篠原合戦の事
木曽殿やがてそこにて、諸社へ神領を寄せらる。多田の八幡へは蝶屋の荘、菅生の社へは能美の荘、気比の社へは飯原の荘、白山の社へは横江、宮丸二箇所の荘を寄進す。平泉寺へは藤島七郷をぞ寄せられける。
去んぬる治承四年八月石橋山の合戦の時、兵衛の佐殿射奉りし武士ども、みな逃げ上つて、平家の御方にぞ候ひける。宗徒の人々には長井の斎藤別当実盛、浮巣の三郎重親、股野の五郎景久、伊藤の九郎天祐氏、真下の四郎重直なり。これらはみな軍のあらん程暫く休まんとて、日毎に寄りあひ寄りあひ、巡酒をしてぞ慰みける。まづ長井の斎藤別当がもとに寄り合ひたりける日、実盛申しけるは、「つらつら当世の体を見候に、源氏の方はいよいよ強く、平家の御方は負色に見えさせ給ひて候。いざ各木曽殿へ参らう。」といひければ、みな、「さんなう{*1}。」とぞ同じける。
次の日、また浮巣の三郎がもとに寄りあひたりける時、斎藤別当、「さても昨日実盛申ししことはいかに、各。」といひければ、その中に股野の五郎景久、進み出でて申しけるは、「さすがわれらは東国では人に知られて名ある者でこそあれ。吉についてあなたへ参り、こなたへ参らんことは見苦しかるべし。人々の御心どもをば知り参らせず候。景久においては、今度平家の御方で討死せんと、思ひ切つて候ぞ。」といひければ、斎藤別当あざ笑つて、「まことには各の御心どもをがな引かんとてこそ申したれ。実盛も今度北国にて討死せんと思ひ切つて候へば、二度命生きて、都へは帰るまじき由、大臣殿へも申し上げ、人人にもそのやうを申し置き候。」といひければ、皆またこの議にぞ同じける。その約束を違へじとや、当座にありける二十余人の侍どもも、今度北国にて一所に死ににけるこそ無慙なれ。
平家は加賀の国篠原に引退いて、人馬の息をぞ休めける。同じき五月二十日の日、木曽殿五万余騎、篠原へぞ向はれける。木曽殿の方より今井の四郎兼平、まづ五百余騎にて馳せ向ふ。平家の方には畠山の庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮の左衛門朝綱、これらは大番役にて、折ふし在京したりけるを、大臣殿、「汝等は古い者なり。軍のやうをも掟てよ。」とて今度北国へ向けられたり。かれら兄弟、三百余騎でうち向ふ。畠山、今井、始めは五騎、十騎づゝ出し合はせて勝負をせさせけるが、後には両方乱れ合うてぞ戦ひける。
同じき二十一日の午の刻、草もゆるがず照らす日に、源平の兵共、われ劣らじと戦へば、遍身より汗出でて、水を流すに異ならず。今井が方にも兵多く亡びにけり。畠山、家の子、郎等多く討たせ、力及ばで引退く。次に平家の方より高橋の判官長綱、五百余騎で馳せ向ふ。木曽殿の方より樋口の次郎兼光、落合の五郎兼行、三百余騎でうち向ふ。源平の兵ども暫し支へて防ぎ戦ふ。されども高橋が方の勢は、国々のかり武者なりければ、一騎も落ち合はず、われ先にとぞ落ち行きける。高橋心は猛う思へども、後あばらになりければ、力及ばずたゞ一騎、南を指してぞ落ち行きける。
こゝに越中の国の住人入善の小太郎重行、よい敵と目をかけ、鞭鐙をあはせて馳せ来り、おし並べてむずと組む。高橋、入善をつかんで鞍の前輪におしつけ、ちつとも働かさず、「さてわ君は何者ぞ、名のれ、聞かう。」といひければ、「越中の国の住人入善の小太郎行重生年十八歳。」とぞ名乗つたる。高橋涙をはらはらと流いて、「あな無慙、去年後れたる長綱が子もあらば、今年は十八歳ぞかし。わ君ねぢ切つて捨つべけれども、さらば助けん。」とて赦しけり。
高橋の判官は御方の勢待たんとて、馬より下りて息つぎゐたり。入善も休みゐたりけるが、あつぱれよい敵、われをば助けたれども、いかにもして討たばやと思ひゐたる所に、高橋これをば夢にも知らず、うちとけて物語をぞしゐたる。入善は聞ゆる早業の男にてありければ、高橋が見ぬひまに刀を抜き、立ち上り、高橋の判官が内兜をしたゝかに刺す。刺されてひるむ所に、入善が郎等後れ馳せに三騎馳せ来つて落ち合うたり。高橋心は猛う思へども、敵はあまたなり、手は負ひつ、運や尽きにけん、そこにて遂に討たれぬ。
次に平家の方より武蔵の三郎右衛門有国、三百余騎でをめいて駆く。木曽殿の方より仁科、高梨、山田の次郎、五百余騎でうち向ふ。これもしばし支へて防ぎ戦ふ。されども有国はあまりに深入りして戦ひけるが、馬をも射させ、歩立になり、兜をも打ち落され、大童になつて、矢種みな尽きければ、打物抜いて戦ひけるが、矢七つ八つ射立てられ、敵の方睨まへ、立死にこそ死ににけれ。大将かやうになる上は、その勢みな落ちぞゆく。
実盛最後の事
落ちゆく勢の中に、武蔵の国の住人長井の斎藤別当実盛は、存ずる旨ありければ、赤地の錦の直垂に萌黄縅の鎧著て、鍬形打つたる兜の緒をしめ、金づくりの太刀を佩き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持つて、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍をおいて乗つたりけるが、御方の勢は落ち行けども、たゞ一騎返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ。木曽殿の方より手塚の太郎進み出でて、「あなやさし、いかなる人にてわたらせ給へば、御方の御勢はみな落ちゆき候に、たゞ一騎残らせたまひたるこそ、優に覚え候へ。名乗らせたまへ。」とことばを懸けければ、「まづかういふわ殿は誰そ。」「信濃国の住人手塚の太郎金刺の光盛。」とこそ名乗つたれ。斎藤別当、「さては互によき敵、但しわ殿を下ぐるにはあらず、存ずる旨があれば、名乗る事はあるまじいぞ。寄れ、組まう手塚。」とて、馳せ並ぶるところに、手塚が郎等、主を討たせじと中に隔たり、斎藤別当におし並べて、むずと組む。斎藤別当、「あつぱれおのれは、日本一の剛の者と組んでうすよ、なうれ。」とて、わが乗つたりける鞍の前輪におしつけて、ちつとも働かさず、首かき切つて捨ててける。手塚の太郎、郎等が討たるゝを見て、弓手に廻りあひ、鎧の草摺引上げて二刀刺し、弱る所を組んで伏す。斎藤別当心は猛う思へども、軍にはしつかれぬ、手は負うつ、その上老武者ではあり、手塚が下にぞなりにける。
手塚の太郎、馳せ来る郎等に首取らせ、木曽殿の御前にまゐり畏まつて、「光盛こそ奇異の癖者と組んで、討つて参つて候へ。侍かと見候へば、錦の直垂を著て候。また大将軍かと見候へば、つゞく勢も候はず、名乗れ名乗れと責め候ひつれども、遂に名乗り候はず。声は坂東声にて候ひつる。」と申しければ、木曽殿、「あつぱれ、これは斎藤別当にてあり、ござんなれ、それならんには義仲が上野へ越えたりし時、をさな眼に見しかば、白髪の糟尾なつしぞかし。今ははや七十にもあまり、白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒いこそあやしけれ。樋口の次郎兼光は年頃馴れ遊んで、見知りたるらん、樋口召せ。」とて、召されけり。
樋口の次郎たゞ一目見て、「あな無慙、斎藤別当にて候ひけり。」とて涙を流す。木曽殿、「それならんには、はや七十にも余り、白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒きはいかに。」とのたまへば、やゝあつて樋口の次郎、涙をおさへて申しけるは、「さ候へば、そのやうを申し上げんと仕り候が、あまりにあはれに覚え候うて、まづ不覚の涙のこぼれ候ひけるぞや。されば弓矢取りは、聊かの所にても思出のことばをば、かねてつかひ置くべきことにて候ひけるぞや。斎藤別当、常は兼光に逢うて物語し候ひしは、『六十にあまりて軍の陣へ向はん時は、鬢鬚を黒う染めて、若やがうと思ふなり。その故は若殿ばらに争うて、先を駆けんもおとなげなし、また老武者とて、人に侮られんも口惜しかるべし。』と申し候ひしが、まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へ。」と申しければ、木曽殿さもあるらんとて、洗はせて御覧ずれば、白髪にこそなりにけれ。
また斎藤別当錦の直垂を著ける事も、最後の暇申しに大臣殿へ参つて、「かう申せば、実盛が身一つにては候はねども、先年坂東へまかり下り候ひし時、水鳥の羽音に驚き、矢一つをだに射ずして、駿河の蒲原より逃げ上つて候ひしこと、老の後の恥辱、たゞこの事に候。今度北国へまかり下り候はば、定めて討死仕り候べし。実盛もとは越前の国の者にて候ひしが、近年御領につけられて、武蔵の国長井に居住仕り候ひき。事の譬の候ぞかし。故郷へは錦を著て帰ると申す事の候へば、何か苦しう候べき、錦の直垂を御免候へかし。」と申しければ、大臣殿、「やさしうも申したりけるものかな。」とて、錦の直垂を御免ありけるとぞ聞えし。昔の朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ止め置いて、屍は越路の末の塵となるこそあはれなれ。
去んぬる四月十七日、平家十万余騎にて都を出でしことがらは、何おもてを向ふべしとも見えざりしに、今五月下旬に都へ帰り上るには、その勢僅に二万余騎、流れを尽してすなどる時は、多くの魚を得るといへども、明年に魚なし。林を焼いて狩るときは、多くの獣を得るといへども、明年に獣なし。後を存じて少々は残さるべかりけるものをと、申す人もありけるとかや。
校訂者注
1:底本頭注に、「然なり さうだ」とある。
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