瀬尾最後の事
木曽の左馬の頭この由を聞きて、やすからぬ事なりとて、その勢一万余騎で備中の国へ馳せ下る。こゝに平家の御方に候ひける、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康は、聞ゆる兵にてありけれども、去んぬる五月北国の戦ひの時、運や尽きにけん、加賀の国の住人倉光の次郎成澄が手にかゝつて、生捕にこそせられけれ{*1}。その時既に斬らるべかりしを、木曽殿、あつたら男をさうなう斬るべきにあらずとて、弟三郎成氏に預けられてぞ候ひける。人あひ心ざま、まことに優なりければ、倉光も懇にもてなしけり。蘇子卿が胡国に囚はれ、李少卿が漢朝へ帰らざりしが如し。遠く異国につける事も、昔の人の悲しめりしが所なりといへり。韋の韝、毳の幕、以て風雨を防ぎ、羶き肉、酪の漿、以て飢渇に充つ。夜は寝ぬる事なく、昼はひねもすに仕へて、木を伐り、草を刈らずといふ許りに従ひつゝ、いかにもして敵を窺ひ討つて、今一度旧主を見ばやと思ひ立ちける、兼康が心の中こそ恐ろしけれ。
ある時瀬尾の太郎、倉光の三郎にいひけるは、「去んぬる五月よりかひなき命を助けられ参らせて候へば、誰を誰とか思ひまゐらせ候べき。今度御合戦候はば、命をばまづ木曽殿に奉らん。それにつき候ひては、先年兼康が知行し候ひし備中の瀬尾といふ所は、馬の草飼よき所にて候。御辺申して賜はらせ候へ、案内者せん。」といひければ、倉光の三郎、木曽殿にこの由を申す。木曽殿、「さては不便の事をも申す。ござんなれ、まことには汝下つて、馬の草などをも構へさせよ。」とぞのたまひける。
倉光の三郎畏まり承つて、手勢三十騎許り、瀬尾の太郎を相具して、備中の国へ馳せ下る。瀬尾が嫡子小太郎宗康は平家の御方に候ひけるが、父が木曽殿より暇賜はつて下ると聞いて、年頃の郎等ども催し集めて、その勢百騎許りで、父が迎ひに上りけるが、播磨の国府で行き逢うたり。それよりうちつれて下る程に、備前の国三石の宿に止まつたりける夜、瀬尾が相知つたる者共、酒を持たせ来り集まり、夜もすがら酒もりしけるが、倉光が勢三十騎許りを強ひ臥せて、起しも立てず、倉光の三郎を始めとして、一々みな刺し殺してける。備前の国は十郎蔵人の国なりけり。その代官の国府にありけるをも、やがておし寄せて討つてけり。
瀬尾の太郎申しけるは、「兼康こそ木曽殿より暇賜はつて、これまでまかり下つたれ。平家に御志思ひ参らせん人々は、今度木曽殿の下り給ふに、矢一つ射かけ奉れや。」と披露したりければ、備前、備中、備後、三箇国の兵ども、瀬尾に催されて、或は柿の直垂につめ紐し、或は布の小袖に東折し、破れ腹巻綴り著、山靭、竹箙に矢少々さし、かき負ひかき負ひ、都合その勢二千余人、瀬尾が館へ馳せ集まる。備前の国福隆寺縄手、笹のせまりを城郭に構へて口二丈、深さ二丈に堀を掘り、掻楯かき、高櫓し、逆木引きて待ちかけたり。
十郎蔵人の代官、瀬尾に討たれて、その下人の逃げて京へ上るが、播磨と備前の境なる船坂山にて、木曽殿に行きあひ奉り、この由かくと申しければ、木曽殿、「にくからん瀬尾めを斬つて捨つべかりつるものを、手延にしてたばかられぬる事こそやすからね。」と後悔せられければ、今井の四郎が申しけるは、「きやつが面魂、たゞ者とは見え候はず。千度斬らんと申し候ひしも、こゝ候ぞかし。さりながら何程の事か候べき。兼平まづまかり向つて見候はん。」とて、その勢三千余騎で備前の国へ馳せ下る。
備前の国福隆寺縄手は、はたばり弓杖一杖ばかりにて、遠さは西国道の一里なり。左右は深田にて馬の足も及ばねば、三千余騎が心は前に進めども、力及ばず、馬次第にぞ歩ませける。今井の四郎押寄せて見ければ、瀬尾の太郎は急ぎ高櫓に走り上り、大音声をあげて、「去んぬる五月より、かひなき命を助けられ参らせて候、各の芳志には、これをこそ用意仕つて候へ。」とて、二十四さいたる矢を、さしつめひきつめ、さんざんに射る。今井の四郎、宮崎三郎、海野、望月、諏訪、藤沢などいふ一人当千の兵ども、これを事ともせず、兜の錏を傾け、射殺さるゝ人馬をば、取入れ引入れ、堀を埋め、或は左右の深田にうち入れて、馬の草わき鞅つくし、太腹に立つ所をも事ともせず、簇めかいておし寄せ或は谷ふけをも嫌はず、駆け入り駆け入り、をめき叫んで攻め入りければ、瀬尾が方の兵ども、助かる者は少なく、討たるゝ者ぞ多かりける。
夜に入つて、瀬尾が頼みきつたる笹のせまりの城郭を破られて、叶はじとや思ひけん、引退く。備中の国板倉川の端に、掻楯かいて待ちかけたり。今井四郎やがてつゞいて攻めければ、瀬尾が方の兵ども、山靭、竹箙に矢種のあるほどこそ防ぎけれ、矢種みな尽きければ、力及ばず、われ先にとぞ落ち行きける。瀬尾の太郎たゞ主従三騎にうちなされ、板倉川の端に著いて、緑山の方へ落ちぞゆく。
去んぬる五月、北国にて瀬尾を生捕にしたりける倉光の次郎成澄は、弟の三郎成氏を討たせて、やすからずや思ひけん、今度もまた瀬尾めにおいては生捕にせんとて、たゞ一騎群に抜けて追つて行く。あはひ一町ばかりに追つつき、「あれはいかに瀬尾とこそ見れ。まさなうも敵に後を見するものかな。返せや返せ。」と詞をかけければ、瀬尾の太郎は板倉川を西へ渡すが、川中に控へて待ちかけたり。倉光の次郎、鞭鐙をあはせて追つつき、おしならべてむずと組んで、どうと落つ。互に劣らぬ大力ではあり、上になり、下になり、転びあひけるが、河岸に淵のありけるに転び入りぬ。倉光は無水練、瀬尾は屈竟の水練にてありければ、水の底にて倉光が腰の刀をぬき、鐙の草摺引上げて、柄も拳も通れ通れと、三刀さいて首を取る。
瀬尾の太郎わが馬をば乗り損じたりければ、倉光が馬にうち乗つて落ちて行く。嫡子小太郎宗康は年は二十になりけれども、あまりに太つて、一町ともえ走らず{*2}。これを見捨てて、瀬尾は二十余町ぞ延びたりける。瀬尾の太郎郎党にいひけるは、「日頃は千万の敵に逢うて軍するには、四方晴れて覚ゆるが、今日は小太郎宗康を棄てて行けばにやあらん、一向先が闇うて見えぬなり。今度の軍に命生きて、二度平家の御方へ参りたりとも、兼康は六十にあまつて、いくほど生かうと思うて、たゞ一人ある子を棄てて、これまで遁れ参りたるらんなど、同隷どもにいはれん事こそ口惜しけれ。」といひければ、郎党、「さ候へばこそたゞ御一所で、いかにもならせ給へと申しつるは、こゝ候ぞかし。返させたまへ。」とて、また取つて返す。
案の如くに小太郎宗康は、足かんばかりに腫れて、伏せりたる所へ、瀬尾の太郎取つて返し、急ぎ馬より飛んで下り、小太郎が手を取つて、「汝と一所でいかにもならんと思ふ為に、これまで帰りたるはいかに。」といひければ、小太郎を涙をはらはらと流いて、「たとひこの身こそ不器量に候へば、こゝにて自害を仕り候とも、われ故命をさへ失ひまゐらせん事、五逆罪にや候ばんずらん。たゞとうとう延びさせ給へ。」といひけれども、思ひ切つてん上はとて、休みゐたりける所に、また新手の源氏五十騎許り出で来る。瀬尾の太郎、射残したる八筋の矢を、さしつめ引きつめ、さんざんに射る。生死は知らず、矢庭に敵八騎射落し、その後太刀を抜いて、まづ小太郎が首ふつと打落し、敵の中へかけ入り、豎ざま横ざま、蜘蛛手、十文字に駆けまはり、さんざんに戦ひ、敵あまた討ち取つて、そこにて討死してけり。郎等も主にちつとも劣らず戦ひけるが、痛手負うて生捕にこそせられけれ。中一日あつてやがて死ににけり。彼ら主従三人が首をば、備中の国鷺が森にぞかけたりける。木曽殿、「あはれ剛の者や、これらが命を助けて見て{*3}。」とぞ宣ひける。
室山合戦の事
さる程に木曽は備中の国万寿の荘にて勢揃へして、八島へ既に寄せんとす。その間、都の留守に置かれたりける樋口の次郎兼光、西国へ使者を奉つて、「殿の渡らせ給はぬ間に、十郎蔵人殿こそ院の切人して、様々に讒奏せられ候なれ。西国の軍をば暫くさし置かせ給ひて、急ぎ上らせ給へ。」といひければ、木曽さらばとて夜を日についで馳せ上る。十郎蔵人行家は、木曽に中違うて悪しかりなんとや思はれけん、その勢五万余騎で丹後路にかゝつて播磨の国へ落ち下る。木曽は摂津の国を経て都へ入る。
平家は木曽討たんとて、大将軍には新中納言知盛の卿、本三位の中将重衡の卿、侍大将には越中の次郎兵衛盛嗣、上総の五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、伊賀の平内左衛門家長を先として、都合その勢二万余騎、播磨の国におし渡り、室山に陣をぞ取つたりける。
十郎蔵人行家は平家と軍して、木曽に中直りせんとや思ひけん、その勢五百余騎、室山へこそかけられけれ。平家は陣を五つに張る。まづ伊賀の平内左衛門家長、二千余騎で一陣を固む。越中の次郎兵衛盛嗣、二千余騎で二陣を固む。上総の五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、三千余騎で三陣を固む。本三位の中将重衡の卿、三千余騎で四陣を固め給ふ。新中納言知盛の卿、一万余騎で五陣に控へたまへり。まづ一陣伊賀の平内左衛門家長、暫くあひしらふ体にもてなして、中をあけてぞ通しける。二陣越中の次郎兵衛、これもあけてぞ通しける。三陣上総の五郎兵衛、悪七兵衛、共にあけてぞ通しける。四陣本三位の中将重衡の卿も、同じうあけてぞ入れられける。先陣より五陣まで、かねて約束したりければ、源氏を中に取り篭めて、われ討ち取らんとぞ進みける。
十郎蔵人行家、こはたばかられにけりとや思はれけん、面をふらず、命も惜しまず、ここを最後と攻め戦ふ。新中納言の宗と頼まれたりける紀七衛門、紀八衛門、紀九郎などいふ一人当千の兵ども、皆そこにて十郎蔵人にうち取られぬ。かくして五百余騎の勢ども、わづか三十騎ばかりにうちなされ、雲霞の如くなる敵の中を割つて出づれども、わが身は手も負はず、二十七騎大略手負ひ、播磨の国高砂より船に乗つて、和泉の国吹飯の浦へおし渡り、それより河内の国長野の城にたて篭る。平家は室山、水島、二箇度の軍に勝つてこそ、いよいよ勢はつきにけれ。
鼓判官の事
およそ京中には源氏の勢みちみちて、在々所々に入り取り多し。賀茂、八幡の御領ともいはず、青田を刈りて秣にし、人の蔵をうちあけて物を取り、路次に持つて逢ふ物を奪ひ取る{*4}。平家の都におはせし程は、六波羅殿とて、たゞ大方おそろしかりしばかりなり。衣裳を剥ぎ取るまではなかりしものを、平家に源氏かへ劣りしたりとぞ人申しける。
法皇より木曽の左馬の頭のもとへ、「狼藉しづめよ。」と仰せ下さる。御使は壱岐の守朝親が子に壱岐の判官朝泰といふ者なり。天下に聞えたる鼓の上手にてありければ、時の人鼓判官とぞ申しける。木曽対面して、まづ院の御返事をば申さで、「そもそもわ殿を鼓判官といふは、よろづの人に打たれたうたか、張られたうたか。」とぞ問うたりける。朝泰返事に及ばず、急ぎ還り参つて、「義仲をこの者にて候。早く追討せさせ給へ。只今朝敵となり候ひなんず。」と申しければ、法皇やがておぼし召し立たせ給ひけり。さらば然るべき武士にも仰せつけられずして、山の座主、寺の長吏に仰せられて、山、三井寺の悪僧どもをぞ召されける。公卿殿上人の召されける勢といふは、向ひつぶて、印地、いひがひなき辻冠者ばら、さては乞食法師ばらなり。また信濃源氏村上の三郎判官代、これも木曽背いて法皇へぞ参りける。
木曽の左馬の頭、院の御気色あしうなると聞えしかば、始めは木曽に従うたる五畿内の者共、皆木曽を背いて院方へ参る。今井の四郎申しけるは、「之こそ以ての外の御大事にて候へ。さればとて十善の君に向ひ参らせて、いかで御合戦候べき。只兜をぬぎ、弓の弦をはづいて、降人に参らせ給ふべうもや候らん。」と申しければ、木曽大きに怒つて、「われ信濃を出でしより、小見、合田の合戦より始めて、北国にては砺並、黒坂、篠原、西国にては福隆寺縄手、笹のせまり、板倉が城を攻めしかども、一度も敵に後を見せず。たとひ{*5}十善の君にて渡らせ給ふとも、兜をぬぎ、弓の弦をはづして、降人にはえこそ参るまじけれ。」
校訂者注
1・2:底本、ここは読点。
3:底本頭注に、「是等の命を助けて見たい、そして自分の味方として働かしたい」とある。
4:『平家物語評釈(1963年刊。本文は岩波文庫版による)』には、「持つて通る物を奪ひ取り、衣裳を剥ぎ取る。」とある。
5:底本は、「縦令(たとひ)」。
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