五節の沙汰の事

 同じき十一月八日の日、大将軍権の亮少将維盛、福原へ帰り上り給ふ。入道相国大きに怒つて、「維盛をば鬼界が島へ流すべし。忠清をば死罪に行ふべし。」とぞのたまひける。これに依つて同じき九日の日、平家の侍老少数百人参会して、忠清が死罪の事、いかゞあるべからんと評定す。主馬の判官盛国進み出でて、「この忠清を日頃不覚人とは存じ候はず。あれが十八歳と覚え候。鳥羽殿の宝蔵に五畿内一の悪党二人逃げ籠りたりしを、寄つて搦めうと申す者一人も候はざりしに、この忠清たゞ一人、白昼に築地を越え、はね入つて、一人をば討ち取り、一人をば搦め取つて、名を後代に揚げたりし者ぞかし。今度の不覚はたゞごととも覚え候はず。これにつけても、よくよく兵乱の御つゝしみ候べし。」とぞ申しける。同じき十日の日除目行はれて、権の亮少将維盛右近衛の中将にあがり給ふ。今度坂東へ討手に向はれたりとは申せども、させる仕出したる事も候はず。こはされば何の勧賞ぞやとぞ、人々さゝやきあはれける。
 昔平将軍貞盛、俵藤太秀郷、将門を追討の為に東へ下向したりしかども、朝敵容易う亡び難かりしかば、重ねて討手を下さるべしと、公卿僉議あつて、宇治の民部卿忠文、清原の重藤、軍監といふ職を賜はつて下る程に、駿河の国清見が関に宿したりける夜、かの重藤、漫々たる海上を遠見して、「漁舟の火の影は寒うして波を焼き、駅路の鈴の声は夜山を過ぐ。」といふ唐詩を、高らかに口ずさび給へば、忠文優に覚えて、感涙をぞ流されける。
 さる程に将門をば、貞盛、秀郷が遂に討ち取つて、その首を持たせて上る程に、駿河の国清見が関にて行き逢うたり。それより前後の大将軍うちつれて上洛す。貞盛、秀郷に勧賞行はれけり。時に忠文、重藤にも勧賞あるべきかと、公卿僉議ありしかば、九條の右丞相師輔公、「今度坂東へ討手向うたりといへども、朝敵たやすう亡び難かりし所に、この人人勅諚を承つて関の東へ赴きし時、朝敵既に亡びたり。されば忠文、重藤にも、などか勧賞なかるべき。」と申させ給へども、その時の執柄小野の宮殿、「疑はしきをばなす事なかれと、礼記の文に候へば。」とて、遂になさせ給はず。忠文これを口惜しき事に思つて、小野の宮殿の御末をば奴に見なさん、九條殿の御末は、いつの世までも守護神とならんと誓ひつゝ、遂に干死にこそ死ににけれ。されば九條殿の御末はめでたう栄えさせ給へども、小野の宮殿の御末には然るべき人もましまさず、今は絶えはて給ひけるにこそ。
 同じき十一日、入道相国の四男頭の中将重衡、左近衛の権中将にあがり給ふ。同じき十三日、福原には内裏造り出されて、主上御遷幸ありけり。大嘗会行はるべかりしかども、大嘗会は十月の末、東河に行幸して御禊あり。大内の北の野に斎場所を造つて、神服、神具を調ふ。大極殿の前、竜尾堂の壇下に廻立殿を建て、御湯を召す。同じき壇のならびに大嘗宮を造つて、神膳を供ふ。神宴あり、御遊あり、大極殿にて大礼あり、清暑堂にて御神楽あり、豊楽院にて宴会あり。然るをこの福原の新都には大極殿もなければ、大礼行はるべきやうもなく、清暑堂もなければ御神楽奏すべき所もなし。豊楽院もなければ宴会も行はれず。今年はたゞ新嘗会、五節許りであるべき由、公卿僉議あつて、なほ新嘗の祭をば、旧都の神祇官にてぞ遂げられける。五節はこれ清見原のそのかみ、吉野の宮にして、月白くさえ、嵐はげしかりし夜、御心をすまして琴を弾き給ひしかば、神女天降つて、五度袖をひるがへす。これぞ五節の始めなる。

都がへりの事

 今度の都うつりをば、君も、臣もなのめならず御なげきありけり。山、奈良を始めて諸寺、諸社に至るまで、然るべからざる由、訴へ申したりければ、さしも横紙を破られし太政の入道殿、「さらば都かへりあるべし。」とて、同じき十二月二日の日、俄に都がへりありけり。
 新都は北は山々聳えて高く、南は海近くして下れり。浪の音常にかまびすしく、塩風はげしき所なり。されば新院、いつとなく御悩のみしげかりければ、これに依つて急ぎ福原を出でさせおはします。中宮、一院、上皇も御幸なる。摂政殿を始め奉りて、太政大臣以下の卿相雲客、われもわれもと供奉せらる。平家には太政の入道を始め奉りて、一門の人人みな上られけり。さしも心うかりつる新都に誰か片時も残るべき、われ先にわれ先にとぞ上られける。去んぬる六月より屋ども少々毀ち下し、かたの如く取立てられしかども、今またものぐるはしう、俄に都がへりありければ、何の沙汰にも及ばず、みなうち捨てうち捨て上られけり。
 両院は六波羅池殿へ御幸なる。行幸は五條の内裏とぞ聞えし。各の宿所もなければ、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山のかたほとりについて、或は御堂の廻廊、或は社の宝殿などに、然るべき人も立ち宿つてましましける。
 そもそも今度の都遷りの本意をいかにといふに、旧都は山、奈良近くして、聊かの事にも日吉の神輿、春日の神木などいひてみだりがはし。新都は山隔たり、江重なつて、程もさすが遠ければ、さやうの事もたやすかるまじとて、入道相国計らひ申されけるとかや。
 同じき二十三日、近江源氏の背きしを攻めんとて、大将軍には左兵衛の督知盛、薩摩守忠度、都合その勢三万騎、近江の国へ発向す。山本、柏木、錦織などいふ、あふれ源氏ども攻め落し、それよりやがて美濃、尾張へぞ越えられける。

奈良炎上の事

 都にはまた、南都、三井寺同心して、或は宮うけ取り参らせ、或は御迎へに参る條、是れ以て朝敵なり。然らば奈良をも攻めらるべしと聞えしかば、大衆大きに蜂起す。関白殿より、「存知の旨あらば、いく度も奏聞にこそ及ばめ。」とて、有官の別当忠成を下されたりけるを、大衆起つて、「乗物より取つて引落せ、髻切れ。」と犇く間、忠成色を失ひて逃げ上る。次に右衛門の督親雅を下されたりけれども、「之をも髻切れ。」と犇きければ、取る物も取りあへず、急ぎ都へ上られけり。その時は勧学院の雑色二人が髻切られてけり。
 南都にはまた大きなる毬杖の玉を造つて、これこそ入道相国の首と名づけて、「うて、踏め。」などぞ申しける。ことばの洩れやすきは禍を招く媒なり。ことばの慎まざるは敗れを取る道なりといへり。かけまくも{*1}忝くこの入道相国は、当今の外祖にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えし。
 入道相国、かつかつまづ南都の狼藉を鎮めんとて、妹尾の太郎兼康を大和の国の検非所に補せらる。兼康五百余騎で馳せ向ふ。「相構へて、衆徒は狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物具なせそ、弓矢な帯せそ。」とてつかはされたりけるを、南都の大衆斯かる内議をば知らずして、兼康が余勢六十余人を搦め捕つて、一々に首を切つて、猿沢の池の端にぞ懸け並べたりける。入道相国大きに怒つて、「さらば南都をも攻めよや。」とて、大将軍には頭の中将重衡、中宮の亮通盛、都合その勢四万余騎、南都へ発向す。南都にも老少嫌はず七千余人、兜の緒を締め、奈良坂、般若寺、二箇所の道を掘り切つて、掻楯かき、逆木引いて待ちかけたり。
 平家四万余騎を二手にわけて、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭におし寄せて、鬨をどつとぞつくりける。大衆は歩立、打物なり。官軍は馬にて駆けまはし駆けまはし攻めければ、大衆数をつくして討たれにけり。卯の刻より矢合して、一日戦ひくらし、夜に入りければ、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭、共に破れぬ。落ちゆく衆徒の中に坂の四郎永覚といふ悪僧あり。これは力の強さ、弓矢、打物取つては七大寺、十五大寺にもすぐれたり。萌黄縅の鎧に黒糸縅の腹巻、二領重ねてぞ著たりける。帽子兜に五枚兜の緒をしめ、茅の葉の如くにそつたる白柄の大長刀、黒漆の大太刀、左右の手に持つ儘に、同宿十余人前後左右に立て、手蓋の門より討つて出でたり。これぞ暫く支へたる。多くの官兵等馬の足薙がれて、多く亡びにけり。されども官軍は大勢にて、入れかへ入れかへ攻めければ、永覚が防ぐ所の同宿、みな討たれにけり。永覚心は猛う思へども、後あばらになりしかば、力及ばず、たゞ一人、南を指してぞ落ちゆきける。
 夜軍になつて大将軍頭の中将重衡、般若寺の門の前にうち立つて、闇さはくらし、「火を出せ。」とのたまへば、播磨の国の住人、福井の荘の下司次郎太夫友方といふもの、楯をわり松明にして、在家に火をぞかけたりける。頃は十二月二十八日の夜の戌の刻ばかりの事なれば、折ふし風は烈しく、火本は一つなりけれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。凡そ恥をも思ひ、名をも惜しむ程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にして討たれにけり。行歩になへる者は吉野、十津川の方へぞ落ち行きける。歩みも得ぬ老僧や、尋常なる修学者、児ども、女童はもしや助かると、大仏殿の二階の上、山階寺の内、われ先にとぞ逃げ入ける。大仏殿の二階の上には千余人昇りあがり、敵のつゞくを上せじとて階を引いてけり。猛火はまさしうおしかけたり。喚き叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無限阿鼻、焔の底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。
 興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃を併べし四面の廊、朱丹を交へし二階の楼、九輪空に輝きし二基の塔、忽ちに煙となるこそ悲しけれ。
 東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏とおぼしめしなぞらへて、聖武皇帝手づから、みづからみがき立てたまひし金銅十六丈の廬遮那仏、烏瑟高くあらはれて、半天の雲にかくれ、白毫あらたに拝まれさせ給へる満月の尊容も、御首は焼け落ちて大地にあり、御身は鎔きあひて山の如し。八万四千の相好は秋の月、早く五重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞は夜の星、空しう十悪の風に漂ひ、煙は中天に充ち満ちて、焔は虚空にひまもなし。まのあたり見る者は更に眼をあてず、かすかに伝へきく人は肝魂を失へり。法相三論の法文、聖教、すべて一巻も残らず。わが朝は申すに及ばず、天竺、震旦にもこれ程の法滅あるべしとも覚えず。優填大王の紫磨金をみがき、毘須羯磨が赤栴檀を刻みしも、僅に等身の御仏なり。況んや是は南閻浮提の中には唯一無双の御仏、長く朽損の期あるべしとも思はざりしに、今毒煙の塵に交はつて、久しく悲しみを残したまへり。梵釈四王、竜神八部、冥官、冥衆も驚き給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、いかなる事をかおぼしけん、されば春日野の露も色かはり、三笠山の嵐の音も恨むるやうにぞ聞えける。
 焔の中にて死ぬる人数を数へたれば、大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、ある御堂には三百余人、つぶさに記いたりければ、三千五百余人なり。戦場にして討たるゝ大衆千余人、少々は般若寺の門に切りかけさせ、少少は首ども持つて都へ上られけり。
 あくる二十九日頭の中将重衡、南都亡ぼして北京へ帰り入らる。およそは入道相国許りこそ憤り晴れて喜ばれけれ。中宮、一院、上皇は、「たとひ悪僧をこそ亡ぼさめ、多くの伽藍を破滅すべきやは。」とぞ御歎きありける。日頃は衆徒の首、大路をわたいて、獄門の木にかけらるべしと、公卿僉議ありしかども、東大寺、興福寺の亡びぬる浅ましさに、何の沙汰にも及ばず。こゝやかしこの溝や堀にぞ捨て置きける。聖武皇帝の宸筆の御記文にも、「わが寺興福せば天下も興福すべし。わが寺衰微せば天下も衰微すべし。」とぞあそばされたる。されば天下の衰微せんこと疑ひなしとぞ見えたりける。あさましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり。

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校訂者注
 1:底本は、「かけまけも」。