勧進帳の事
その後文覚は、高雄といふ山奥に行ひすましてぞ居たりける。かの高雄に神護寺といふ山寺あり。これは昔称徳天皇の御時、和気の清麿が建てたりし伽藍なり。久しく修造なかりしかば、春は霞に立籠めて、秋は霧に交はり、扉は風に倒れて、落葉の下に朽ち、甍は雨露に侵されて、仏壇更にあらはなり。住持の僧もなければ、稀にさし入るものとては、たゞ日月の光許りなり。文覚いかにもして、この寺を修造せんと思ふ大願起し、勧進帳を捧げて、十方檀那をすゝめありく程に、ある時、院の御所法住寺殿へぞ参じたる。御奉加あるべき由を奏聞す。御遊の折ふしにて、聞召しも入れざりければ、文覚はもとより不敵第一の荒聖ではあり、御前のことなきやうをば知らずして、たゞ人の申し入れぬぞと心得て、是非なく御坪の中へ破り入り、大音声をあげて、「大慈大悲の君にてまします。これ程の事、などか聞召し入れざるべき。」とて、勧進帳を引きひろげて、高らかにこそ読うだりけれ。
「沙弥文覚敬ひて白す。殊には貴賤道俗の助成を蒙つて、高雄山の霊地に一院を建立し、二世安楽の大利を勤行せんと乞ふ勧進の状。それ惟みれば、真如広大なり。生仏の仮名を立つといへども、法性随妄の雲厚く覆つて、十二因縁の峯にたなびきしよりこのかた、本有心蓮の月の光幽かにして、未だ三毒四慢の大虚にあらはれず。悲しいかな仏日はやく没して、生死流転の衢冥々たり。只色に耽り酒に耽る。誰か狂象跳猿の迷ひを謝せん。徒らに人を謗し法を謗す。これ豈閻羅獄卒の責めを免れんや。こゝに文覚、たまたま俗塵を打払つて法を飾るといへども、悪行なほ心に逞しうして、日夜につくり、善苗また耳に逆つて、朝暮にすたる。いたましきかな。ふたゝび三途の火坑に帰つて、永く四生の苦輪を廻らん事を。この故に牟尼の憲章千万軸、軸々に仏種の因をあかし、随縁至誠の法、一つとして菩提の彼岸に至らずといふ事なし。故に文覚、無常の観門に涙を落し、上下の真俗を勧めて、上品蓮台に縁を結び、等妙覚王の霊場を建てんとなり。それ高雄は山堆うして鷲峯山の梢を表し、谷閑にして商山洞の苔を敷けり。岩泉咽んで布を引き、嶺猿叫びて枝に遊ぶ。人里遠くして囂塵なく、師跡ことなうして信心のみあり。地形すぐれたり、最も仏天を崇むべし。奉加少しきなり、誰か助成せざらん。ほのかに聞く聚砂為仏塔の功徳、忽ちに仏因を感ず。況んや一紙半銭の宝財においてをや。願はくは建立成就して、禁闕鳳暦、御願円満、乃至都鄙遠近、里民緇素、尭舜無為の化を歌ひ、椿葉再会の笑みを披かん、殊にはまた聖霊幽儀、前後大小、速かに一仏真門の台に至り、必ず三身満徳の月を翫ばん。依つて勧進修行の趣、蓋し以てかくの如し。治承三年三月日。文覚。」とこそ読み上げたれ。
文覚流されの事
折ふし御前には、妙音院の太政の大臣殿御琵琶あそばし、朗詠めでたうせさせおはします。按察の大納言資賢の卿、和琴かき鳴らし、子息右馬の頭資時、風俗、催馬楽歌はる。四位の侍従盛定拍子とつて、今様とりどり歌はれけり。院中さゞめき渡つて、まことにおもしろかりければ、法皇も附歌せさせおはします。それに文覚が大音声出で来て、調子もちがひ、拍子もみな乱れにけり。「御遊の折ふしであるに何者ぞ、狼藉なり。そ首突け。」と仰せ下さるゝ程こそありけれ、院中のはやり男の者ども、われ先にわれ先にと進み出でける中に、資行判官といふ者進み出でて、「御遊の折ふしであるに何者ぞ、狼藉なり。とうとう罷り出でよ。」といひければ、文覚、「高雄の神護寺へ、荘を一所寄せられざらん限りは、全く出づまじ。」とて働かず。依つてそ首を突かんとすれば、勧進帳を取りなほし、資行判官の烏帽子をはたと撲つてうち落し、拳を強く握り、胸をはたと突いて、後へのけに{*1}突き倒す。資行判官は烏帽子うち落されて、おめおめと大床の上へぞ逃げ昇る。
その後文覚懐より馬の尾で柄巻いたりける刀の氷のやうなるをぬき持つて、寄り来ん者を突かうとこそ待ちかけたれ。左の手には勧進帳、右の手には刀を持つて馳せ廻る間、思ひも設けぬ俄事ではあり、左右の手に刀を持つたるやうにぞ見えたりける。公卿も殿上人も、こはいかにと騒がれて、御遊も既に荒れにけり。院中の騒動なのめならず。
こゝに信濃の国の住人安藤武者右宗、その時の当職の武者所にてありけるが、何事ぞとて太刀をぬいて走り出でたり。文覚喜んで飛んでかゝる。安藤武者斬りては悪しかりなんとや思ひけん、太刀の胸を取りなほし、文覚が刀持つたる右の腕をしたゝかに打つ。打たれてちつとひるむ所に、えたりやをうと、太刀を棄ててぞ組んだりける。文覚下に伏しながら、安藤武者が右の腕をしたゝかに突く。突かれながらぞ締めたりける。互に劣らぬ大力、上になり下になり、ころびあひける所を、上下寄つて、かしこ顔に、文覚がはたらく所のぢやうを拷じてけり。その後門外へ引き出でて、庁の下部にたぶ。賜はつて引張る。ひつぱられて立ちながら、御所の方を睨まへ、大音声をあげて、「たとひ奉加をこそし給はざらめ、あまつさへ文覚にこれ程まで、からき目を見せ給ひつれば、たゞ今思ひ知らせ申さんずるものを。三界はみな火宅なり、王宮といふとも、いかでその難をば遁るべき。たとひ十善の帝位に誇り給ふといふとも、黄泉の旅にいでなん後は、牛頭馬頭の責めをば免れ給はじものを。」と、跳り上り跳り上りぞ申しける。「この法師奇怪なり。禁獄せよ。」とて禁獄せらる。資行判官は烏帽子うち落されたる恥がましさに、しばしは出仕もせざりけり。安藤武者は文覚組んだる勧賞に、一臈を経ずして、当座に右馬の允にぞなされける。
その頃、美福門院かくれさせ給ひて大赦ありしかば、文覚程なく赦されけり。しばらくはいづくにても行ふべかりしを、また勧進帳を捧げて、十方檀那を勧めありきけるが、さらばたゞもなくして、「あはれこの世の中はたゞ今みだれて、君も臣も共に亡び失せんずるものを。」など、かやうに恐ろしき事をのみ申しありく間、「この法師、都に置いてはかなふまじ、遠流せよ。」とて、伊豆の国へぞ流されける。
源三位入道の嫡子伊豆の守仲綱、その時の当職にてある間、その沙汰として、東海道より船にて下さるべしとて、伊豆の国へ率てまかるに、放免両三人をぞつけられたる。これらが申しけるは、「庁の下部のならひ、かやうの事についてこそ、おのづから依怙も候へ。いかに聖の御房は、知人は持ち給はぬか。遠国へ流され給ふに、土産、粮料如きものをも乞ひ給へかし。」といひければ、文覚は、「さやうの用事いふべき得意はなし。さりながら東山の辺にこそ得意はあれ。いでさらば文をやらう。」といひければ、けしかる紙を得させたり。文覚大きに怒つて、「かやうの紙にもの書くやうなし。」とて投げ返す。さらばとて厚紙を尋ねて得させたり。文覚笑つて、「この法師はものをえ書かぬぞ。おのれら書け。」とて書かするやう、「文覚こそ高雄の神護寺創立供養の為に、勧進帳を捧げて十方檀那を勧めありきけるが、斯かる君の代にしも逢うて、奉加をこそし給はざらめ、あまつさへ遠流せられて伊豆の国へまかり候。遠路の間で候へば、土産、粮料如きのものも大切に候。この使にたべ。」といふ。いふまゝに書いて、「さて誰殿へと書き候べきやらん。」「清水の観音房へと書け。」といふ。「それは庁の下部を欺くにこそ。」といひければ、「一向欺くにはあらず。さりとては文覚は、清水の観音をこそ深う頼み奉つたれ。さらでは誰にかは用事をいふべきぞ。」と申しける。
さる程に伊勢の国阿能の津より船にて下りけるが、遠江の国天竜灘にて俄に大風吹き、大浪立つて、既にこの船を打返さんとす。水主、楫取どもいかにもして助からんとしけれども、叶ふべしとも見えざりければ、或は観音の名号を唱へ、或は最後の十念に及ぶ。されども文覚はちつとも騒がず、船底に高鼾かいてぞ臥したりける。既にかうと見えし時、がつぱと起き上り、舷に立つて、沖の方を睨まへ、大音声をあげて、「竜王やある、竜王やある。」とぞ呼うだりける。「何とてかやうに大願起したる聖が乗つたる船をば、過たうとはするぞ。たゞ今天の責め蒙らんずる竜神どもかな。」とぞいひける。其の故にや波風程なくしづまつて伊豆の国にぞ著きにける。
文覚京を出でける日よりして、心の中に祈請する事ありけり。われ都に帰つて、高雄の神護寺創立供養すべくんば、死すべからず。この願空しかるべくんば、道にて死すべしとて、京より伊豆へ著きけるまで、折ふし順風なかりければ、浦づたひ、島づたひして、三十一日が間は一向断食にてぞありける。されども気力少しも衰へず、船底に行ひうちしてぞ居たりける。まことにたゞ人とも覚えぬ事ども多かりけり。
伊豆院宣の事
その後文覚をば、当国の住人近藤四郎国隆に仰せて、奈古屋が奥にぞ住はせける。さる程に兵衛の佐殿おはしける蛭が小島も程近し、文覚常は参り、御物語ども申しけるとぞ聞えし。ある時文覚、兵衛の佐殿に申しけるは、「平家には小松の大臣殿こそ、心も剛に、謀もすぐれておはせしが、平家の運命の末になるやらん、去年の八月薨ぜられぬ。今は源平の中に、御辺ほど天下の将軍の相もちたる人はなし。早く謀叛おこさせ給ひて、日本国従へ給へ。」といひければ、兵衛の佐殿、「それ思ひもよらず。われは故池の禅尼に助けられ奉つたれば、その恩を報ぜんが為に、毎日法華経一部転読し奉るより外は、また他事なし。」とぞのたまひける。文覚かさねて、「天の与ふるを取らざれば却つてその咎を受く。時至りたるを行はざれば、却つてその殃を受くといふ本文あり。かやうに申せば、御辺の御心をがな引かんとて、申すとやおぼしめされ候らん。その儀では候はず。まづ御辺の為に、志の深いやうを見給へ。」とて、懐より白い布にて包んだる髑髏を一つ取り出す。兵衛の佐殿、「あれはいかに。」とのたまへば、「これこそ御辺の父故左馬の頭の殿の首よ。平治の後は獄舎の前の苔の下に埋れて、後世弔ふ人もなかりしを、文覚存ずる旨あつて、獄守に乞ひ、首にかけ、山々寺々修行して、この二十余年が間弔ひ奉つたれば、今は定めて一劫も浮び給ひぬらん。されば故頭の殿の御為には、さしも奉公の者にて候ぞかし。」と申されければ、兵衛の佐一定とは覚えねど、父の首と聞く懐かしさに、まづ涙をぞ流されける。
やゝあつて兵衛の佐殿、涙を抑へてのたまひけるは、「そもそも頼朝勅勘をゆりずして、いかでか謀叛をば起すべき。」とのたまへば、「それやすい程の事なり。やがて上つて、申し赦し奉らん。」兵衛の佐殿あざ笑つて、「わが身も勅勘の身にてありながら、人の事申さうとのたまふ、聖の御坊のあてがひ様こそ大きにまことしからね。」とのたまへば、文覚大きに怒つて、「わが身の咎を赦りうと申さばこそひがことならめ、わ殿の事申さうに、なじかはひがことならん。これより今の都福原の新都に上らうに、三日に過ぐまじ。院宣伺ふに一日の逗留ぞあらんずらん。都合七日八日には過ぐまじ。」とて、つき出でぬ。
ひじり奈古屋に帰りて、弟子どもには、人に忍うで伊豆の御山に、七日参籠の志ありとて出でにけり。げにも三日といふには、福原の新都に上り著いて、前の右兵衛の督光能の卿のもとに、いさゝか縁ありければ、それに尋ね行きて、「伊豆の国の流人前の右兵衛の佐頼朝、勅勘を赦されて、院宣をだに蒙り候はば、八箇国の家人共催し集めて、平家を亡ぼし、天下を鎮めんとこそ申し候へ。」光能の卿、「いさとよ、わが身も当時は三官ともに停められて、心苦しき折ふしなり。法皇もおしこめられてわたらせ給へば、いかゞあらんずらん。さりながら伺うてこそ見め。」とて、この由ひそかに奏聞せられたりければ、法皇大きに御感あつて、やがて院宣をぞ下されける。文覚喜んで頚に掛け、又三日といふには、伊豆の国へ下り著く。兵衛の佐殿、聖の御坊のなまじひなる事申し出して、頼朝またいかなる憂き目にあはんずらんと、思はじ事なう案じつゞけておはしける、八日といふ午の刻に下り著いて、「すは院宣よ。」とて奉る。
兵衛の佐殿院宣と聞く忝さに、新しき烏帽子、浄衣を著、手水うがひして、院宣を三度拝して開かれけり。「しきりの年よりこのかた、平氏王化を蔑如し、政道に憚る事なし。仏法を破滅し、王法を乱らんと欲す。それわが国は神国なり。宗廟相並んで、神徳これ新なり。故に朝廷開基の後数千余歳の間、帝位を傾け、国家をあやぶめんと欲するもの、みな以て敗北せずといふことなし。然ればすなはち、かつは神道の冥助にまかせ、かつは勅宣の旨趣を守つて、早く平氏の一類を亡ぼして、朝家の怨敵を退けよ。譜代相伝の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤を抽んでて、身を立て家を興すべし。ていれば院宣かくの如く、依つて執達件の如し。治承四年七月十四日、前の右兵衛の督光能承つて謹上、前の右兵衛の佐殿へ。」とぞ書かれたる。この院宣をば錦の袋に入れて、石橋山の合戦の時も、兵衛の佐殿頚にかけられけるとぞ聞えし。
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