征夷将軍の院宣の事

 さる程に鎌倉の前の右兵衛の佐頼朝、武勇の名誉長じ給へるに依つて、ゐながら征夷将軍の院宣を下さる。御使は左史生中原の康定とぞ聞えし。十月四日の日関東へ下著。兵衛の佐殿のたまひけるは、「そもそも頼朝武勇の名誉長ぜるに依つて、ゐながら征夷大将軍の院宣を蒙る。されば私にてはいかでか請取り奉るべき。若宮の拝殿にして請取り奉るべし。」とて、若宮へこそ参り向はれけれ。
 八幡は鶴が岡に立たせ給ふ。地形石清水に違はず。廻廊あり、楼門あり、作道十余町を見下したり。そもそも院宣をば、誰してか請取り奉るべきと評定あり。三浦の介義澄して請取り奉るべし。その故は八箇国に聞えたる弓矢取り三浦の平太郎為継が末葉なり。父大介も君の為に命を棄てし兵なれば、かの義明が黄泉の冥闇を照さんがためとぞ聞えし。院宣の御使康定は家の子二人、郎等十人具したり。三浦の介も家の子二人、郎等十人具したりけり。二人の家の子は和田の三郎宗実、比企の藤四郎能員なり。郎等十人をば、大名十人にして一人づゝ、俄に仕立てられたり。三浦の介その日は褐衣の直垂に黒糸縅の鎧著て、黒漆の太刀をはき、二十四さいたる切斑の矢おひ、滋籐の弓脇に挟み、兜をばぬいで高紐にかけ、腰を屈めて院宣を請取り奉らんとす。
 左史生申しけるは、「たゞ今院宣請取り奉らんとするは誰人ぞ、名乗り給へ。」といひければ、兵衛の佐の字にや恐れけん、三浦の介とは名乗らずして、本名三浦の荒次郎義澄とこそ名乗つたれ。院宣をば蘭箱に入れられたり。兵衛の佐殿に奉る。やゝあつて蘭箱をば返されけり。重かりければ、康定これを開きて見るに、砂金百両入れられたり。若宮の拝殿にして康定に酒を勧めらる。齋院の次官陪膳す。五位一人役送をつとむ。馬三匹引かる。一匹に鞍置いたり。宮の侍狩野の工藤一郎祐経これを引く。ふるき萱屋をしつらひて康定を入れらる。厚綿の衣二領、小袖十かさね、長持に入れてまうけたり。紺藍摺、白布千端を積めり。杯盤ゆたかにして美麗なり。
 次の日兵衛の佐の館に向ふ。内外に侍あり。共に十六間までありけり。外侍には家の子、郎等肩を双べ、膝を組んでなみゐたり。内侍には一門の源氏上座して、末座には八箇国の大名、小名居ながれたり。源氏の上座には康定をすゑらる。やゝあつて寝殿にむかふ。高麗縁の畳を敷き、広廂には、紫縁の畳を敷きて康定をすゑらる。御簾高く捲き上げさせて、兵衛の佐殿出でられたり。その日は布衣に立烏帽子なり。顔大きにして、背低かりけり。容貌優美にして言語分明なり。
 まづ仔細を一事述べたり。「そもそも平家、頼朝が威勢に恐れて都を落つ。その跡に木曽義仲、十郎蔵人行家が打入つて、わが高名顔に官位階を思ふさまに仕り、あまつさへ国を嫌ひ申す條奇怪なり。また奥の秀衡が陸奥の守になり、佐竹の冠者が常陸の守になつて、これも頼朝の下知に従はず。かれらをも急ぎ追討すべき由の院宣、賜はるべき由。」を申さる。康定、「やがてこれにて名簿をも参らせたうは候へども、当時は御使の身で候へば、まかり上つて、やがて認めてこそまゐらせめ。弟で候史の大夫重能もこの儀を申し候。」と申しければ、兵衛の佐殿あざ笑つて、「当時頼朝が身として、各の名簿思ひもよらず。さりながらも致されば、さこそ存ぜめ。」とぞ宣ひける。
 康定やがて今日上洛の由を申す。今日ばかりは逗留あるべしとて、留めらる。次の日また兵衛の佐の館へ向ふ。萌黄糸縅の腹巻一領、白う作つたる太刀一振、滋籐の弓に野矢添へて賜ぶ。馬十三匹引かる。三匹に鞍置いたり。十二人の家の子郎等共にも直垂、小袖、大口、馬、物具に及べり。馬だにも三百匹までありけり。鎌倉出の宿よりも、近江の国鏡の宿に至るまで、宿々に十石づゝの米を置かれたりければ、沢山なるによつて、施行に引きけるとぞ聞えし。

猫間の事

 康定都へ上り、院参して、御坪の内に畏まつて、関東の様をつぶさに奏聞申したりければ、法皇大きに御感ありけり。公卿も殿上人も、ゑつぼに入らせおはしまし、いかなれば兵衛の佐は、かうこそゆゝしうおはせしか。当時、都の守護して候はれける木曽義仲は、似も似ず悪しかりけり。色白う、みめはよい男にてありけれども、起居のふるまひの無骨さ、もの云ひたることばつゞきの頑なることかぎりなし。ことわりかな、二歳より三十にあまるまで、信濃の国木曽といふ片山里に住み馴れておはしければ、なじかはよかるべき。
 その頃猫間の中納言光隆の卿といふ人ありけり。木曽にのたまひ合はすべき事あつておはしたりけるを、郎等共、「猫間殿の入らせ給ひて候。」といひければ、木曽大きに笑うて、「猫は人に対面するか。」とぞいひける。「これは猫間の中納言殿とて、公卿にて渡らせ給ひ候。」といひければ、さらばとて対面す。木曽、猫間殿とはえいはで、「猫殿の食時にまればれわいたに、物よそへ{*1}。」とぞいひける。中納言、「いかでかたゞ今さる事のおはすべき。」とのたまへども、木曽何をも新しき物をば無塩といふぞと心得て、「無塩の平茸こゝにあり、とうとう。」といそがす。
 根井の小弥太陪膳す。田舎合子の極めて大きに、凹かりけるに、飯うづたかうよそひ、御菜三種して、平茸の汁にて参らせたり。木曽が前にも同じ体にて据ゑたりけり。木曽箸取りて食す。中納言はあまりに合子のいぶせさに召さざりければ、木曽、「きたなうな思ひ給ひそ。それは義仲が精進合子で候ぞ。とうとう。」とすゝむる間、中納言殿、召さでもさすが悪しかりなんとや思はれけん、箸取りて召すよしして、差置かれたりければ、木曽大きに笑つて、「猫殿は小食にておはすよ。聞ゆる猫おろしし給ひたり。かいたまへかいたまへや。」とぞ責めたりける。中納言殿はかやうの事に、よろづ興さめて、宣ひ合はすべき事ども、一言葉もいひ出さず、急ぎ帰られけり。
 その後義仲院参しけるが、官加階したる者の、直垂にて出仕せん事、あるべうもなしとて、俄に布衣となり、装束、冠りぎは、袖のかゝり、指貫の輪に至るまで、頑なる事かぎりなし。鎧取つて著、矢かき負ひ、弓おし張り、兜の緒をしめ、馬に打乗つたるには、似も似ずあしかりけり。されども車にゆがみ乗んぬ。牛飼は八島の大臣殿の牛飼なり。牛車もそれなりけり。逸物なる牛のすゑ飼うたるを、門出づるとて、一楉あてたらうに、なじかはよかるべき、牛は飛んで出づれば、木曽は車の中にて仰向に倒れぬ。蝶の羽を広げたるやうに、左右の袖を広げ、手をあがいて、起きん起きんとしけれども、なじかは起きらるべき。木曽、牛飼とはえいはで、「やれ小牛健児よ、やれ小牛健児よ。」といひければ、車をやれといふぞと心得て、五六町こそあがかせけれ。
 今井の四郎鞭鐙をあはせて追ひつき、「何とて御車をば斯様には仕るぞ。」といひければ、「あまりに御牛の鼻が強う候うて。」とぞ述べたりける。牛飼、木曽に中直りせんとや思ひけん、「それに候手形と申すものに、取りつかせ給へ。」といひければ、木曽手形にむずと掴みついて、「あつぱれ支度や、牛健児が計らひか、殿の様か。」とぞ問ひたりける。
 さて院の御所へ参り、門前にて車かけはづさせ、後より下りんとしたりければ、京の者の雑色に召使はれけるが、「車には召され候ときこそ、後よりは召され候へ。下りさせ給ふ時は、前よりこそ下りさせ給ふべけれ。」といひければ、木曽、「いかでか車ならんからに、なでふすどほりをばすべき。」とて、遂に後よりぞ下りてける。その外をかしき事ども多かりけれども、恐れてこれを申さず。牛飼は遂に斬られにけり。

水島合戦の事

 さる程に平家は讃岐の八島にありながら、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国をぞ討ち取りける。木曽やすからぬ事なりとて、やがて討手を向けらる。大将軍には陸奥の新判官義康が子矢田の判官代義清、侍大将には信濃の国の住人海野の弥平四郎行広を先として、都合その勢七千余騎、山陽道へ発向す。備中の国水島の渡に船を浮べて、八島へ既に寄せんとす。閏十月一日の日、水島が渡に小船一艘出で来たり。海士船、釣船かと見る所に、さはなくして平家の方より牒の使の船なりけり。源氏の方の兵共これを見て、干しあげたりける五百余艘の船どもを、みなわれ先にわれ先にとぞ下しける。
 平家は千余艘でぞ寄せたりける。大将軍には新中納言知盛の卿、副将軍には能登の守教経なりけり。能登殿大音声を上げて、「いかに四国の者ども、北国のやつばらに生捕にせられんをば、心憂しとは思はずや。御方の船をぞ組めや。」とて、千余艘の纜、舳綱を組み合はせ、中にもやひを入れ、歩みの板を引き渡し引き渡し渡いたれば、船の中は平々たり。鬨つくり、矢合はせして、遠きをば射て落し、近きをば太刀で斬る。或は熊手にかけて引落さるゝ者もあり。或は引組み、さし違へて海へ飛び入る者もあり。いづれ隙ありとも見えざりけり。
 源氏の方の侍大将海野の弥平四郎行広討たれぬ。これを見て矢田の判官代義清、やすからぬことなりとて、主従七人小船に乗り、まつさきに進んで戦ひけるが、船踏み沈めてうせにけり。平家は船に馬を立てたりければ、船ども乗り傾け乗り傾け、馬ども追ひ下し追ひ下し、船に引きつけ引きつけ泳がす。馬の足立、鞍つめ干たる程にもなりしかば、ひたひたとうち乗つて能登殿五百余騎、をめいて先をかけ給へば、源氏の方には大将軍は討たれぬ。われ先にとぞ落ち行きける。平家は今度水島の軍に勝つてこそ、会稽の恥をば雪めけれ。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「食事時に参られたのに、饗応の用意せよの意か」とある。