝに云ふ所の危険状態とは、予算の分配その宜しきを得ざるがために生ずる内生的のものであつて、世間に云ふ所の外来的のものではない)より救ひ出すがために、献身的努力を惜しまなければ、必ずその志を遂行し得べしと思はれる。
 しかして今後なほ大いに経費を増加すべき恐れ{*7}のあるのは陸軍ではなく、むしろ海軍である。陸軍現在の経費は、満州事件後のものであるから、いやしくも外交工作にして大過なき以上は、この上さらに大いに増加しよう{*8}とは思はれない。荒木前陸相の如きは、一両年中に減少すべしとさへ明言した。これに反して、海軍は英・米との協調が成就しなければ、その経費は今後なほ増加すべき形勢が見える。万一製艦競争でも起これば、経費の増加は停止する所がないだらう。
 故に本員は深く岡田首相に嘱望し、特にその後継者にして、かつ海軍の大先輩たる斎藤子爵に向かつて、献身的努力を切望する。両大将の努力次第にて、海軍方面より内閣に及ぼす所の威圧は、大いにこれを緩和するを得べしと信ずる。海軍の圧力が、大いに減少すれば、陸軍の圧力も、また従つて緩和すべく、しかして軍部の威圧に抵抗し得べき内閣の成立する可能性が生ずる。
 もし不幸にして右の一案が行はれなければ、第二案として本員は軍部両大臣の忠誠に訴へざるを得ない。陸海軍大臣もまた国務大臣として、 天皇陛下の重寄を辱うする者なれば、たゞ軍部の経費を増加するのみを以て、満足してはならない。常に国家の全局に注意して、その隆昌を企図しなければならぬ。しかして現在の如き国費の分配がその宜しきを得ざる事は、軍部両大臣といへども、知らない筈はない。
 それも近き将来において外国より武力的圧迫を受けさう{*9}な危険でもあるなら、やむを得ないが、外務大臣がしばしば議会において明言せる通り、対外関係は、すべて外交工作によつて処理し得べき形勢になつてゐる。欧米列国の情形は、武力を挟んで東洋問題に容喙する事を許さない。たとひ強ひてこれを為さう{*10}としても、東洋においては、我が海軍に対して、勝算の立つものは全世界を通じて、一ケ国もない。大小五十余ケ国集合して満州事件否認の決議を為してすら、辱を忍んで、その決議を実行しなかつたほどの情勢になつてゐる。故に我より事端を開かざる限りは、外より我を脅威する者のあらう筈がない。軍部両大臣は無論この形勢を熟知してゐる筈だ。故に本員は両大臣が、その所管官衙のために多額の予算を獲得するを以て満足せず、その分配を公平にし、以て国務大臣たるの職責を全うされんことを切望する。しかしてその方法は、
 (一)陸海両省の経費を削減して、これを不足せる他の九省に分配し、以てその均衡を回復するか。
 (二)しからざれば、大いに歳入を増加し、これを他の九省に分配するの外はあるまい。
 それがためには、歳入を約四十億以上に増加しなければならぬ。それでもなほ現在の費額を減少せざる限り、その総歳出に対する陸海軍費の割合は、世界無類の高率である。歳入を五十億円に増加しても、軍事費に十億円使へば英・米以上の高率になる。
 国務大臣としては陸海両相も、右両案中いづれをか選択すべき責任がある。しかし両案のいづれも実行する事が出来なければ、折衷案として、
 (三)一方には両省の経費を削減すると同時に、他方においては大いに歳入増加の道を求め、差し当たり陸海両軍の経費を総歳出の三割以下に止める方法を講究せねばならぬ。
 しからざれば両省の長官たる職責は尽くせても、国務大臣たるの職責に至つては、未だしと評せざるを得ない。本員は、陸海両相が国務大臣たるの職責を全うし、以て 陛下の御倚託に背かざらんことを切望する。
六、現内閣は、ロンドンの予備会商において、海軍々備の対等権を主張し、又来るべき制限会議においても、これを主張する予定のやうだが、英米二国がこの主義に同意した場合には、いかなる方法によつてこれを実行する見込みなるや。
 (参考)軍備の大小多寡を決定するのは、元来独立国当然の権利であるから、この主義には何人といへども、反対しよう筈がない。問題はたゞその方法と、それより生ずる利害に在るのだ。日・英・米三国の海軍々備を対等ならしむるためには、およそ三つの方法が考へられる。
 (一)英・米二国をしてその海軍力を、我が国の程度まで減縮せしむる事(出来れば最良手段だが、なかなか困難だらう)
 (二)我が海軍力を英・米の程度まで拡張する事(その困難は同一なる上に我が財力を疲弊せしむる憂ひがある)
 (三)英・米は減縮し、我は拡張して、三国を対等にする事(これも云ふには易く、行ふは難い){*11}。現在の五‐五‐三の比率について説明すれば、英・米は一を減じて、四となし、我は一を増して、四となすのである。
 現在の五‐五‐三の比率ですら、英国は濠洲・香港・新嘉坡等を、又米国はフイリツピンを防衛するあたはず、甚だしき{*12}に至つては、英国には英・米二国の海軍力を合はせても東洋においては、日本に対して全勝の算が立たないと論ずる戦略家さへあるほどだ。特に英国の如きは、かつては二ケ国標準と唱へ{*13}、最強二ケ国に対抗し得るだけの海軍力を備へる事を以て、その方針と為し、その後一歩退ひても、なほ世界戦争前までは、一ケ国半標準を固執した国柄である。故に華府会議において五‐五‐三の比率に同意したのは、英国にとつては容易ならざる困難事であつた。
 また米人は今日では世界無比の富裕国と自信し、製艦競争となれば必ず勝つと思つてゐるから、上記の三案は、彼らにとつては、いづれも非常の難件であらう。現内閣はいかなる手段方法によつて、この難関を突破せんとするのであらうか。極めて慎重の考慮を必要とする。
 我が国は、日露戦争以後三十年の久しき間、一度も脅威を受けた事はない。満州事件については、全世界の反対に遭遇したから、その当時欧米漫遊中の本員は、憂慮に堪へ{*14}なかつたが、我が同胞は深く脅威を感ぜず、運よく既に難関を突破してしまつた。今さら一ケ国を相手に脅威を感じよう{*15}筈がない。五‐五‐三の比率下においてすら、さう{*16}である以上は、他日対等となれば、なほさら安全感を増加するに相違ない。問題はいかにして、対等の実を上げ得べきかに在るのだ。
 しかし、英米二国は現在ですら内心ひそかに東南洋におけるその領土の防衛力の不足を憂慮してゐる程だから、その海軍力が、日本と対等になれば、いよいよ脅威を感ずるに相違ない。故に名義だけの対等ならばとにかく、これをして、事実上の対等に同意せしむる事は、いかなる手腕家にとつても、容易の業ではあるまい。けだし軍備の対等は、元来安全感の対等より生ずべき性質のものであるから、まづ安全感の対等を図らずして、ひとり軍備の対等のみを主張しては、談判は容易にまとまらぬであらう。
 しかして英米をして、その属領に対して、安全感を得せしむるためには、特別の外交的手段を要する。それは不侵略條約か、或は無條件の国際裁判條約締結の類でなければならぬが、目下の所、いづれも実行しがたい情勢に在る。故に事実の軍備対等を実行し、日・英・米の三国をして対等の安全感を得せしむる事は、ほとんど絶望に近い困難事と見なければならぬ。我が当局者は、果たして何らの手段方法を有するか。恐らくは思慮ある全国民のことごとく聞かんと欲する所なるべし。
七、不幸にして次回の海軍制限会議が、不調に終はるも、政府はなほ帝国の安全率を、現在以上に維持し得べしと信ずるか。もししかりと云はゞ、その根拠いかん。
 (参考)適当なる手段方法を得ずして、単に海軍対等を主張すれば、不脅威と云ひ、安全感と云ふが如きは、いづれも根拠のない空言となる。従つて三国間の協調は、成立の見込みがなささう{*17}に思われる。しかしてその結果は、勢ひ製艦競争とならざるを得ないであらう。いづれの国にとつても、製艦競争ほど無益有害なものはない。財力や製艦能力が、ほぼ{*18}同一なれば、いくら競争しても、互に疲労するだけで、どの国も相手国に対して、別段に強くも弱くもならないが、その国力が懸隔すれば、比較的国小にして財力豊富ならざる国家が、最も多く損害を被る事になる。今最近の統計書によつて日・英・米の富力、所得を比較すれば、およそ左の如し。

      富力       人口一人あたり
 日本 一一〇、一八八百万円 一、七一〇円
 英国 二三六、三三〇 〃  五、二四七〃
 米国 七六二、三五六 〃  六、六〇七〃

      国民所得     人口一人あたり
 日本  一〇、六三六百万円   一六五円
 英国  三七、一〇〇 〃    八〇六〃
 米国 一四二、四三八 〃  一、一六〇〃

 右は磅を十円、弗を二円と見ての概算なるが故、これを現在の為替相場にて換算すれば、富力及び所得に関する彼我の懸隔は、いよいよ甚だしき{*19}に至るべし。従つて国庫の歳入も平時は経常臨時を合はせて、
 およそ、
 日本は十四五億円より十六七億円まで
 英国は七十四五億円より八十四五億円まで
 米国は七十六七億円より八十六七億円まで
である。海軍費も、普通はこの内より支払はなければならないから、いざ製艦競争となれば、我が国はすこぶる不利の位置に立たざるを得ない。しかして財力が欠乏すれば、いかに奮発しても、競争に勝つわけには行かない。これ本員が対等の名を得て、かへつて我が海軍力の減少せん事を恐るゝ{*20}所以である。
 協定不調の結果は、ほゞ{*21}華府会議以前の状態に復帰するものと見なければならぬ。大正十年以前は、国防に関しては、何らの條約もなく、我が国は純然たる対等の位地に立つて、随意に八八艦隊の建設に従事し、我が建造中の七隻二十八万九千一百噸に対し、米国は十六隻六十一万八千噸の軍艦建造中であつた。(この比率四割六分七厘)
 また大正十年度には、総歳出の四割八分七厘を陸海軍費に充当し、現在以上に予算分配の不権衡を生じたが、我が海軍力は、やがて対米四割以下に落つべき形勢であつた。のみならず{*22}、もし八八艦隊計画を遂行したなら、大正十五年には、我が海軍費は、八億円に達し、これに陸軍費を合計すれば、約十億円に及び、総歳入の六割となるべき計算であつた。これ海軍有数の人物たる加藤友三郎、山本権兵衛等の諸君が、五‐五‐三の比率を是認し、一は以て財政的危局を救ひ、一は以て対米我が海軍力を増加した所以である。かくて大正十五年の我が海軍費は八億円に増加する事の代りに、二億三千九百万円に減少し、これを大正十年度に比するも、なほ半額以下に減少した。経費は半減したが、海軍力はいづれの国よりも脅威せられる憂惧なき程度に達した。
 今日世人が口を極めて非難攻撃する所の華府條約ですら、締結以来毎年二億ないし五億円の国費を減少すると同時に、我が海軍力をしていかなる場合においても、英・米の六割以下に下るの憂ひなからしむる効果を収めた。その上、米国は條約範囲内の軍艦を造らなかつたため、現在では我が海軍は対米八割以上の実力を有してゐる(斎藤首相が米国新聞に発表した計数に拠る)。来たるべき海軍制限会議において、一層良好なる協約を結ぶ事を得ば、実に国家の慶福である。しかしこの企図には、失敗すれば、製艦競争、即ち「大正十年以前の状態」に復帰する危険が伴ふ事を忘れてはならぬ。財政的破綻を誘起するが上に、対英米の我が海軍力そのものを弱小ならしめては、国家は二重に損害を被る事になる。これ本員の憂慮措くあたはざる所にして、当局者に向かつて、この質問を為す所以である。
 華府条約の締結は、政友会内閣(原敬)の最大事業であつて、倫敦条約は、民政党内閣(浜口雄幸)の時に締結されたものである。しかして海軍部内より抜擢せられて総理大臣となつた山本権兵衛、加藤友三郎、斉藤実、岡田啓介等の諸君は、いづれも皆これを是認し、これを幇助したと信ぜられてゐる。故に両大政党員及び右らの諸君が現在の事態に対して、沈黙を守るのは容易ならざる忍苦であらう。この精神的苦痛は、いづれの時にか慰謝と発散の道を求めざるを得まい。これ年少気鋭なる青年将校の宜しく再思三考すべき所である。
 およそ人生の最も戒慎すべきは、得意の時に在り。古への武将は「勝つて兜の緒を締めよ」と教へたが、真に千古の名教である。首相をば代る代る軍部より出し、総歳入の約半額は、軍費に充当す。薩長軍閥全盛の日といへども、夢想するあたはざりし事態である。軍部の諸君が意気盛満「国家万般の事、一として意の如くならざるものなし」と想像し、遂に経済機構や学者の学説にまで容喙するに至つたのも、無理とは思はれない。しかしこゝが諸君の最も戒慎を要する時際である。万一青年将校において、この思慮を欠くならば、これを訓誨するのが、長上たる者の責務であらう。本員は予算の分配その他現在の事態を長く存続せしめば、他日或は反動の勢ひが勃興せん事を恐れ{*23}る。これこの質問を為し、かつこの苦言を呈する所以である。
 大正十年頃は、今日とは違ひ、大戦後の好景気なほ存続し、国庫には毎年数億円の剰余金を生じた時代であつた。それですら海軍の大拡張に着手{*24}し、陸海軍合はせて総歳出の四割八分を費用するに至つたため、軍備縮小の与論が起こり、ひとり海軍のみならず、陸軍までも縮小せざるを得ざるに至つた。望月の欠くるためしはなきものと思ふのは、いづれの時代においても、大いなる過誤である。
 憲法実施以後今日ほど言論の自由が圧迫された時代はない。誰が圧迫するのか分からないが、議会においてすら、言論の自由が許されてゐないやうだ。貴衆両院が暗黙の間に総予算を鵜呑みにしたのも、その結果であらうかと思はれる。事いやしくも軍部の批評にわたるものは、新聞、雑誌、書籍、いづれの出版業者も出版し得ない。たまたま出版するものがあれば、その要所要所をば×××或は○○○を以て充填し、文意を隠蔽する。この時にあたつて、ひとり完全に言論の自由を行使する者は、本来政治に関与すべからざる軍人と、その追従者だけである。明治、大正、昭和三代を通じて、公許されてゐた学説すら、今日は突然政治的及び社会的懲罰を被らんとする一事を見ても、軍人以外の言論が、いかに圧迫せられてゐるかの一端を窺ひ知る事が出来やう。
 この如くして、何人も公然その所信を言明し得ず、道路皆目を以てする時際においては、得意の位地に立つ者は特に慎重の注意を払ふ必要がある。又この如き形勢の下に作為せられた所の与論民意なるものは、永続性を持たないのが、世間の常態である。本員は済々たる軍部の多士に向かつて、一念こゝに及ばれんことを切望の至りに堪へ{*25}ない。
右質問に及び候なり{*26}。

  目次

校訂者注
 1:底本、ここに一字下げはない。
 2・3・7・23:底本は、「惧れ」。
 4・22:底本は、「加之ならず」。
 5:底本は、「否な」。
 6・9・16・17:底本は、「そう」。
 8:底本は、「しやう」。
 10:底本は、「為さう」。
 11:底本、ここに句点はない。
 12・19:底本は、「太だしき」。
 13:底本は、「称へ」。
 14・25:底本は、「堪え」。
 15:底本は、「感じやう」。
 18・21:底本は、「粗ぼ」。
 20:底本は、「惧るゝ」。
 24:底本は、「著手」。
 26:底本は、「右及質問候也」。