飆風の事
さる程に同じき五月十二日の午の刻許り、京中に飆風おびたゞしう吹いて、人屋多く転倒す。風は中の御門京極より起つて、坤の方へ吹いてゆくに、棟門、平門吹きぬいて、四五町十町ばかり吹きもてゆき、桁、長押、柱などは虚空に散在し、檜皮葺、板の類は、冬の木の葉の風に乱るゝが如し。夥しう鳴りどよむ音は、かの地獄の業風なりとも、これには過ぎじとぞ見えし。たゞ舎屋の破損するのみならず、命を失ふ者も多し。牛馬の類、数を知らずうち殺さる。これたゞごとにあらず、御卜あるべしとて、神祇官にして御卜あり。「今百日の中に禄を重んずる大臣の慎み、別して天下の大事、仏法、王法共に傾き、並に兵革相続すべし。」とぞ、神祇官、陰陽寮共に占ひ奉る。
医師問答の事
同じき夏の頃、小松の大臣はかやうの事どもに、よろづ心細くや思はれけん、その頃熊野参詣の事ありけり。本宮証誠殿の御前にて静かに法施進らせて、夜もすがら敬白せられけるは、「親父入道相国の体を見るに、悪逆無道にして、やゝもすれば君を悩まし奉る。その振舞を見るに、一期の栄花猶危し。重盛長子として、頻りに諫めを致すといへども、身不肖の間、かれ以て服膺せず。枝葉連続して、親を顕はし名を揚げん事難し。この時に当つて、重盛苟うも思へり。なまじひに列して世に浮沈せんこと、敢て良臣孝子の法にあらず。如かじ名を遁れ、身を退いて、今生の名望を投げ棄てて、来世の菩提を求めんに。但し凡夫薄智、是非に惑へるが故に、志をなほ恣にせず。南無権現、金剛童子、願はくは子孫繁栄絶えずして、仕へて朝廷に交はるべくば、入道の悪心を和げて、天下の安全を得しめたまへ。栄耀また一期に限つて、後昆恥に及ぶべくば、重盛が運命を縮めて、来世の苦輪を助け給へ。両箇の求願、ひとへに冥助を仰ぐ。」と、肝胆を砕いて祈念せられければ、灯篭の火のやうなる物の、大臣の御身より出でて、はつと消ゆるが如くして失せにけり。人あまた見奉りけれども、恐れてこれを申さず。
大臣下向の時、岩田河を渡られけるに、嫡子権の亮少将維盛以下の公達、浄衣の下に薄色の衣を著て、夏の事なれば、何となう水に戯れ給ふ程に、浄衣の濡れて衣にうつつたるが、ひとへに色の如くに見えけるを、筑後の守貞能これを見咎めて、「何とやらんあの御浄衣の、世にいまはしげに見えさせましまし候。急ぎ召し更へなるべうもや候らん。」と申しければ、大臣、「さてはわが所願、既に成就しにけり。敢てその浄衣改むべからず。」とて、岩田河より熊野へ、別して悦びの奉幣をぞ立てられける。人あやしみ思へども、なほその心をば得しめ給はず。しかるにこの公達、程なくやがて、まことの色を著たまひけるこそ不思議なれ。その後大臣下向の時、いくばくの日数を経ずして、病みつき給ひぬ。権現既に御納税あるにこそとて、療治をもし給はず。まして祈祷をも致されず。
その頃宋朝よりすぐれたる名医渡つて、本朝にやすらふ事ありけり。折ふし入道相国は福原の別業におはしけるが、越中の前司盛俊を使者にて、小松殿へ宣ひ遣はされけるは、「所労いよいよ大事なる由、その聞えあり。かねては又宋朝よりすぐれたる名医渡れり。折ふしこれを悦びとす。よつてかれを召し請じて、医療を加へしめ給へ。」とのたまひ遣はされたりければ、大臣扶け起され、盛俊を御前へ召して対面あり。「まづ医療の事、畏まつて承り候ひぬと申すべし。但し汝もよく承れ。延喜の御門は、さばかりの賢王にて渡らせ給ひしかども、異国の相人を都の中へ入れられたりし事をば、末代までも賢王の御誤り、本朝の恥とこそ見えたれ。況んや重盛程の凡人が、異国の医師を王城へ入れん事、全く国の恥にあらずや。漢の高祖は三尺の剣を提げて天下を治めしに、淮南の鯨布を討ちし時、流矢に当つて疵を蒙る。后呂太后良医を迎へて見せしむるに、医の曰く、この疵治しつべし。但し五十斤の金を与へば治せんといふ。高祖のたまはく、われ守り強かつしほどは、多くの戦ひにあうて疵を蒙りしかども、その痛みなし。運既に尽きぬ。命はすなはち天にあり、扁鵲といふとも何の益かあらん。しかれば又金を惜しむに似たりとて、五十斤の金を医師に与へながら、遂に治せざりき。先言耳にあり、今以て甘心す。重盛苟くも九卿に列し三台に昇る。その運命を量るに、以て天心にあり。何ぞ天心を察せずして、愚かに医療を痛はしうせんや。所労もし定業たらば、医療を加ふるとも益なからんか。また非業たらば、療治を加へずとも、助かる事を得べし。かの耆婆が医術及ばずして、大覚世尊滅度を跋提河のほとりに唱ふ。これすなはち定業の病癒さざる事を示さんが為なり。治するは仏体なり。療するは耆婆なり。定業もし医療にかゝはるべう候はば、あに釈尊入滅あらんや。定業なほ治するに堪へざる旨あきらけし。しかれば重盛が身、仏体にあらず、名医また耆婆に及ぶべからず。たとひ四部の書を鑑みて、百療に長ずといふとも、いかでか有待の穢身を救療せん。たとひ又五経の説に詳かにして、衆病を療すといふとも、豈先世の業病を治せんや。もしかの医術に依つて存命せば、本朝の医道なきに似たり。医術効験なくば、面謁その詮なし。なかんづく本朝鼎臣の外相を以て、異朝浮遊の来客に見えん事、かつうは国の恥、かつうは道の陵遅なり。たとひ重盛命は亡ずといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存せざらん。この由を申せ。」とこそ宣ひけれ。
盛俊泣く泣く福原へ馳せ下り、この由を申しければ、入道相国、「国の恥を思ふ大臣、上古に未だ聞かず。まして末代にあるべしとも覚えず。日本に相応せぬ大臣なれば、いかさまにも今度失せられなんず。」とて、急ぎ都へ上られけり。
七月二十八日、小松殿出家し給ひぬ。法名は浄蓮とこそつきたまへ。やがて八月一日の日、臨終正念に住して失せ給ひぬ。御年四十三。世はさかりとこそ見えつるに、あはれなりし事どもなり。入道相国のさしも横紙を破られしにも、この人のおはして、やうやうに宥め宣ひつればこそ、世は今日までもおだしかりつれ。この後天下にいかばかりの事か出で来んずらんとて、上下みな歎きあへり。また前の右大将宗盛の卿の方ざまの人々、世はたゞ今大将殿へ参りなんずとて、勇み悦び合はれけり。人の親の子を思ふならひはおろかなるが、先立つだにも悲しきぞかし。況んやこれは当家の棟梁、当世の賢人にてましませば、恩愛の別れ、家の衰微、悲しんでも猶あまりあり。されば世には良臣を失へることを歎き、内には武略のすたれぬる事を悲しむ。およそはこの大臣、文章うるはしうして、心に忠を致し、才芸すぐれて、言葉に徳を兼ね給へり。
無紋の沙汰の事
天性この大臣は不審第一の人にて、未来の事をもかねて悟り給ひけるにや、さんぬる四月七日の夜の夢に見給ひたりける事こそ不思議なれ。たとへばある浜路を、はるばると歩みゆき給ふ程に、傍に大きなる鳥居のありけるを、大臣夢の中に、「あれはいかなる御鳥居やらん。」と問ひ給へば、「春日大明神の御鳥居なり。」とぞ申しける。人群集したり。その中より大きなる法師の頭を太刀のさきに貫き、高くさし上げたるを、大臣、「何者の頭ぞ。」とのたまへば、「平家太政入道殿の悪行超過し給へるに依つて、当社大明神の召し取らせ給ひて候。」と申すと覚えて夢覚めぬ。当家は保元、平治よりこのかた、度々の朝敵を平げ、勧賞身にあまり、帝祖、太政大臣にいたり、一族の昇進六十余人、二十余年のこのかた、官加階天下に肩を双ぶる人なかりつるに、さては入道の悪行超過し給へるに依つて、当家の運命の末になるにこそとおぼしめして、御涙を流させ給ふ。
折ふし妻戸をほとほとと、うちたゝくもの出できたり。大臣、「何者ぞ、あれ聞け。」とのたまへば、妹尾の太郎兼康が、「今夜余りに不思議の事を見候て申し上げんがために、夜のあくるが遅く覚えて、参つて候。御前の人をはるかに除けられ候へ。」とて、人を除けて対面ありけり。大臣御覧ぜられける夢に少しも違はず、つぶさに語り申したりければ、さてこそ兼康は神にも通じたるものかなとぞ、大臣も感じ給ひける。
その朝嫡子権の亮少将維盛、院へ参らんとて出で立たれけるを、大臣呼び奉つて、「人の親のかやうの事申すは、をこがましけれども、御辺は人の子にはすぐれて見え給へり。あれ少将に酒すゝめよ。」とのたまへば、筑後の守貞能御酌に参る。これをば少将にこそたぶベけれども、親より先にはよも賜はらじとて、大臣三度酌んで、その後少将殿にぞさされける。少将また三度受け給ふ時、「あれ少将に引出物せよ。」と宣へば、畏まり承つて赤地の錦の袋に入れたる御太刀持つて参つたり。少将これは当家に伝はる小烏といふ太刀やらんと嬉しげに見たまへば、さはなくして大臣葬の時用ゐる無紋の太刀なり。その時少将、以ての外に気色変つて見え給へば、大臣涙をはらはらと流いて、「それは貞能がひがことにはあらず。大臣葬の時佩いて供する、無紋といふ太刀なり。日頃は入道殿いかにもなり給はば、重盛佩いて供せんとこそ存ぜしか。今は重盛、入道殿に先立ち奉らんずれば、御辺にたぶなり。」とぞのたまひける。少将とかうの返事にも及び給はず、涙をおさへて宿所に帰り、その日は出仕もし給はず、引きかづいてぞ伏し給ふ。
その後、大臣熊野へ参り、下向して、いくばくの日数を経ずして、病づきて失せ給ひけるにこそ、げにもと思ひ知られけれ。
灯篭の事
凡てこの大臣は滅罪生善の志深うおはしければ、当来の浮沈を歎き、六八弘誓の願になぞらへて、東山の麓に四十八間の精舎を建てて、一間に一つづゝ四十八の灯篭を掛けられたりければ、九品の台目の前に輝き、光耀鸞鏡をみがいて、浄土のみぎりに臨みぬるが如し。毎月十四日、十五日を点じて大念仏ありしかば、当家、他家の人々のもとより、みめよく、若う盛りなりし女房を請じて、一間に六人づゝ、二百八十八人の尼衆と定めて、かの両日が間は一心不乱の称名の声怠らず。まことに来迎、引接の悲願も、この所に影向を垂れ、摂取不捨の光も、この大臣を照し給ふかとぞ覚えたる。十五日の日中を結願として大念仏ありけり。大臣行道の中に交はつて、西方に向ひ手を合はせ、「南無安養世界の教主弥陀善逝、三界六道の衆生を普く済度し給へ。」と廻向発願し給へば、見る人慈悲心を起し、聞く者感涙をぞ催しける。それよりしてこそこの大臣を、灯篭の大臣とは申しけれ。
金わたしの事
大臣またいかなる善根をもして、後世弔はればやと思はれけるが、わが朝には、いかなる大善根をし置いたりとも、子孫相継いで、重盛が後世弔はんことありがたし。他国にいかなる善根をもして、後世弔はれんとて、安元の春の頃、鎮西より妙典といふ船頭を召し上せ、人を遥かに除けて対面あり。金三千五百両召し寄せて、「汝は聞ゆる大正直の者なれば。」とて、「五百両をば汝に得さす。三千両をば宋朝へわたし、一千両をば育王山の僧に引き、二千両をば御門へ参らせて、田代を育王山へ申し寄せて、重盛が後世弔はすべし。」とぞ宣ひける。妙典これを賜はつて、万里の煙浪を凌ぎつゝ、大宋国へぞ渡りける。
育王山の方丈仏照禅師徳光に逢ひ奉つて、この由申しければ、随喜感歎して、やがて千両をば育王山の僧に引き、二千両をば御門へ参らせて、小松殿の申されつるやうを、つぶさに奏聞せられければ、御門大きに感じ思召して、五百町の田代を育王山へぞ寄せられける。されば日本の大臣、平の朝臣重盛公の後生善所と祈る事、今にありとぞ承る。
入道相国、小松殿にはおくれ給ひぬ、よろづ心細くや思はれけん、福原へ馳せ下り、閉門してこそおはしけれ。
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