鷲尾一谷案内者の事
九郎御曹司、下知し給ひけるは、「この山の足立ち、極めて悪し。鹿の落とし{*1}も有るらん。熊押し{*2}なども上りたるらん。悪所に懸かつて、馬をも人をも損ずべからず。」とて、「武蔵坊、武蔵坊。」と召す。弁慶、「候。」とて進参す。装束には、褐衣の直垂に、黒革縅の鎧に、同じ毛の兜に、三尺五寸の黒漆の太刀帯いて、黒羽の征矢負ひて、塗篭の弓に、このむ長刀取り具して、馬より下り、軍将の前にあり。もとより色黒く、たけ高き法師なり。身の色より上の装束まで、牛驚く程にありければ、焼野の鴉に似たりけり。「やゝ、弁慶、承れ。木陰茂りて道見えず。山の案内者、尋ねなんや。」と宣へば、取り定めたる事もなきに、「候ひなん。」とて、馬に乗り、乾に向つて十余町歩ませ下つて、谷の底を伺ひ求むるに、幽かに火の見えけるを、打ち寄りて見れば、けしかる萱屋あり。内に、七十余りなる翁と六十余りなる嫗と、腹掻き出して火にあたり居たり。
弁慶、こわづくろひして{*3}、事々しく申しけるは、「鎌倉兵衛佐殿、朝敵追討の院宣を給はりおはしますによりて、軍兵を差し上さるゝ間、平家、都を落ちて、この山に篭る。則ち、御弟の蒲御曹司、追手に向ひ給ひぬ。九郎御曹司、搦手としてこの上の山におはします。『案内者に参れ。』との御使に、武蔵坊弁慶とて、古山法師の怖ろしき者が来れり。疾う疾う参るべきなり。」と云ふ。老人、急ぎ起き上がり、烏帽子打ち著て申しけるは、「若く侍りし時は、摂津国、丹波の山々、暗き所なし{*4}。春夏は狙ひ射、秋冬は笛待ち、落とし括り、押し上げ、犬山{*5}など申して、昼夜に山に侍りしかば、木の根、岩角、知らぬはなし。年たけ身衰へて、この二十余年は弓引かず、行歩叶はず候。子息の小冠者は、不敵の奴。案内よく知つて候ひなん。召し具せらるべし。」とて、片屋にありけるを呼び起こして、心を含みてまゐらせけり。柿の衣物に同じ色の袴、節巻の弓に猿皮靭、鹿矢{*6}あまた指して、半物草{*7}をぞはきたりける。弁慶に相具して参りたり。
たい松とぼして見給へば、頬骨あれて、つら骨たかく、まかぶら{*8}覆うて勢大なり。御曹司は、「如何に、汝が居所をば、いづくと云ふぞ。年はいかに。」と問ひ給へば、「歳は生年十七。居所は、山の鼻が差し覆つて、鷲のかたちに似たりとて、鷲尾と申し付けて候。」「さて、汝が親には、嫡子か末子か。名乗りはいかに。」と問ひ給へば、「名は未だ付かず。親には三郎に相当たり候。」と申す。かたがた聞こし召して{*9}、「仏の正法説き給ひし処、鷲に似たれば、鷲峯山とつけらる。達多が邪法を弘めける砌は、象の頭に似たりとて、象頭山と呼びけり。震旦には、香炉に似たる山とて香炉山、竜の臥せるに似たりとて驪竜山。我が朝には、比叡山は、長ければ長柄山。みたけは、金の多ければ金峯山の名を得たり。例無きにあらず。されば、汝をば鷲尾三郎と云ふべし。名乗りは、我が片名に、父が片名を取つて、経春と付くべし。片岡と同名なれども、多き人なれば、事かけじ。只今、烏帽子親の引出物。」とて、花憐木のつかに白金の筒金入りたる刀に、鹿毛の馬に鞍置いて、赤革縅の甲冑小具足付けて、給ひたりけり。
これより思ひ付き奉つて、一谷の案内者より始めて、八島、文司関、判官奥州へ落ち下り給ひし時、十二人のそら山伏のその一なり。老いたる親をも振り捨てて、かなしき妻をも別れつゝ、奥州平泉の館にして、最後の伴をしたりしも、情ありける事とぞ聞こえし。ある人の云ひけるは、「摂津国源氏にて、形の如く所領の有りけるを、難波次郎に押領せられ、山林を狩りてこゝに住みける。」とぞ云ひける。
(異説に云く、三草山の夜討の時、いけどり多かりける中に、斬るべきをば斬り捨てられ、ゆるさるべきをば木のもとに結ひ付けて、「山の案内者に。」とて、兵具をば許さずして召し具し給ひたりける男を引き出し、問ひ給ひけるは、「そもそも和俗{*10}は、平家伺候の家人か。国々の駆り武者か。」と。「これは、平家の家人にも非ず。また、駆り武者にも侍らず。播磨国安田荘の下司、多賀菅六久利と申す者にて候が、重代の所領を、平家の侍越中前司盛俊に押領せられて、年ごろ訴へ申し候へども、理訴を権威に押さへられて、妻子を養ふ便りなければ、この山に住み、鹿鳥を捕つて世を渡り侍りつる程に、かかる源平の御合戦と承れば、『軍に交じりて疵をも蒙り、命をも失ひたらば、子孫の安堵にもなり候へかし。』とて、自然に伴したり。」と申す。「さては、汝を深く山の案内者には憑む。所領の安堵、仔細あらじ{*11}。」とて、いましめをゆるして、馬鞍兵具たびて、召し具せられたりけり。問答、鷲尾三郎が如し。「平家亡びて後、九郎判官、判形を加へ、安田荘の安堵を給ふ。」と、云々。)
御曹司は、「如何に、鷲尾。山の案内は。」と問ひ給ふ。「この山をば、鵯越とて、極めたる悪所。左右なく馬人通るべしともおぼえず。上七、八段は、屏風を立てたる様にて、白砂交じりの小石なれば、草木生ひず、馬の足留まり難し。それより下五、六段は、岩がけにて、人だにも通り難し。」と申す。「さて、この山には鹿は無きか。かの悪所をば、鹿は通らずや。」と問ひ給ふ。「鹿こそ多く候へ。世間寒く成り候へば、雪の浅りにはまんとて、丹波の鹿が一谷へ渡り、日影暖かになりぬれば、草のしげみに臥さんとて、一谷より丹波へ帰り候なり。」と申す。「さて、その下には、落とし堀、ひしなど植ゑたりや。」と問へば、「さる事、承らず。御景迹候へかし{*12}。馬も人も通るべき所ならねば、いかでかその用意侍るべき。」と答ふ。御曹司は、これを聞き給ひ、「殿原、さては心安し。やをれ、鷲尾。鹿にも足四つ、馬にも足四つ。尾髪の有ると無きと、爪の破れたると円きとばかりなり。西国の馬は知らず。東国の馬は、鹿の通る所は、馬場ぞ。打てや、殿原。」とて、岩の鼻、岸の額、馬の足を手綱に合はせて、馳せ落とし、馳せ上る。尻輪に乗り懸かり、前輪に平み、引きすゑ引き詰め、鞭と鐙と打ち合はせ、打ち乱し、狼のごとくにかけり、虎の如くに走りて、北の山の下にぞ至りける。
義経、兵法、その術を得て、軍将、その器に足れり。相従ふ者又、孟賁が類、樊噲が輩{*13}なりければ、つゞいて同じく通りにける。二月上の六日の事なれば、月は宵よりはや入りぬ。木陰山陰暗うして、夜も五更{*14}に及びけれども、鷲尾に具せられて、敵の城の後ろなる鵯越をぞ登りける。
鷲尾、東に指して申しけるは、「あれにほの見え候ふは、河尻、大物浜、難波浦、昆陽野、打出浜、西宮、葦屋里と申す。南は淡路島山、西は明石浦。汀に続いて火の見ゆるは、平家の陣の篝の火。この下こそ一谷よ。東西の城戸の上、東岡をば平疁とて、海路遥かに見渡して、眺望殊に面白ければ、望海楼をも構へぬべし。西の岡をば高松原とて、春の塩風身にしみて、秋の嵐の音すさまじき所なり。」とぞ申したる。軍兵を漫々たる海上に見渡し、「渚々の篝の火、海士の篷屋の藻塩火や。」と、いと興ありて思ひけるに、鷲尾、かく申し続けたれば、御曹司は、武き事がらをも、優なることばをも感じ給ひつゝ、皆紅に日出したる扇を以て鷲尾にたび、「これにて敵を招き、高名仕れ。勲功は、乞ひによるべし。」とぞ宣ひける。空も未だほのくらかりければ、暫くこゝにて馬の足をぞ休めける。(異説には、扇を多賀菅六久利にたびて、「安田荘の下司、仔細あるべからず。」と宣ひけりと。)
大手の勢は、宵の程は昆陽野に陣を取りたりけるが、三草山の手に向ひたる越前三位、能登守の陣の火を、湊河より打ち上つて北の岡に燃やしたりけるを、「搦手、已に城戸口に馳せ付きたまへり。」と心得て、「打てや、打てや。」とて、「我先、我先。」と五万余騎、手ごとに松明捧げて急ぎけり。所々に火を放ちければ、汀につゞき、海上に光りて、身の毛よだちておびたゞし。七日の暁は、源氏、大手搦手挟みて、東西の城戸口まで攻め寄せたり。
熊谷大手に向ふ事
六日の夜半ばかりに、熊谷は、子息の小次郎を近く招きてさゝやきけるは、「明日の軍は、がけを落とさんずれば、打ちこみの合戦にて、誰が先陣と云ふ事あらじ。又、馬損じても、ゆゝしき大事。一方の一陣をかけて、『鎌倉殿にも聞こえ奉り、子孫のため名をも挙げばや。』と思ふなり。宇治川にても先陣を志し、行桁を渡りしに、佐々木四郎、生唼と云ふ竜馬{*15}に乗つて渡ししかば、直実、二陣にさがりぬ。心憂かりしかども、身ひとりが事ならねば、自害するに及ばず。又、向ひの岸より馬を遅く越えたりしかば、九郎御曹司と相共に院の御所へも参らず、かたがた本意を失ひき。されば、『ひそかにこの手をば出でて、音に聞こゆる播磨大道の渚に下つて、一谷の城戸口へ先陣に寄せばや。』と思ふは、いかゞ有るべき。矢合はせは、卯の刻なり。今は、寅の始めにもなるらんとおぼゆ。さもあらば、急がん。」と云ふ。小次郎は、「直家も、存ずる処にて候。平山が山案内者だてて、ひしめき候ひつるも、音もせず。よにあやしくおぼえ候。その上、この殿{*16}は、郎等に先陣懸けさする事おはしまさず。自ら一陣を懸け給ふ時に、この殿につゞきたらん侍どもの、先陣つとめて高名する事は、有り難くおぼえ候。疾う疾う急ぎ給へ。」と勧む。熊谷は、「子ながらも、あの年齢に、はしたなく{*17}思ふものかな。」と思ふ。「さらば、小次郎、同心ぞ。」とて、搦手をばひそかに出でて、渚々の篝火を験として、大手へとて下りけるが、内々、平山が陣を見せければ、「人なし。」と云ふ。「さればこそ平山も、大手を志して一陣をかくる。」と思ふにこそ、「いそげ、いそげ。」とて、旗差し具して親子三騎、坂を下りに歩ませたり。
熊谷は、褐の鎧直垂に、家の紋なれば、鳩の寓生{*18}をぞ縫ひたりける。黒糸縅の鎧に、同じ毛の兜、大中黒の征矢に二所籐の弓を持ち、紅の母衣懸けて、権太栗毛に乗りたりけり。この馬は、熊谷が中に権太と云ふ舎人あり。李緒が流れをも習はず、伯楽が伝へ{*19}をも聞かざりけれども、能く馬に心得たる者なりければ、召し向うて、「当時に源平の合戦あるべし。折節、しかるべき馬なし。海をも渡し、山をも越ゆべき馬、尋ね得させよ。」と云うて、上品の絹二百匹持たせて、奥へ下す{*20}。権太、陸奥国一戸に下つて、牧の内走り廻りて、選びすぐつて、四歳の小馬を買ひたりけり。たけこそちとひきかりけれども、太く逞しき、こたへ馬のはたばりたる{*21}逸物なり。さてこそこの馬をば、権太栗毛とは呼びけれ。(燕国の昭王は、五百両の金にて駿馬の骨を買うてこそ、駿足、後に至りけれ。熊谷直実は、二百匹の絹を以て栗毛の馬を商なひて、軍陣の先をかけにけり。)
子息小次郎は、練貫に沢潟摺り{*22}たる直垂に、ふし縄目の鎧著て、妻黒の征矢、重籐の弓持ちて、これも紅の母衣懸けて、白波と云ふ馬に乗りたりけり。この馬は、奥州姉葉と云ふ所に、白波と云ふ牧より出で来たる上に、尾髪、飽くまで白ければ、白波と名づけけり。権太栗毛に上下論じたる逸物なり。又、西楼と云ふ秘蔵の馬あり。後戸風と云ふ舎人男に引かせたり。「権太栗毛、いかなる事もあらん時は。」とて、乗替の料に引かせたり。白き馬の太く逞しきが、尾髪、飽くまでたれり。三戸立ちの馬なり。余りに秘蔵して、仮居の西に厩を立てて、昼は人目を憚りて、夜は引き出し愛しければ、馬の白きを月に喩へ、西の厩を楼に喩へ、西楼とぞ名づけたる。
熊谷、かねて舎人に云ひ含めけるは、「乗りたる栗毛は、夜もすがら山坂馳せたる馬なれば、明日の軍には西楼にのるべし。その意を得べきなり。『狩場に出でて鹿を射るに、先なる鹿をとほしぬれば、射手、手迷ひして、次々の鹿、易く通る。軍は、重々城を構へたれども、一の城戸を破りぬれば、後陣の兵、武く勇む。』と、鎌倉殿、仰せられしかば、千万騎の軍も篭れ。我は、城戸口をば離るまじきぞ。西楼をば引き儲けよ。」とぞ下知しける。旗差は、秋の野摺りたる直垂に、洗革の鎧著て、鹿毛馬に黒鞍置いて乗る。
主従三騎打ち連れて、播磨大道の渚と志してくだりけるに、小峠坂の人宿り{*23}に、人あまた、こゑしけり。忍び聞きければ、平山と成田となり。「これ等も、大手へ行くにや。」と心得て、物具つゝみ、轡とらへ、峠の下七、八段打ち下り、深く忍びて通りけり。その後は、いとゞうしろいぶせくおぼえて、鞭に鐙を合はせければ、寅の終はりに一の城戸口へ馳せ付きたり。暗さはくらし、敵は未だ出で合はず。味方に、続く勢はなし。只三騎ぞ控へたる。夜半の嵐に誘はれて、寄せ来る波ぞ高かりける。木綿付鳥{*24}のこゑもせず、明け行く鐘の響きもなし。やもめ烏のうかれ声、渚のちどりおとづれて、武き心の中までも、物哀れにぞおぼえける。
さても、城の構へぞおびたゞしき。山の岸より海の遠浅まで、大きなる岩を取り積みて、岩の上に大木を切り伏せ、その上の櫓を二重にかいて、狭間{*25}を開きたり。上には楯を並べて、兵ども、矢たばね解き、弓張り立てて並み居たり。下には岩の上に逆茂木を引き懸けて、郎等下部まで熊手薙鎌持ちて、「あ。」と云はば、さと出づべき体なりけり。その後ろには鞍置馬、二、三、十重{*26}に引き立てて、その数を知らず。「そ。」と云はば、つと引き出すべき様なり。南の海の浅き所には船を傾けて、それを便りとして、櫓を隙なく掻き、深き所には船を儲け、数万艘うかべたり。蒼天に行を乱せる雁の如くなり。大かた高き所には、弩を張り、柵を掻き、ひくき所には堀ほり、ひしを植ゑ、屋形屋形の前には、こゝにもかしこにも赤旗立て並べて、天にかゞやき地を照らせり。鬼神と云ふとも、たやすく落とし難くこそ見えたりけれ。
校訂者注
1:底本頭注に、「鹿の落し穴。」とある。
2:底本頭注に、「ばね仕掛で熊を捕へるもの。」とある。
3:底本頭注に、「声繕ひして。」とある。
4:底本頭注に、「知らぬ所はない。」とある。
5:底本頭注に、「〇笛待ち 鹿笛を吹いて寄つて来る鹿を待つて射取ること。」「〇落とし括り 落し穴を造つて獣を括り取る。」「〇押し上げ ばね仕掛けで獣を押し取る。」「〇犬山 犬を追ひ入れて獣を取る。」とある。
6:底本は、「猿皮靭(さるかはうつぼ)鹿矢(しゝや)」。底本頭注に、「〇靭 矢を盛る具。」「〇鹿矢 鹿狩に用ゐる野矢。」とある。
7:底本は、「半物草(はんもつさう)」。底本頭注に、「足の裏の半分なる草履。」とある。
8:底本頭注に、「まぶた」とある。
9:底本は、「聞こし召しつ、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
10:底本は、「和俗(わぞく)」。底本頭注に、「俗人を呼んでそなたといふ詞。」とある。
11:底本は、「仔細あらん」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
12:底本は、「御景迹(ごきやうさく)候へかし。」。底本頭注に、「思ひはかり候へ。」とある。
13:底本は、「孟賁(まうほん)が類(たぐひ)、樊噲(はんかい)が輩」。底本頭注に、「〇孟賁 衛国の勇士」「〇樊噲 漢の勇士。」とある。
14:底本は、「五更(かう)」。底本頭注に、「午前四時。」とある。
15:底本は、「土竜(どりう)」。底本頭注に従い改めた。
16:底本頭注に、「源義経。」とある。
17:底本頭注に、「端無く完全にの意。」とある。
18:底本は、「鳩の寓生(ほや)」。底本頭注に、「鳩が宿り木にとまつてゐる紋。」とある。
19:底本は、「李緒(りしよ)が流(なが)れをも習はず伯楽(はくらく)が伝をも」。底本頭注に、「〇李緒、伯楽 何れも支那古代の馬を御した名人。」とある。
20:底本頭注に、「陸奥国へ下す。」とある。
21:底本頭注に、「〇こたへ馬 壮健な牡牛をコトヒといふのから転じたものであらう。」「〇はたばりたる 幅の広い意で、こゝでは足の早いこと。」とある。
22:底本は、「沢潟摺(おもだかす)り」。底本頭注に、「袖及び草摺を地と異なる色糸で杉形に沢潟の葉の如く縅す。」とある。
23:底本頭注に、「休憩に用ゐる板屋。」とある。
24:底本は、「木綿付鳥(ゆふつけどり)」。底本頭注に、「鶏の異名で世に騒乱ある時鶏に木綿を著けて京城四境の関に至りて祭を行ふのでいふ。」とある。
25:底本は、「狭間(さま)」。底本頭注に、「矢を射出すために板と板との間を少しあけて置く矢狭間のこと。」とある。
26:底本は、「二三十里」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
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