玄肪の事

 上総の守忠清、飛騨の守景家は、一昨年、入道相国薨去せられし時、二人ともに出家してありけるが、今度北国にて、子どもみな討たれぬ{*1}と聞いて、その思ひのつもりにや、遂に歎き死にぞ死ににける。これを始めて、親は子に後れ、妻は夫に別れて、歎き悲しむ事かぎりなし。およそ京中には家々に門を閉ぢて、朝夕鐘うち鳴らし、声々に念仏申し、をめき叫ぶ事おびたゞし。また遠国、近国もかくの如し。
 六月一日の日、祭主神祇の権の大副大中臣の親俊を殿上の下口へ召されて、今度兵革しづまらば、伊勢大神宮へ行幸あるべき由仰せ下さる。大神宮は昔高天の原より天降らせ給ひて、垂仁天皇の御宇二十五年三月に、大和の国笠縫の里より、伊勢の国度会の郡五十鈴の川上、下つ磐根に、大宮柱をふとしき立てて、崇めそめ奉つしよりこのかた、日本六十余州、三千七百五十余社の、大小の神祇、冥道の中には無双なり。されども代々の帝遂に臨幸はなかりしに、奈良の帝の御時、左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近衛の少将兼太宰の少貮藤原の広嗣といふ人ありけり。天平十五年十月に肥前の国松浦の郡にして、数万の軍兵を率して、国家を既に危めんとす。その時大野の東人を大将軍として、広嗣追討せられし時、帝御祈りのために、伊勢大神宮へ始めて行幸ありし、その例とぞ聞えし。かの広嗣は肥前の松浦より、都へ一日に下り上る馬をぞ持つたりける。されば追討せられし時、御方の兵ども落ちうせ、討たれしかば、件の馬にうち乗り、たゞ一騎海中へ馳せ入りけるとぞ聞えし、その亡霊あれて、常は恐ろしき事ども多かりけり。
 天平十八年六月十八日、筑前の国御笠の郡、太宰府の観世音寺供養せられし導師には、玄肪僧正とぞ聞えし。高座に上り鐘うち鳴らす時、俄に空かき曇り、雷おびたゞしう鳴つて、かの僧正の上に落ちかゝり、その首を取つて、雲の中へぞ入りにける。これは広嗣調伏せられし、その故とぞ聞えし。この僧正、吉備の大臣入唐の時、相伴つて渡り、法相宗渡されたりし人なり。唐人が玄肪といふ名を笑つて、「玄肪とは、還つて亡ぶといふ声あり。いかさまにもこの人帰朝の後、難に逢ふべき人なり。」と相したりけるとかや。
 同じき十九年六月十八日、髑髏に玄肪といふ銘を書いて、興福寺の庭に落し、人ならば二三百人ばかりが声して、虚空にどつと笑ふ音しけり。興福寺は法相宗の寺たるに依つてなり。その弟子共これを取つて塚に築き、その内に納めて、頭墓と名づけて今にあり。これに依つて広嗣が亡霊を崇められて、肥前の国松浦の今の鏡の宮と号す。嵯峨の皇帝の御時、平城の先帝、尚侍のすゝめによつて、既に世を乱らんとせさせ給ひし時、帝御祈りの為に、第三の皇女祐智内親王を賀茂の齋院に立て参らさせ給ふ、これぞ齋院の始めなる。朱雀院の御時も純友追討の例とて、八幡にて臨時の御神楽あり。今度もその例たるべしとて、さまざまの御祈りどもありけり。

木曽山門牒状の事

 さる程に木曽義仲は越前の国府に著いて、家の子、郎等召集めて評定す。「そもそも義仲、近江の国を経てこそ、都へは上るべきに、例の山僧どもの防ぐ事もやあらんずらん。駆け破つて通らん事は安けれども、当時は平家こそ、仏法ともいはず、寺を亡ぼし、僧を失ひ、悪行をばいたすなれ。それを守護の為に上洛せんずる義仲が、平家と一つなればとて、山門の衆徒に向つて合戦せん事、少しも違はぬ二の舞なるべし。これこそさすが安大事よ。いかゞせん。」と宣へば、手書に具せられたりける大夫坊覚明、進み出でて申しけるは、「山門の大衆は三千人候なるが、必ず一味同心なることは候はず。或は平家に同心せんと申す衆徒も候らん。或は源氏につかんと申す大衆も候らん。詮ずる所、牒状を遣はして御覧候へ。返牒にこそ、その様は見え候はんずらめ。」と申しければ、木曽殿、「この儀最も然るべし。さらば書け。」とて、覚明に牒状を書かせて、山門へ送らる。
 その状に曰く、「義仲つらつら平家の悪逆を見るに、保元、平治よりこのかた、長く人臣の礼を失ふ。然りといへども貴賤手をつかね、緇素足を戴く。恣に帝位を進退し、あくまで国郡を虜領す。道理非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有財無財をいはず、卿相侍臣を損亡す。その資財を奪ひ取つて、悉く郎従に与へ、かの荘園を没収して、みだりがはしく子孫に省く。なかんづく去んぬる治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る。衆庶ものいはず、道路目を以てす。しかのみならず、同じき四年五月、二の宮の朱閣を囲み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。こゝに帝子非分の害を遁れんが為に、ひそかに園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨を賜はるに依つて、鞭を揚げんと欲する所に、怨敵巷に満ちて、予参道を失ふ。近境の源氏なほ参候せず。況んや遠境においてをや。しかるに園城は分限なきに依つて、南都へ赴かしめ給ふ間、宇治橋にして合戦す。大将三位入道頼政父子、命を軽んじ義を重んじて、一戦の功を励ますと雖も、多勢の攻めを免れず、形骸を古岸の苔に暴し、姓名を長河の波に流す。令旨の趣、肝に銘じ、同類の悲しみ魂を消す。之に依つて東国、北国の源氏等、各参洛を企て、平家を亡ぼさんと欲す。義仲去んじ年の秋、宿意を達せんが為に、旗を揚げ剣を把つて信州を出でし日、越後の国の住人城の四郎長茂、数万の軍兵を率して発向せしむる間、当国横田河原にして合戦す。義仲僅に三千余騎を以てかの数万の兵を破り終んぬ。風聞広きに及んで、平氏の大将十万の軍士を率して、北陸に発向す。越州、加州、砺並、黒坂、塩坂、篠原以下の城郭にして、数箇度合戦す。策を帷幄の中に運らして、勝つことを咫尺のもとに得たり。然るに撃てば必ず伏し、攻むれば必ず降る。秋の風の芭蕉を破るに異ならず。冬の霜の薫蕕を枯らすに相同じ。これ偏に神明、仏陀の助けなり。更に義仲が武略にあらず。平氏敗北の上は、参洛を企つるなり。今叡岳の麓を過ぎて、洛陽の衢に入るべし。この時に当つてひそかに疑胎あり。そもそも天台の衆徒は平家に同心か、源氏に与力か。もしかの悪徒を助けらるべくば、衆徒に向ひて合戦すべし。もし合戦を致さば、叡岳の滅亡、踵を旋らすべからず。悲しいかな平家宸襟を悩まし、仏法を亡ぼす間、悪逆を鎮めんが為に義兵を起す所に、忽ちに三千の衆徒に向うて、不慮の合戦を致さんことを。いたましきかな医王山王に憚り奉つて、行程に遅留せしめば、朝廷緩怠の臣として、長く武略瑕瑾の謗りを遺さんことを。進退に惑つて、かねて案内を啓する所なり、冀はくは天台の衆徒、神のため、仏のため、国のため、君のため、源氏に同心して兇徒を誅し、鴻化に浴せんこと、懇丹の至りに堪へず。義仲恐惶謹言。寿永二年六月十日の日、源の義仲進上。恵光坊の律師の御坊へ。」とぞ書かれたる。

山門返牒の事

 山門の大衆この状を披見して、案の如く、或は平家に同心せんといふ衆徒もあり、或は源氏につかんといふ大衆もあり。思ひ思ひ、心々、異議まちまちなり。老僧どもの僉議しけるは、われら専ら金輪聖主、天地長久と祈り奉る。中にも平家は当代の御外戚、山門において殊に帰敬を致す。然りといへども悪行法に過ぎて、万人これをそむき、国々へ討手を遣はすと雖も、却つて異賊の為に亡ぼさる。源氏は近年よりこのかた、度々の軍にうち勝つて、運命既に開けんとす。何ぞ当山ひとり、宿運尽きぬる平家に同心して、運命開くる源氏に背かんや。すべからく平氏値遇の義を翻して、源氏合力の旨に任ずべき由、三千一同に僉議して、返牒をこそ送りけれ。木曽殿また家の子郎等どもを召集めて、覚明にこの返牒を開かせらる。
 「六月十日の日の牒状、同じき十六日到来、披閲の所、数日の鬱念、一時に解散す。およそ平家の悪逆、累年に及んで、朝廷の騒動やむ事なし。事、人口にあり、遺失するに能はず。それ叡岳に至つては、帝都東北の仁祠として、国家静謐の精祈を致す。然りといへども一天久しく、かの夭逆に侵されて、四海とこしなへにその安全を得ず。顕密の法輪なきが如し。擁護の神威しばしばすたる。こゝに貴家たまたま、累代武備の家に生れて、幸ひに当時精選の仁たり。あらかじめ奇謀を運らして義兵を起し、忽ちに万死の命を忘れて一戦の功を樹つ。その労いまだ両年を過ぎざるに、その名既に四海に流る。わが山の衆徒、かつ以て承悦す。国家の為、累家の為、武功を感じ、武略を感ず。かくの如くならば、山上の精祈空しからざる事を悦び、海内の衛護怠りなきことを知んぬ。自寺他寺、常住の仏法、本社末社、祭奠の神明、再び教法の栄えん事を喜び、崇敬のふるきに復せん事を随喜し給ふらん。衆徒等が心中、たゞ賢察を垂れよ。しかれば則ち冥には十二神将、忝く医王善逝の使者として、兇徒追討の勇士に相加はり、顕にはまた三千の衆徒、暫く修学讃仰の勤節を止めて、悪侶治罰の官軍を助けしめん。止観十乗の梵風は、奸侶を和朝の外に払ひ、瑜伽三密の法雨は、時俗を尭年の昔に回さん。衆徒僉議かくの如し。つらつらこれを察せよ。寿永二年七月二日の日、大衆等。」とぞ書いたりける。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「打たれぬ」。