源氏そろへの事
蔵人の左衛門の権の佐定長、今度の御即位に違乱なくめでたきやうを、厚紙十枚許りに書いて、入道相国の北の方八條二位殿へ参らせたりければ、笑みを含んでぞ喜ばれける。かやうにはなやかに、めでたき事どもありしかども、世間は猶にがにがしうぞ見えし。その頃一院第二の皇子、以仁の王と申ししは、御母加賀の大納言季成の卿の御女なり。三條高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。いんじ永万元年十一月十五日の暁御年十五にて、忍びつゝ近衛河原の大宮の御所にて、ひそかに御元服ありけり。御手跡美しうあそばし、御才覚もすぐれてましましければ、太子にも立ち、位にも即かせ給ふべかりしかども、故建春門院の御猜みによつて、おし籠められさせ給ひけり。花の下の春の遊びには、紫毫をふるつて、手づから御作を書き、月の前の秋の宴には、玉笛を吹いて、みづから雅音をあやつり給ふ。
かくしてあかし暮させ給ふほどに、治承四年には御年三十にぞならせましましける。その頃近衛河原に候はれける源三位入道頼政、ある夜ひそかにこの宮の所に参りて、申されける事こそ恐ろしけれ。たとへば、「君は天照大神四十八世の正統、神武天皇より七十八代に当らせ給ふ。しかれば太子にも立ち、位にも即かせ給ふべかりし人の、三十まで宮にて渡らせ給ふ御事をば、御心うしとはおぼしめされ候はずや。はやはや御謀叛起させ給ひて平家を亡ぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿におし籠められて渡らせ給ふ御憤りをもやすめ参らせ、君も位に即かせ給ふべし。これひとへに御孝行の御至りにてこそ候はんずれ。もしおぼしめし立たせたまひて、令旨を下され給ふものならば、喜びをなして馳せ参らんずる源氏どもこそ、国々に多く候へ。」とて申しつゞく。「まづ京都には出羽の前司光信の子ども、伊賀の守光基、出羽の判官光長、出羽の蔵人光茂、出羽の冠者光義、熊野には故六條判官為義が末子十郎義盛とて隠れて候。摂津の国には多田の蔵人行綱こそ候へども、これは新大納言成親の卿の謀叛の時、同心しながら返り忠したる不当人にて候へば、申すに及ばず。さりながらその弟多田の次郎朝実、手島の冠者隆頼、太田の太郎頼基。河内の国には石川の郡の知行しける武蔵の権の守入道義基、子息石川の判官代義包。大和の国には宇野の七郎親治が子ども、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治。近江の国には山本、柏木、錦織。美濃、尾張には山田の次郎重弘、河辺の太郎重直、泉の太郎重光、浦野の四郎重遠、安食の次郎重頼、その子の太郎重資、木田の三郎重長、開田の判官代重国、矢島の先生重高、その子太郎重行。甲斐の国には逸見の冠者義清、その子の太郎清光、武田の太郎信義、加々美の次郎遠光、同じき小次郎長清、一條の次郎忠頼、板垣の三郎兼信、逸見の兵衛有義、武田の五郎信光、安田の三郎義定。信濃の国には大内の太郎維義、岡田の冠者親義、平賀の冠者盛義、その子の四郎義信、故帯刀の先生義方が次男、木曽の冠者義仲。伊豆の国には流人前の右兵衛の佐頼朝。常陸の国には信太の三郎先生義憲、佐竹の冠者昌義、その子の太郎忠義、三郎義宗、四郎高義、五郎義季。陸奥の国には故左馬の頭義朝が末子九郎冠者義経、これみな六孫王の御苗裔、多田の新発意満仲が後胤なり。朝敵を平らげ宿望を遂ぐる事は、源平いづれ勝劣なかりしかども、今は雲泥交はりを隔てて、主従の礼にもなほ劣れり。国は国司に従ひ、荘は預所に召使はれ、公事雑事にかり立てられて、安き心もし候はず。つらつら当世の体を見候に、上には従ひたるやうなれども{*1}、内々には一向平家をそねまぬ者や候。君もし思し立たせ給ひて、令旨を賜ひつる程ならば、国々の源氏ども、夜を日についで馳せ上り、平家を亡ぼさん事は、時日を廻らすべからず。その儀にて候はば、入道も年こそ寄つて候へども、若き子ども数多候へば、引具して参り候べし。」とぞ申しける。
宮はこの事いかゞあらんずらんと、おぼしめしわづらはせ給ひて、しばしは御承引もなかりけるが、こゝに阿古丸大納言宗通の卿の孫、備後の前司季通が子に、少納言惟長と申ししは、すぐれたる相人の上手にてありければ、時の人相少納言とぞ申しける。この人この宮を見参らせて、「位に即かせ給ふべき御相まします。相構へて天下の事、思しめし棄つな。」と申されける。折ふしこの三位入道も、かやうに勧め申されければ、さてはしかるべき天照大神の御告げやらんとて、ひしひしと思しめし立たせ給ひけり。まづ新宮の十郎義盛を召して蔵人になされ、行家と改名して、令旨の御使に東国へこそ下されけれ。四月二十八日都を立つて、近江の国より始めて、美濃、尾張の源氏どもに、次第にふれて下る程に、五月十日には伊豆の北條蛭が小島に著いて、流人前の右兵衛の佐殿に令旨を取り出いて奉る。信田の三郎先生義憲は兄なれば賜んとて、信太の浮島へ下る。木曽の冠者義仲は甥なれば取らせんとて、山道へこそ赴きけれ。
こゝに熊野の別当湛増は平家重恩の身なりしが、何としてか聞き出しけん、「新宮の十郎義盛こそ、高倉の宮の令旨賜ひて、既に謀叛を起すなれ。那智、新宮の者どもは、定めて源氏の方人をぞせんずらん。湛増は平家の御恩を天山に蒙りたれば、いかでか背き奉るべき。矢一つ射かけて、その後都へ仔細を申さん。」とて、ひたかぶと一千余人、新宮の港へ発向す。新宮には鳥居の法眼、高坊の法眼、侍には宇井、鈴木、水屋、亀の甲、那智には執行法眼以下、都合その勢一千五百余人、鬨つくり矢合して、源氏の方には兎こそ射れ、平家の方にはかくこそ射れと、互に矢さけびの声の退転もなく、鏑鳴りやむひまもなく、三日が程こそ戦つたれ。されどもおぼえの法眼湛増は、家の子郎等多く討たせ、わが身手負ひ、からき命生きつゝ、泣く泣く本宮へこそ還り上りけれ。
鼬の沙汰の事
さる程に法皇は、成親、俊寛等がやうに、遠き国、遥かの島へも、移しぞやり参らせんずるにこそと、思しめされけれども、さはなくして鳥羽殿にて、治承も四年に送らせおはします。同じき五月十二日の午の刻許り、鳥羽殿には鼬おびたゞしう走りさわぐ。法皇御占形あそばいて、近江の守仲兼、その時は未だ鶴蔵人にて候ひけるを御前へ召して、「これ持つて安倍の泰親がもとへ行き、きつと勘へさせて、勘状を取つて参れ。」とぞ仰せける。仲兼これを賜はつて、安倍の泰親がもとへ行く。折ふし宿所にはなかりけり。白川なる所へといひければ、それへ尋ね行きて、勅諚の趣仰すれば、泰親やがて勘状をこそ参らせけれ。仲兼これを取つて鳥羽殿へ馳せ参り、門より入らんとすれば、守護の武士共許さず。案内は知つたり、築地を越え、大床の下を這うて、御前の切板より泰親が勘状をこそ参らせけれ。法皇これを開いて叡覧あるに、「今三日が中の御喜び、並に御なげき。」とぞ勘へ申したる。法皇、「この有様にても、御喜びはしかるべし、またいかなる御目にか逢ふべきやらん。」とぞ仰せける。
同じき十三日前の右大将宗盛の卿、父の御前におはして、法皇の御事を折ふし申されければ、入道相国やうやうに思ひ直つて、法皇をば鳥羽殿を出し奉り都へ還御なし奉り、八條烏丸の美福門院の御所へ入れ奉る。今三日が中の御喜びとは、泰親これをぞ申しける。斯かりける所に熊野の別当湛増、飛脚を以て高倉の宮の御謀叛の由を、都へ申したりければ、前の右大将宗盛の卿大きに騒いで、折ふし入道相国は福原の別業におはしけるに、この由申されたりければ、入道相国大きに怒つて、「その儀ならば高倉の宮を搦め取つて、土佐の畑へ遷すべし。」とぞのたまひける。上卿には二條の大納言実房、職事には頭の弁光雅とぞ聞えし。武士には源大夫の判官兼綱、出羽の判官光長、ひたかぶと三百余騎、宮の御所へぞ向ひける。この源大夫の判官と申すは三位入道の次男なり。しかるをこの人数に入れられける事は、高倉の宮の御謀叛を、三位入道勧め申されたりといふ事を、平家未だ知らざりけるに依つてなり。
校訂者注
1:底本は、「上には従ひたるやうなども」。
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