洲の股合戦の事
同じき二十日の日、五條大納言国綱卿も失せ給ひぬ。入道相国とさしも契り深うおはせしが、同日に病みつきて、同じ月うせ給ひけるこそ不思議なれ。同じき二十二日前右大将宗盛卿院参して、院の御所を法住寺殿へ御幸なし奉るべき由奏せらる。かの御所は去んぬる応保元年四月十五日に造り出されて、新日吉、新熊野、間近う勧請し奉り、山水、木立に至るまで思召すまゝなりしが、平家の悪行に依つて、この二三箇年は院も渡らせたまはず。御所の廃壊したるを修理して、御幸なしまゐらすべき由奏聞せられたりければ、法皇、「何のやうもあるべからず、たゞ疾う疾う。」とて御幸なる。まづ故建春門院のおはしける御方を御覧ずれば、岸の松、汀の柳、年経にけりとおぼしくて、木高くなれり。大液の芙蓉、未央の柳、これに向ふに如何か涙進まざらん。かの南園西宮の昔の跡、今こそ思召し知られけれ。
三月の一日の日、南都の僧綱等みな赦されて本官に復す。末寺、荘園、一所も相違あるべからざる由、仰せ下さる。同じき三日の日、大仏殿事始めなり。事はじめの奉行には、前の左少弁行隆ぞ参られける。この行隆、先年八幡へ参り、通夜せられたりける夢に、御宝殿の御戸おし開き、鬟結うたる天童の出でて、「これは大菩薩の御使なり。大仏殿事はじめの奉行の時は、これを持つべし。」とて、笏を賜はるといふ夢を見て、覚めて後見給へば、うつゝに枕がみにぞ候ひける。あな不思議、当時何事あつてか、大仏殿事はじめの奉行には参るべきと思はれけれども、御霊夢なれば懐中して宿所に帰り、深う納めて置かれけるが、平家の悪行に依つて南都炎上の間、多くの弁の中にこの行隆を選び出されて、大仏殿事はじめの奉行に参られける宿縁の程こそめでたけれ。
同じき十日の日、美濃の国の目代、早馬を以て都へ申しけるは、源氏既に尾張の国まで攻め上り、道を塞いで、人を一向通さぬ由申したりければ、平家やがて討手をさし向けらる。大将軍には左兵衛の督知盛、左中将清経、同じき少将有盛、丹後の侍従忠房、侍大将には越中の次郎兵衛盛継、上総の五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、都合その勢三万余騎尾張の国へ発向す。入道相国薨ぜられてわづか五旬をだに満たざるに、さこそ乱れたる世といひながら、あさましかりし事どもなり。
源氏の方には十郎蔵人行家、兵衛の佐の弟卿の公義円、都合その勢六千余騎、尾張川を隔てて、源平両方に陣を取る。同じき十六日の夜に入つて、源氏六千余騎、河を渡いて平家三万余騎が勢の中へ駆け入り、寅の刻より矢合して、夜のあくるまで戦ふに、平家の方にはちつとも騒がず。「敵は河を渡いたれば、馬、物具もみな濡れたるぞ、それをしるしに討てや。」とて、源氏を中に取りこめて、われうち取らんとぞ進みける。兵衛の佐の弟卿の公義円、深入りして討たれけり。十郎蔵人行家さんざんに戦ひ、家の子郎等多く射させ、力及ばで川より東へ引退く。平家やがて川を渡いて、落ち行く源氏を、追ふもの射に射て行くに、あそここゝにて返しあはせて防ぎ戦ふといへども、多勢に無勢、かなふべしとも見えざりけり。
水沢を後にすることなかれとこそいふに、今度の源氏の謀はおろかなりとぞ、人申しける。十郎蔵人行家は引退き、三河の国にうち越えて、矢矧川の橋を引き、掻楯かいて待ちつけたり。平家やがて続いて攻め給へば、そこをも遂に攻め落されぬ。なほも続いて攻め給はば、三河、遠江の勢はたやすう附くべかりしを、大将軍左兵衛の督知盛、いたはりありとて、三河の国より都へ帰り上られけり。今度も、わづか一陣をこそ破られたれども、残党を攻めざれば、させる仕出したる事なきが如し。
平家は去々年小松の大臣薨ぜられぬ。今年また入道相国うせ給ひぬ。運命の末になる事あらはなりしかば、年頃恩顧のともがらの外は、従ひつく者なかりけり。東国は草も木もみな源氏にぞ靡きける。
しはがれ声の事
さる程に越後の国の住人城の太郎助長、越後の守に任ぜらる。朝恩のかたじけなさに、木曽追討の為にとて、その勢三万余騎で信濃の国へ発向す。六月十五日に門出して、既にうち立たんとしける夜半ばかり、俄に空かき曇り、雷のおびたゞしう鳴つて大雨下り、天晴れて後、虚空にしはがれたる声を以て、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏焼き亡ぼし奉つたる、平家の方人する者こゝにあり。寄つて召捕れや。」と、三声叫んでぞ通りける。
城の太郎を始めとして、これを聞く兵共、みな身の毛よだちけり。郎等ども、「これほど恐ろしき天の御告げの候に、たゞ理をまげて止らせ給へ。」といひけれども、弓矢取る身のそれに依るべからずとて、城を出でて、わづか二十余町ぞ行きたりける。また黒雲一むら立ち来つて、助長が上に覆ふと見えしが、忽ちに身すくみ、心ほれて、落馬してけり。輿にかかれて館へ返り、うち臥すこと三時ばかりあつて、遂に死ににけり。飛脚を以て都へこの由を申したりければ、平家の人々大きに恐れ騒がれけり。
同じく七月十四日改元あつて養和と号す。その日除目行はれて、筑後守貞能肥後の守になつて、筑前、肥後両国を賜はつて、鎮西の謀叛平らげに、その勢三千余騎で鎮西へ発向す。またその日非常の赦行はれて、去んぬる治承三年に流されたまひし人々、みな都へ召し帰さる。入道松殿殿下、備前の国より上らせ給ふ。妙音院の太政大臣殿、尾張の国より御上洛、按察の大納言資賢卿は信濃より帰洛とぞ聞えし。
同じき二十八日、妙音院殿御院参、去んぬる長寛の帰洛には、御前の簀子にして、賀王恩、還城楽を弾きたまひしが、養和の今の帰京には、仙洞にして秋風楽をぞあそばされける。何も何も風情、折をおぼしめし寄らせ給ひける、御心ばせこそめでたけれ。按察の大納言資賢の卿もその日同じう院参せらる。法皇叡覧あつて{*1}、「いかにやいかに、この頃は習はぬひなの住居して、郢曲なども、今は定めて跡かたあらじとこそ思召せども、まづ今様一つあれかし。」と仰せければ、大納言拍子取つて、「信濃にあんなる木曽路川。」といふ今様を、これはまさしう見聞かれたりしかば、「信濃にありし木曽路川。」と歌はれけるこそ、時に取つての高名なれ。
横田河原合戦の事
八月七日の日、官の庁にして大仁王会行はる。これは将門追討の例とぞ聞えし。九月一日の日、純友追討の例とて、伊勢大神宮へ鉄の鎧兜を参らせらる。勅使は祭主神祇の権大副大中臣の定高、都を立つて、近江の国甲賀の駅より病みついて、同じき三日の日、伊勢の離宮にして遂に死にぬ。また調伏の為に、五壇の法承つて行ひける降三世の大阿闍梨、大行事の彼岸所にて寝死に死にぬ。神明も三宝も御納受なしといふ事いちじるし。また大元の法承つて行ひける、安祥寺の実玄阿闍梨が、御巻数を参らせたるを、披見せられければ、平氏調伏の由を注進しけるこそ恐ろしけれ。「こはいかに。」と仰せければ、「朝敵調伏せよと仰せ下さる。つらつら当世の体を見候に、平家専ら朝敵と見えたり。依つてかれを調伏す。何の咎や候べき。」とぞ申しける。この法師奇怪なり、死罪か流罪かと沙汰ありしかども、大小事の怱劇にうち紛れて、何の沙汰にも及ばず。平家亡び源氏の代になつて鎌倉へ下り、この由かくと申しければ、鎌倉殿感じ給ひて、その勧賞に僧正になされけるとぞ聞えし。
同じき十二月二十四日、中宮院号蒙らせ給ひて建礼門院とぞ申しける。主上未だ幼主の御時、母后の院号、これ始めとぞ承る。さる程に今年も暮れて養和も二年になりにけり。節会以下常の如し。二月二十一日、太白昴星を侵す。天文要録に曰く、「太白昴星を侵せば四夷起る。」といへり。又、「将軍勅命を承つて国の境を出づ。」とも見えたり。三月十日の日除目行はれて、平家の人々大略官加階し給ふ。四月十五日前の権少僧都源親日吉の社にして、如法に法華経一万部転読致さるゝ事ありけり。御結縁の為にとて法皇も御幸なる。
何者の申し出したりけるやらん、一院山門の大衆に仰せて、平家追討せらるべしと聞えしかば、軍兵内裏へ参じて、四方の陣頭を警固す。平氏一類みな六波羅へ馳せ集まる。本三位の中将重衡の卿、その勢三千余騎で日吉の社へ参向す。山門にまた聞えけるは、平家山攻めんとて、登山すと聞えしかば、大衆東坂本におり下つて、こはいかにと僉議す。法皇も叡慮を驚かさせおはします。公卿、殿上人も色を失ひ、北面の輩共の中には、あまりにあわて騒いで、黄水吐くもの多かりける。山上、洛中の騒動なのめならず。
さる程に重衡卿、穴生の辺にて法皇迎へ取り参らせて、都へ還御なし奉る。一院山門の大衆に仰せて、平家追討せらるべしといふ事も、平家また山攻めんといふことも、跡かたなきそらごとなり。たゞ天魔のよく荒れたるにこそとぞ、人申しける。法皇仰せなりけるは、「かくのみあらんには、この後は御ものまうでなど申す事も、御心にはまかすまじき事やらん。」とぞ仰せける。同じき二十日の日、二十二社へ官幣使を立てらる。これは飢饉疾疫に依つてなり。同じき五月二十四日に改元あつて寿永と号す。その日除目行はれて、越後の国の住人、城の四郎資茂、越後の守に任ず。兄資長逝去の間、不吉なりとて、頻りに辞し申しけれども、勅命なれば力及ばず。これに依つて資茂を長茂と改名す。
さる程に九月二日の日、越後の国の住人城の四郎長茂、木曽追討の為にとて、越後、出羽、会津四郡の兵共を引率して、都合その勢四万余騎、美濃の国へ発向す。同じき九日の日、当国横田河原に陣を取る。木曽は依田の城にありけるが、三千余騎で城を出で馳せ向ふ。こゝに信濃の源氏井上の九郎光盛が謀に、三千余騎を七手に分ち、俄に赤旗七旒作つて、手ん手にさしあげ、あそこの岸、こゝの洞より寄せければ、越後の勢ども之を見て、「あはやこの国にも御方のありけるは。力附きぬ。」とて勇み喜ぶ所に、次第に近うなりければ、合図を定めて、七手が一つになり、赤旗ども切り棄てさせ、かねて用意したりける白旗を、さつとさしあげて、鬨をどつと作りければ、越後の勢どもこれを見て、「こはたばかられにけり。敵何十万騎かあらん、取りこめられては叶ふまじ。」とて、あわてふためきけるが、或は河へおつぱめられ、或は悪所へ追ひ落されて、助かる者は少なう、討たるゝ者ぞ多かりける。城の四郎がむねと頼みきつたる越後の山の太郎、会津の乗丹坊などいふ一人当千の兵どもも、そこにてみな討ち取られぬ。城の四郎、わが身手負ひ、からき命生きつゝ、河について越後の国へ引退く。飛脚を以て、都へこの由を申したりけれども、平家の人々これを事ともし給はず。
同じき十六日、前の右大将宗盛の卿、大納言に還著して、十月三日の日、内大臣になり給ふ。同じき七日、喜申しのありしに、公卿には花山の院の中納言を始め奉つて、十二人扈従してやりつゞけらる。蔵人の頭親宗以下、殿上人十六人前駆す。中納言四人、三位の中将も三人までおはしき。東国、北国の源氏等蜂の如くに起りあひ、たゞ今都へ乱れ入る由聞えしかども、平家の人々は風の吹くやらん、波の立つやらんをも知り給はず。かやうにはなやかなりし事ども、なかなかいふかひなうぞ見えし。
さる程に今年も暮れて、寿永も二年になりにけり。節会以下常の如し。正月五日の日朝観の行幸ありけり。これは鳥羽の院六歳にて朝観の行幸ありし、その例とぞ聞えし。二月二十一日、宗盛公従一位し給ふ。やがてその日内大臣をば上表せらる。これは兵乱つゝしみの為とぞ聞えし。南都、北嶺の大衆、熊野、金峯山の僧徒、伊勢大神宮の祭主、神官に至るまで、一向平家を背いて、源氏に心をかよはしけり。四海に宣旨をなし下し、諸国へ院宣をつかはせども、院宣、宣旨をも、みな平家の下知とのみ心得て、従ひつく者もなかりけり。
校訂者注
1:底本は、「叡覧つあて、」。
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