一門の都落ちの事

 池の大納言頼盛の卿も池殿に火かけて出でられるたるが、鳥羽の南の門にて、忘れたる事ありとて、鎧につけたる赤印どもかなぐり捨てさせ、その勢三百余騎、都へ帰り上られけり。越中の次郎兵衛盛嗣、弓脇挟み、大臣殿の御前に馳せ参り、急ぎ馬より飛んで下り、畏まつて、「あれ御覧候へ。池殿御止まりに依つて、多くの侍ども止まり候が、奇怪に覚え候。池殿まではその恐れも候へば、侍どもに矢一つ射かけ候はばや。」と申しければ、大臣殿、「今これ程のありさまどもを、見はてぬ程の不当人は、さなくともありなん。」とのたまへば、力及ばで射ざりけり。「さて小松殿の公達はいかに。」と宣へば、「未だ御一所も見えさせ給ひ候はず。」と申す。大臣殿、「都を出でて今一日だに過ぎざるに、はや人々の心どもの変りゆくうたてさよ。」とぞのたまひける。新中納言知盛の卿、「行末とてもたのもしからず。たゞ都の内にていかにもならせ給へと、さしも申しつるものを。」とて、大臣殿の御方を、世にもうらめしげにぞ見給ひける。
 そもそも池殿の御止まりをいかにといふに、兵衛の佐頼朝、常は情をかけ奉つて、「全く御方をばおろそかに思ひ奉らず、ひとへに故池殿の御わたりとこそ存じ候へ。八幡大菩薩も御照罰候へ。」など、度々誓状を以て申されけり。平家追討の使の上るごとに、「相構へて池殿の侍に向つて弓引くな。」なんど、事にふれて芳心せられたりければ、一門の平家は運つきて都を落ちぬ。今は兵衛の佐にこそ助けられんずれとて、落ち止まられたりけるとぞ聞えし。
 八條の女院は、都をば軍に恐れさせ給ひて、仁和寺の常盤殿に忍うでましましける所へ参り篭られけり。この頼盛の卿と申すは、女院の御乳母宰相殿と申す女房に、相具せられたりけるに依つてなり。「自然の事も候はば、頼盛助けさせおはしませ。」と申されければ、女院、「今は世が世であらばこそ。」と、世にたのもしげもなうぞ仰せける。およそ兵衛の佐ばかりこそ芳心を存ずといへども、自余の源氏等はいかゞあらんずらん。なまじひに一門には引別れて落ち止まりぬ。波にも磯にもつかぬ心ちぞせられける。
 さる程に小松殿の公達兄弟六人、都合その勢一千余騎、淀の六田河原にて行幸に追ひつき奉らる。大臣殿なのめならずうれしげにて、「いかにや今までの遅参候。」とのたまへば、三位の中将、「幼き者どもがあまりに慕ひ候を、とかうこしらへ置かんと仕るほどに、存じの外の遅参候。」と申されければ、大臣殿、「など六代殿をば召し具せられ候はぬぞ。心強くも止め給ふものかな。」と宣へば、三位の中将、「行末とてもたのもしうも候はず。」とて、問ふにつらさの涙を流されけるこそ悲しけれ。
 落ちゆく平家は誰々ぞ。前の右大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理の大夫経盛、右衛門の督清宗、本三位の中将重衡、小松三位の中将維盛、同じき新三位の中将資盛、越前の三位通盛、殿上人には内蔵の頭信基、讃岐の中将時実、左中将清経、同じき少将有盛、丹後の侍従忠房、皇后宮の亮経正、左馬の頭行盛、薩摩の守忠度、武蔵の守知章、能登の守教経、備中の守師盛、尾張の守清定、淡路の守清房、若狭の守経俊、蔵人の大夫業盛、経盛の乙子大夫敦盛、兵部の少輔正明、僧には二位の僧都専親、法勝寺の執行能円、中納言の律師仲快、経誦坊の阿闍梨祐円、武士には受領、検非違使、衛府、諸司の尉百六十人、都合その勢七千余騎、これはこの三箇年が間、東国、北国、度々の軍に討ちもらされて、纔に残る所なり。
 平大納言時忠の卿、山崎関戸の院に玉の御輿をかきすゑさせ、男山の方伏し拝み、「南無帰命頂礼八幡大菩薩、願はくは君を始め参らせて、われらを今一度故郷へ帰し入れさせ給へ。」と祈られけるこそ悲しけれ。各後を顧み給へば、霞める雲の心ちして、煙のみ心細くぞ立ちのぼる。
 平中納言教盛、
  はかなしなぬしは雲井に隔つれば宿は煙とたちのぼるかな
修理の大夫経盛、
  ふるさとを焼野が原とかへりみて末もけぶりの波路をぞゆく
まことに故郷をば一片の煙塵に隔てつゝ、前途万里の雲路に赴かれけん心のうち、推し量られてあはれなり。
 肥後の守貞能は、川尻に源氏待つと聞いて、蹴散らさんとて、その勢五百余騎で発向したりけるが、ひが事なればとて取つて返して上る程に、宇土野の辺にて行幸に参りあひ、急ぎ馬より飛んで下り、大臣殿の御前に参り、畏まつて、「あな心憂や、こはいづちへとて渡らせ給ひ候やらん、西国へ下らせ給ひたらば、落人とて、あそここゝにて討ちもらされて、うき名を流させましまさんこと、口惜しう候べし。たゞ都の内にて、いかにもならせ給ふべうもや候らん。」と申しければ、大臣殿、「貞能は未だ知らぬか。木曽既に北国より五万余騎で攻め上り、比叡山、東坂本に充ち満ちたり。法皇も過ぎし夜半に失せたまひぬ。人々は都の中にて、いかにもならんと申し合はれけれども、まのあたり女院、二位殿に憂き目を見せ参らせんも、わが身ながら口惜しければ、せめて行幸許りをもなし奉り、各をも引具して西国の方へ落ち下り、ひとまづもと思ふぞかし。」と宣へば、「さ候はば、貞能は身の暇賜はつて、都の中にていかにもなり候はん。」とて、召し具したりける五百余騎の勢をば小松殿の公達につけ参らせ、手勢三十騎ばかり、都へ取つて返す。平家の余党の都に残り止まつたるを討たんとて、貞能が帰り入る由聞えしかば、池の大納言は頼盛が身の上でぞあらんずらんと、大きに恐れ騒がれけり。
 されども貞能は西八條の焼跡に大幕引かせ、一夜宿したりけれども、帰り入らせ給ふ平家の公達一人もおはせざりければ、さすが世のありさま心細くや思ひけん、源氏の駒の蹄にかけさせじとて、小松殿の御墓掘らせ、御骨に向ひ奉つて、泣く泣く申しけるは、「あなあさまし、御一門の御はて御覧候へ。生あるものは必ず滅す。楽しみ尽きて悲しみ来るといふ事をば、昔より書き置きたる事にて候へども、まのあたり斯かる憂き事候はず。君は斯かるべかりける事を、かねて覚らせ給ひて、仏神三宝に御祈誓あつて、御世を早うせさせましましける事こそ、ありがたう候へ。いかにもしてその時、貞能も後世の御供仕つるべう候ひしものを、かひなき命ながらへて、今日は斯かる憂き目にあひ候事こそ、口惜しう候へ。死期の時は、必ず一仏土へ迎へさせ給へ。」と泣く泣くはるかにかきくどき、骨をば高野へ送り、あたりの土をば賀茂川へ流させ、行末たのもしからずや思ひけん、主と後あはせに東国の方へぞ落ちゆきける。貞能は先年宇都宮を申し預つて、その時情ありしかば、今度もまた宇都宮を頼うで下りたりければ、そのよしみにや芳心しけるとぞ聞えし。
 平家は小松の三位中将維盛の卿の外は、大臣殿以下、妻子を具せられけれども、次ざまの人々はさのみ引きしらふにも及ばねば、後会その期を知らず、皆うち棄ててぞ落ち行きける。人はいづれの日、いづれの時、必ず立帰るべしと、その期を定め置くだにも、別れは悲しきならひぞかし。況んやこれは今日を最後、只今限りの事なれば、行くも止まるも互に袖をぞしぼりける。相伝譜代のよしみ、年来日頃の重恩、いかでか忘るべきなれば、老いたるも若きも、みな跡をのみ顧みて、先へは進みもやらざりけり。或は磯べの浪枕、八重の潮路に日を暮し、或は遠きをわけ、けはしきを凌いで、駒に鞭つ人もあり、船に棹さす者もあり、思ひ思ひ心々にぞ落ちゆきける。

福原落ちの事

 平家は福原の旧里に著いて、大臣殿、しかるべき侍、老少数百人召して、のたまひけるは、「積善の余慶家に尽き、積悪の余殃身に及ぶが故に、神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ参らせて、帝都を出でて旅泊に漂ふ上は、何のたのみかあるべきなれども、一樹の陰に宿るも前世の契り浅からず。同じ流れを掬ぶも、他生の縁なほ深し。況んや汝等は一旦従ひつく門客にあらず、累祖相伝の家人なり。或は近親の好み他に異なるものあり。或は重代芳恩これ深きもあり。家門繁昌の古は、その恩波に依つて私を顧みき、何ぞ今その芳恩は報はざらんや。然れば十善帝王、三種の神器を帯して渡らせ給へば、いかならん、野の末、山の奥までも、行幸の御供申して、いかにもなりなんとは思はずや。」と宣へば、老少みな涙をおさへて、「あやしの鳥獣も恩を報じ、徳を報ふ心は候なり。況んや人倫の身としていかでかその理を存じ仕らでは候べき。就中弓箭馬上にたずさはるならひ、二心あるを以て恥とす。その上この二十余年が間、妻子をはぐゝみ、所従を顧み候事も、併しながら君の御恩ならずといふことなし。しかれば日本の外、新羅、百済、高麗、契丹、雲のはて、海のはてまでも行幸の御供仕り、いかにもなり候はん。」と、異口同音に申したりければ、人々みなたのもしげにぞ見給ひける。
 さる程に平家は福原の旧里にして、一夜をぞあかされける。折ふし秋の月は下の弦なり。深更空夜閑にして、旅寝の床の草枕、露も涙も争ひて、唯もののみぞ悲しき。いつ帰るべしとも覚えねば、故入道相国の造り置き給へる、福原の所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿、松陰殿、馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館ども、五條の大納言国綱の卿の承つて造進せられし里内裏、鴛鴦の瓦、玉の甃、いづれもいづれも、三年が程に荒れはて、旧苔道を塞ぎ、秋の草門を閉づ。瓦に松生ひ、垣に蔦茂れり。台傾いて苔むせり、松風のみや通ふらん。簾たえ閨あらはなり、月影のみぞさし入りける。
 あけぬれば福原の内裏に火をかけて、主上を始め参らせて、人々みな御船に召す。都を出でし程こそはなけれども、これも名残は惜しかりけり。海士の焼く藻の夕煙、尾上の鹿の暁の声、渚々に寄する波の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀のきりぎりす、すべて目に見、耳に触るゝ事の、一つとして哀れを催し、心を傷ましめずといふ事なし。昨日は東関のふもとに轡を並べて十万余騎、今日は西海の波の上に纜をといて七千余人、雲海沈々として、青天既に暮れなんとす。孤島に夕霧隔てて、月海上に泛べり。極浦の波をわけ、塩に引かれて行く船は、半天の雲に遡る。日数ふれば、都は山川ほどを隔てて雲居のよそにぞなりにける。はるばる来ぬと思へども、たゞ尽きせぬものは涙なり。波の上に白き鳥のむれゐるを見給ひては、あれならん在原の某の、隅田川にてこととひけん、名もむつまじき都鳥かなとあはれなり。寿永二年七月二十五日に平家都を落ちはてぬ。

前頁  目次  次頁