継信最後の事

 中にも後藤兵衛実基は古兵にてありければ、磯の軍をばせず、まづ内裏へ乱れ入り、手ん手に火を放つて、片時の煙と焼き払ふ。大臣殿侍どもに、「源氏が勢はいか程あるぞ。」と問ひ給へば、「七八十騎にはよも過ぎ候はじ。」「あな心うや、髪の筋を一筋づゝ分けて取るとも、この勢には足るまじかりつるものを、中にも取りこめて討たずして、あわてて船に乗りて、内裏を焼かせぬる事こそ口惜しけれ。能登殿はおはせぬか、陸に上つて一軍し給へかし。」とのたまへば、「承り候。」とて、越中の次郎兵衛盛続を先として都合五百余人、小船に乗り、焼き払つたる総門の前の汀におし寄せて陣を取る。判官も八十余騎、矢頃に寄せて控へたり。
 平家の方より越中の次郎兵衛、船の屋形に進み出で、大音声をあげて、「そもそも以前名乗りたまひつるとは聞きつれども、海上遥かに隔つて、その仮名実名分明ならず。今日の源氏の大将軍は誰人にてましますぞ。名乗りたまへ。」といひければ、伊勢の三郎進み出でて、「あな事もおろかや、清和天皇に十代の後胤、鎌倉殿の御弟大夫の判官殿ぞかし。」盛続聞いて、「さる事あり。去んぬる平治の合戦に、父討たれて孤にてありしが、鞍馬のちごして、後には金商人の所従となり、粮料背負うて、奥の方へ落ち下りしその小冠者めが事か。」とぞいひける。義盛歩ませ寄つて、「舌のやはらかなるまゝに、君の御事な申しそ。さいふわ人どもこそ、北国砥並山の軍にうち負け、辛き命生きつゝ、北陸道にさまよひ、乞食して上つたりしその人か。」とぞいひける。
 盛続かさねて、「君の御恩に飽き満ちて、何の不足あつてか乞食をばすべき。さいふわ人どもこそ、伊勢の国鈴鹿山にて山だちし、妻子をもはぐゝみ、わが身も所従も過ぎけるとは聞きしか。」といひければ、金子の十郎進み出でて、「せんない殿ばらが雑言かな。われも人もそらごといひかけ、雑言せんに、誰かは劣るべき。去年の春、摂津の国一の谷にて、武蔵、相模の若殿ばらの手なみの程をば見てんものを。」といふ所に、弟の与一、側にありけるが、いはせもはてず、十二束三ぶせ取つてつがひ、よつぴいて、ひようと放つ。次郎兵衛が鎧の胸板に、裏かく程にぞ立つたりける。さてこそ互のことば戦はやみにけれ。能登殿、船軍は様あるものぞとて、鎧直垂をば著給はず、唐巻染の小袖に唐綾縅の鎧著て、いかものづくりの太刀を佩き、二十四さいたるたかうすべうの矢負ひ、滋籐の弓を持ち給へり。王城一の強弓精兵なりければ、能登殿の矢先にまはるもの、一人も射落されずといふ事なし。
 中にも源氏の大将軍九郎義経を、唯一矢に射落さんとねらはれけれども、源氏の方にも心得て、伊勢の三郎義盛、奥州の佐藤三郎兵衛継信、同じき四郎兵衛忠信、江田の源三、熊井の太郎、武蔵坊弁慶などいふ一人当千の兵ども、馬の頭を一面に立て並べて、大将軍の矢面に馳せ塞がりければ、能登殿も力及び給はず。能登殿、「そこのき候へ、矢面の雑人ばら。」とて、さしつめ引きつめ、さんざんに射給へば、矢庭に鎧武者十騎許り射落さる。中にもまつ先に進んだる奥州の佐藤三郎兵衛継信は、弓手の肩より馬手の脇へ、つと射抜かれて、しばしもたまらず、馬より倒にどうと落つ。
 能登殿の童に菊王丸といふ大力の剛の者、萌黄縅の腹巻に三枚兜の緒をしめ、打物の鞘をはづいて、継信が首を取らんと飛んでかゝるを、忠信側にありけるが、兄が首を取らせじと、よつぴいて、ひようと放つ。菊王丸が草摺のはづれを、あなたへつと射貫かれて、犬居に倒れぬ。能登殿これを見給ひて、左の手には弓を持ちながら、右の手にて菊王丸をつかんで、船へからりと投げ入れ給ふ。敵に首は取られねども、痛手なれば死ににけり。この童と申すは、もとは越前の三位通盛の卿の童なり。然るを三位討たれ給ひて後、弟能登殿にぞ使はれける。生年十八歳とぞ聞えし。能登殿この童を討たせて、あまりにあはれに思はれければ、その後は軍もし給はず。
 判官は継信を陣の後へかき入れさせ、急ぎ馬より飛んで下り、手を取つて、「いかゞ覚ゆる三郎兵衛。」とのたまへば、「今はかうにこそ候へ。」「この世に思ひ置く事はなきか。」とのたまへば、「別に何事をか思ひ置き候べき。さは候へども、君の御世に渡らせ給ふを見参らせずして、死に候こそ心にかゝり候へ。さ候はでは、弓矢取は敵の矢に当つて死ぬる事、もとより期する所でこそ候へ。なかんづく源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛継信といひけん者、讃岐の国八島の磯にて、主の御命に代つて討たれたりなど、末代までの物語に申されんこそ、今生の面目、冥途の思出にて候へ。」とて、たゞ弱りにぞ弱りける。
 判官は猛き武士なれども、あまりにあはれに思ひ給ひて、鎧の袖を顔におし当てて、さめざめとぞ泣かれける。もしこの辺に尊き僧やあるとて、尋ね出させ、「手負のたゞ今死に候に、一日経書いて弔ひたまへ。」とて、黒き馬の太うたくましきに、よい鞍置いて、かの僧にぞたびにける。この馬は、判官五位の尉になられし時、これをも五位になして、大夫黒と呼ばれし馬なり。一の谷の後鵯越をも、この馬にてぞ落されける。弟忠信を始めとして、これを見る侍ども、みな涙を流して、この君の御為に命を失はん事は、全く露塵ほども惜しからずとぞ申しける。

那須の与一の事

 さる程に阿波、讃岐に、平家を背いて源氏を待ちける兵ども、あそこの嶺、こゝの洞より十四五騎、二十騎、うちつれうちつれ、馳せ来る程に、判官程なく三百余騎になり給ひぬ。今日は日暮れぬ。勝負を決すべからずとて、源平互に引退くところに、沖より尋常に飾つたる小船一艘、汀へ向つて漕ぎ寄せ、渚より七八段ばかりになりしかば、船を横ざまになす。あれはいかにと見るところに、船の中より年の齢十八九ばかりなる女房の、柳の五衣に紅の袴著たるが、皆紅の扇の日出したるを、船のせがひに挟み立て、陸へ向つてぞ招きける。
 判官、後藤兵衛実基を召して、「あれはいかに。」とのたまへば、「射よとにこそ候らめ。但し大将軍の矢面に進んで、傾城を御覧ぜられんところを、手垂にねらうて射落せとの謀とこそ存じ候へ。さりながら扇をば射させらるべうもや候らん。」と申しければ、判官、「御方に射つべき仁は誰かある。」と問ひたまへば、「手垂ども多う候中に、下野の国の住人那須の太郎資高が子に与一宗高こそ、小兵では候へども手はきいて候。」と申す。判官、「証拠があるか。」「さん候。かけ鳥などを争うて、三つに二つは必ず射落し候。」と申しければ、判官、「さらば与一呼べ。」とて召されけり。
 与一その頃は未だ二十許りの男なり。褐に赤地の錦を以て、大領、端袖いろへたる直垂に、萌黄縅の鎧著て、足白の太刀を佩き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、うすきりふに鷹の羽割り合はせてはいだりける、ぬための鏑をぞさし添へたる。滋籐の弓脇に挟み、兜をばぬいで高紐にかけ、判官の御前に畏まる。判官、「いかに与一、あの扇のまん中射て、敵に見物せさせよかし。」とのたまへば、与一、「仕るとも存じ候はず。これを射損ずるものならば、長き御方の御弓矢の瑕にて候べし。一定仕らうずる仁に、仰せつけらるべうもや候らん。」と申しければ、判官大きに怒つて、「今度鎌倉を立つて西国へ向はんずる者共は、みな義経が下知を背くべからず。それに少しも仔細を存ぜん人々は、これよりとうとう鎌倉へ帰らるべし。」とぞのたまひける。
 与一かさねて辞せば、あしかりなんとや思ひけん、「さ候はば、外れんをば存じ候はず、御諚で候へば、仕つてこそ見候はめ。」とて、御前をまかり立ち、黒き馬の太う逞しきに、まろほや摺つたる金覆輪の鞍置いて乗つたりけるが、弓取り直し、手綱かいくつて、汀へ向いてぞ歩ませける。御方の兵ども与一が後を遥かに見送つて、「この若者、一定仕らうずると覚え候。」と申しければ、判官もたのもしげにぞ見給ひける。矢頃少し遠かりければ、海の中一段ばかり打入つたりけれども、なほ扇の間は七段ばかりもあるらんとこそ見えたりけれ。頃は二月十八日酉の刻ばかりのことなるに、折ふし北風烈しう吹きければ、磯打つ浪も高かりけり。船はゆり上げ、ゆりすゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。沖には平家、船を一面にならべて見物す。陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふ事なし。
 与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光の権現、宇都の宮那須の温泉大明神、願はくはあの扇の真中射させてたばせ給へ。之を射損ずるものならば、弓切り折り、自害して、人に再び面を向ふべからず。今一度本国へ帰さんと思召さば、この矢はづさせ給ふな。」と心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにこそなつたりけれ。与一鏑を取つてつがひ、よつぴいて、ひようと放つ。小兵といふ條、十二束三ぶせ、弓は強し、鏑は浦ひゞく程に長鳴して、あやまたず扇の要ぎは一寸許りおいて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚りける。春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、夕日の輝くに白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられけるが、沖には平家、舷をたゝいて感じたり。陸には源氏、箙をたゝいてどよめきけり。

前頁  目次  次頁