一行阿闍梨の事

 大衆先座主をば東塔の南谷、妙光坊に入れ奉る。時の横災をば、権化の人も免れ給はざりけるにや。むかし唐土の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の御持僧にておはしけるが、玄宗の后楊貴妃に名を立ち給へり。昔も今も、大国も小国も、人の口のさがなさは、跡方もなき事なりしかども、その疑ひに依つて、果羅国へ流されさせ給ふ。件の国へは三つの道あり、輪地道とて御幸道、幽地道とて雑人の通ふ道、暗穴道とて重科の者を遣はす道なり。さればかの一行阿闍梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞ遣はされける。七日七夜が間、月日の光も見ずして行く所なり。冥々として人もなく、江浦に前途迷ひ、森々として山深し、たゞ澗谷に鳥の一声ばかりにて、苔のぬれ衣ほしあへず、無実の罪に依つて、遠流の重科を蒙り給ふことを、天道憐み給ひて、九曜の象を現じつゝ、一行阿闍梨を守り給ふ。時に一行右の指をくひ切り、左の袂に九曜の象をうつされけり。和漢両朝に真言の本尊たる、九曜の曼陀羅これなり。

西光が切られの事

 さる程に山門の大衆、先座主取止め奉つたること、法皇きこしめして、いとゞやすからずおぼしめしける所に、西光法師申しけるは、「昔より山門の大衆は、発向のみだりがはしき訴へ仕ること、今に始めずとは申しながら、今度は以ての外に過分に候。よくよく御計らひ候べし。これらを御誡め候はずば、この後は世が世でも候まじ。」とぞ申しける。たゞ今わが身の亡び失せんずる事をも顧みず、山王大師の神慮にも憚らず、かやうに申して、宸襟を悩まし奉る。讒臣は国を乱るといへり。まことなるかな叢蘭茂らんとすれども、秋の風これをやぶり、王者明らかならんとすれども、讒臣これをくらうすとも、かやうの事をや申すべき。新大納言成親の卿以下、近習の人々に仰せて、法皇山攻めらるべしと聞えしかば、山門の大衆、さのみ王地にはらまれて、詔命を対捍せんも畏れなりとて、内々院宣に従ひ奉る衆徒もありなど聞えしかば、先座主は東塔の南谷、妙光坊におはしけるが、大衆二心ありと聞き給ひて、またいかなる憂き目にかあふべきやらんと、心細げにぞのたまひける。されども流罪の沙汰はなかりけり。
 さる程に新大納言は、山門の騒動によつて、私の宿意をば暫くおさへられけり。そも内議支度はさまざまなりしかども、擬勢許りで、この謀叛叶ふべしとも見えざりければ、さしも頼まれたりつる、多田の蔵人行綱、この事無益なりと思ふ心やつきにけん、弓袋の料にとて送られたりける布どもをば、直垂、かたびらに裁ち縫はせ、家の子、郎党どもに著せつゝ、目うちしばたゝいてゐたりけるが、つらつら平家の繁昌する有様を見るに、当時たやすう傾けがたし。もしこの事洩れぬる程ならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より洩れぬさきに、かへり忠して命生かうと思ふ心ぞつきにける。
 同じき二十九日の小夜ふけがたに、入道相国の西八條の邸に参つて、「行綱こそ申すべき事ありて、これまで参つて候へ。」と、案内をいひ入れたりければ、入道、「常にも参らぬ者の参じたるは何事ぞ。あれ聞け。」とて、主馬の判官盛国を出されたり。「全く人伝には申すまじき事なり。」といふ間、入道、さらばとて、みづから中門の廊にぞ出でられたる。「夜は遥かに更けぬらんに、いかにたゞ今、何事ぞ。」と宣へば、「昼は人目のしげう候間、夜に紛れて参つて候。このほど院中の人々の兵具を整へ、軍兵を催されし事をば、何と聞こしめされて候やらん。」入道、「いさとよ、それは法皇の山攻めらるべき御結構とこそ聞け。」と、いと事もなげにぞのたまひける。行綱近う寄り、小声になつて、「その儀では候はず、一向当家の御上とこそ承り候へ。」入道、「さてそれをば、法皇もしろしめされたるか。」「仔細にや及び候。執事の別当成親の卿の軍兵催され候ひしにも、院宣とてこそ召されしか。康頼がと申して、俊寛がかく申して、西光がとふるまうて。」など、ありのまゝにはさし過ぎていひ散らし、わが身は暇申すとて出でければ、その時入道、大声を以て侍ども呼びのゝしり給ふ事夥し。行綱なまじひなる事申し出でて、証人にや引かれんずらんと、恐ろしさに人も追はぬに、取袴し、大野に火を放ちたる心ちして、急ぎ門外へぞ逃げ出でける。
 その後入道、筑後の守貞能を召して、「当家傾けうとする謀叛の輩こそ、京中に充ち満ちたんなれ。急ぎ一門の人々にも触れ申せ。侍ども催せ。」とのたまへば、馳せまはつて披露す。右大将宗盛、三位中将知盛、頭の中将重衡、左馬の頭行盛以下の一門の人々、甲冑弓箭を帯してさしつどふ。その外侍ども、雲霞の如くに馳せ集つて、その夜の中に入道相国の西八條の邸には、兵六七千騎もあらんとぞ見えし。
 あくれば六月一日の日なり。未だ暗かりけるに、入道相国安倍の資成を召して、「院の御所へ参り、大膳の大夫信成を呼び出でて、きつと申さんずる事はよな、新大納言成親の卿以下、近習の人々、この一門を亡ぼして、天下みだらんとする謀叛の企てあり。一々に搦め取つて、尋ね沙汰仕り候べし。それをば君もしろしめさるまじう候と申すべし。」とぞのたまひける。
 資成急ぎ院の御所へ馳せ参り、信成を招いて、この事申すに、色を失ふ。やがて御前へ参つて、この由かくと奏聞申しければ、法皇、「あゝはや、これらが内々謀りし事の、洩れ聞えけるにこそ。さるにてもこは何事ぞ。」とばかり仰せられて、分明の御返事もなかりけり。資成急ぎ走り帰つて、この由かくと申しければ、入道、「されはこそ行綱はまことを申したれ。行綱この事告げ知らせずば、浄海安穏にてやはあるべき。」とて、筑後の守貞能、飛騨の守景家を召して、当家傾けうとする謀叛の輩、一々に搦め捕るべきよし下知せらる。依つて二百余騎、三百余騎、あそここゝに押寄せ押寄せ、搦め捕る。
 入道相国まづ雑色を以て、中の御門烏丸の新大納言の宿所へ、「きつと立寄り給へ、申しあはすべき事の候。」と、のたまひ遣はされければ、大納言わが身の上とはつゆ知らず、あはれこれは、法皇の山攻めらるべき御結構のあるを、申し宥められんずるにこそ。御憤り深げなり、如何にも叶ふまじきものをとて、ないきよげなる布衣、たをやかに著なし、あざやかなる車に乗り、侍三四人召具して、雑色、牛飼に至るまで、常よりもなほ引きつくろはれたり。そも最後とは、後にこそ思ひ知られけれ。
 西八條近うなりて見給へば、四五町に軍兵ども充ち満ちたり。あなおびたゞし、こは何事なるらんと、胸うち騒がれけれども、門前にて車より下り、門の内へさし入つて見給へば、内にも兵ども、隙はざまもなうぞ並みゐたる。中門の口には恐ろしげなる者ども、数多待ち受け奉り、大納言を取つてひつぱり、「いましむべう候やらん。」と申しければ、入道簾中より見出したまひて、「あるべうもなし。」とのたまへば、侍ども十四五人、前後左右に立囲み、大納言の手を取つて、縁の上へ引き上げ奉り、一間なる所に押籠め奉つてけり。大納言は夢の心ちして、つやつやものも覚え給はず。供にありつる侍ども、大勢におし隔てられて、ちりぢりになりぬ。雑色、牛飼色を失ひ、牛、車を捨てて、みな逃げ去りぬ。
 さる程に、近江の中将入道蓮浄、法勝寺の執行俊寛僧都、山城の守基兼、式部の大輔正綱{*1}、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行も捕はれてこそ出で来たれ。西光法師この由を聞きて、わが身の上とや思ひけん、鞭を打つて、急ぎ院の御所へ参る。六波羅の兵ども、道にて行きあひ、「西八條殿より召さるゝぞ、きつと参れ。」といひければ、「これは奏すべき事あつて、院の御所へ参る。やがてこそ帰り参らめ。」といひければ、「につくい入道めが、何事をか奏すべかんなるぞ。」とて、しや馬より取つて引落し、中に縛つて、西八條殿へさげてまゐる。日の始めより根元与力の者なりければ、殊に強ういましめて、御坪の内にぞ引きすゑたる。入道相国大床に立ちて、しばしにらまへ、「あなにくや、当家傾けうとする、謀叛のやつがなれる姿よ。しやつこゝへ引寄せよ。」とて、縁の際へ引寄せさせ、物履きながら、しやつらをむずむずとぞ踏まれける。「もとよりおのれらがやうなる下臈のはてを、君の召使はせ給ひて、なさるまじき官職をなしたび、父子共に過分のふるまひをすると見しにあはせて、過たぬ天台座主流罪に申し行ひ、あまつさへ当家傾けうとする謀叛の輩に与してけるなり。ありのまゝに申せ。」とこそのたまひけれ。
 西光もとより勝れたる大剛の者なりければ、ちとも色も変ぜず、わろびれたる気色もなく、居なほり、あざ笑つて申しけるは、「院中に近う召使はるゝ身なれば、執事の別当成親卿の軍兵催され候事にも、与せずとは申すべきやうなし。それは与したり。たゞし耳にあたる事をものたまふものかな。他人の前は知らず、西光が聞かんずる所にては、さやうの事をば、えこそのたまふまじけれ。そもそも御辺は、故刑部卿忠盛の嫡子にておはせしが、十四五までは出仕もし給はず、故中の御門の藤中納言家成の卿の辺に立入りたまひしをば、京童は例の高平太とこそいひしか。しかるを保延の頃、海賊の張本三十余人搦め進じられたりし勧賞に、四品して、四位の兵衛の佐と申ししをだに、人みな過分とこそ申し合はれしか。殿上の交はりをだに嫌はれし人の子孫にて、今太政大臣までなり上つたるや過分なるらん。もとより侍ほどの者の、受領、検非違使に至ること、先例、法例なきにしもあらず、なじかは過分なるべき。」と、憚る所もなういひ散らしたりければ、入道相国あまりに腹をすゑかねて、しばしはものをも宣はず。やゝあつて入道のたまひけるは、「しやつが首さうなう斬るな、よくよく糺問して、ことの仔細を尋ね問ひ、其の後河原へ引出いて、頭を刎ねよ。」とぞのたまひける。松浦の太郎重俊承つて、手足をはさみ、さまざまにして痛め問ふ。西光もとより争はざりける上、拷問はきびしかりけり、白状四五枚にしるされて、その後口を裂けとて、口を裂かれ、五條西の朱雀にして、遂に斬られにけり。嫡子加賀の守師高は闕官せられて、尾張の井戸田へ流されたりしを、同じき国の住人小胡麻の郡司維季に仰せて、討たせらる。次男近藤判官師経をば、獄より引出いて誅せらる。その弟左衛門の尉師平、郎党三人をも、同じう頭を刎ねられけり。これらはみな、いひがひなき者の秀でて、いろふまじき事をのみいろひ、過たぬ天台座主、流罪に申し行ひ、果報やつきにけん、山王大師の神罰、冥罰をたちどころに蒙つて、斯かる憂き目にあへりけり。

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校訂者注
 1:巻一「鹿の谷の事」には「式部の大輔雅綱」。川合康『鹿ケ谷事件』考」(「立命館文学」2012年1月)には「式部大輔藤原章綱」とある。