佐巻 第三十七
熊谷父子城戸口に寄す 並 平山同所に来る 附 成田来る事
熊谷父子、城戸口に攻め寄せて、大音揚げて云ひけるは、「武蔵国の住人熊谷次郎直実。同じく{*1}小次郎直家、生年十六歳。つたへても聞くらん、今は目にも見よや。日本第一の剛の者ぞ。我と思はん人々は、楯の面へかけ出でよ。」と云ひて、轡を並べて馳せ廻りけれども、只遠矢にのみ射て、出で合ふ者はなし。熊谷、城の中を睨みて申しけるは、「去年の冬、相模国鎌倉を出でしより、命をば兵衛佐殿に奉り、骸をば平家の陣にさらし、名をば後代に留めんと思ひき。そのこと、一谷に相当れり。軍将も侍も、我と思はん人々は、城戸を開き、打つて出でて、直実、直家に落ち合ひ、組めや、組めや。」と云へども、出づる者もなく、名乗る者もなかりければ、「この城戸口には、恥ある者なきか。父子二人は、よき敵ぞ。室山、水島二箇度の軍に高名したりと云ふなる越中次郎兵衛、悪七兵衛等はなきか。所々の戦ひに打ち勝ちたりと宣ふなる、能登殿{*2}はおはせぬか。高名も、敵によりてするものぞ。さすが直実父子には叶はじものを。あな、無慙の人どもや。いつまで命を惜しむらん。出でよ、組まん。出でよ、組まん。」といへども、高櫓の上より城戸をへだてて、雨の降るがごとくにぞ射ける。
熊谷、小次郎に教へけるは、「汝は、これぞ初軍。敵寄せぬればとて、騒ぐことなかれ。射向の袖をまつかうにあてよ。あき間を惜しみてゆり合はせよ。つねに鎧づきせよ。立ちはたらかで{*3}、裏をかかすな。あふのきかゝりて内兜射さすな。さしうつぶきて天辺射らるな。賢しかれ。」とぞ申しける。直実は、「小次郎を矢さきにあてじ。」と、鎧の袖をかざして立ち隠せば、直家は、父をはぐゝみて、前に進みて箭面に立つ。武き心の中にも、親子の情ぞ哀れなる。かく寄せて一軍したりけれども、夜は猶深し、城戸口は開かず。味方も未だ続かねば、「死ぬる命はいづれも同じ事なれども、くら闇に証人もなく死にたらんは、正体なし{*4}。」と思ひければ、明くるを遅しと待ち居たり。
平山も、熊谷が心に少しも違はず、先陣を心に懸けて、三草の閑道にかゝりて、浦の手に打ち出でて、「後陣を待つて、城戸口を破らん。」と思ひ、「あれこそ浦へ出づる道よ。」と云ひけるばかりを聞き、大勢をば弓手に見なし、三草の山を打ち過ぎ、尾一つ越えて、須磨の浦を指してうつ程に、先立ちて武者一人歩ませ行く。「あれは、誰そ。」と問ひければ、「景重。」と答ふ。成田五郎にてぞありける。成田、思ひけるは、「平山が馬は、聞こゆる逸物なり。我が馬は弱ければ、打ち連れて先陣かくる事{*5}、叶ふまじ。たばかり返さん。」と思ひて、馬の鼻を引き返して平山に云ひけるは、「高名は、大手搦手によるまじ。聞くが如きは、平家の大勢なほ、三草、小野原越に向つて、両方よりさし合はせ、源氏を中に取り篭めて、洩らさじと支度するなり。まことに取り篭められなば{*6}、ゆゝしき大事なり。その上、大勢の中を忍び出でて先をかけたりとても、誰かは証人に立つべき。後陣の勢を相待ちて、先陣をこそ駆くべけれ。」と云ひければ、「げにも、さるべし。」とて、暫く休み居たれば、成田、あからさまなるやうにもてなして{*7}、兜の緒をしめて進み行く。
平山は、「我をたばかるにこそ。」と思ひて、馬に打ち乗り、鞭に鐙を合はせて行きければ、成田、「今は叶はじ。」と思ひて、へらぬ体{*8}にもてなし、「誠は家正、馬弱くて、如何にも御辺に先せられぬと思ひつれば、たばからんとて申したり。強からん乗替、一匹たべ。命生きたらば、後の証人にもし給へかし。」と云ひけれども、平山、耳にも聞き入れず、成田を弓手に見成し、打ち通りけるが、遥かに延びて思ひけるは、「成田が馬を乞ひつれども、余りのにくさに返事云はざりつる事、情なし。見合ひたらば、取つて乗れかし。」とて、宿鴾毛なる馬の五臓太{*9}なるが、七寸に余りたるに鞍置きたるを、道の端なる木に繋ぎ付けてぞ通りける。成田、この馬を見て、「同じくくれば、早くくれて、共に打ちつれて行きなまし。」と、一人ごとして打ち乗りつゝ、鞭を打つてぞ馳せ行きける。
熊谷、暫し休みて小次郎に云ひけるは、「実や、平山も、打ちこみの軍をば好まず。小峠{*10}に音のしつれば、一定、こゝへぞ来らんずる。城戸口開く事あらば、相構へて先駆けらるな。」と云ひ教ふ。平山は、成田をば打ち捨てて、山の細道分け行けば、暗さはくらし、さしうつぶきさしうつぶき見ければ、薄冰を踏み破つて馬の通れる跡あり。「すでに熊谷に先懸けられぬよ。」と本意なくて、いとゞ馬をぞ早めける。その日の装束には、重目結の直垂に、赤縅の鎧著て、二引両の母衣を懸けて、目油馬{*11}にこそ乗りたりけれ。熊谷は、西の城戸口浜際に控へて、「誰かは先をば駆くべき。はや城戸口を開けかし。」とぞ相待ちける。後ろの方に、馬の足音、人影のする様におぼえければ、雲透にこれを見るに、武者二騎、馳せ来れり。近付くを見れば、平山なり。「案に違はず。」と思ひて、「いかに、平山殿か。」「季重。問ふは誰ぞ。熊谷殿か。」「直実。」と名乗り合ひ、共に一所に寄り合ひたり。
平山、熊谷に語りけるは、「打ち篭みの軍は、剛臆見えず。如何にも追手にて、はがね顕はさんと思ひて、子時に山の手を忍び出でたりつれば、寅時にはこゝへ来付くべかりつるを、小峠{*12}にて成田来りて申す様、「御辺は、追手へ向ひ給ふか。誰もまかるぞ。打ち連れ給へ。只一人敵の中へ打ち入りたりとも、証人なき所にて死したらば、なにともなきいたづら事。犬死とは左様の事なり。味方のつゞきたらん時に、先を懸け、命を捨ててこそ、我も人も高名にて、子孫に勲功もあらんずれ。闇討に射殺されては、且は、をこの事。卯の始めの矢合はせといへども、辰の始めにぞあらんずる。是非、軍は夜のしのゝめ。暫くこゝにて馬いたはり、後陣を待ち給へ。家正も休む。』と云ひつれば、『げにも、さり。』と思ひて、暫し峠に下り居て、腹帯くつろげ兜脱いで、人宿り{*13}に休む程に、共に休む。暫しためらひて、成田、兜打ち著、馬に乗り、坂を上り、先にすゝむ時に、『我をたばかるにや。にくき事なり。その義ならば、劣るまじ。』と、ことばを懸けて馬に乗り、一鞭あてて追ひ並べ、鐙の鼻にて成田が馬を一摺りすらせて先立ちつれば、馬を所望したる間、にくけれども、道に馬を繋がせて先立ちたり。かれは、谷河を下りに、西の尾を北へ廻りつれば、今十、二十町はさがりぬらん。されば、如何にも弓箭取る身は、よき馬を持つべきなり。季重は、馬は武蔵国姉埼立ちの名馬なり。左の目にちと篠突き{*14}のあれば、目油毛と申す。熊谷殿の御馬と、勝劣あらじ。」と語りつゝ、共に夜の明くるをぞ待ち居たる。さる程に、成田五郎も主従三騎にて追ひ来れり。
各、浜際に打ち並びて、渚に寄せ来る白波に、馬の足洗はせて、城内をきけば、櫓の上に伎楽を調べ管絃し、心を澄まして遊ばれけり。夜深更に及んで、山路に風やみ、海上に水静かなれば、寄手の者どもも、弓杖にすがりてこれを聞く。熊谷、感じて云ひけるは、「実や、大国にこそ、軍の庭にして管絃し、歌を詠じ、調子をたゞし、勝負を知ると云ふ事はあるなれ。我が朝には、未だその例を聞かず。哀れげに、上﨟都人は情深く、心も優しき事かな。かかる乱れの世の中に、竜吟鳳鳴の曲を調べ、詩歌管絃の興を催す事の面白さよ。我等、いかなれば邪見の夷と生まれ、いつまで命を生きんとて、身には甲冑をはなたず、手には弓矢を携へて、かやうの人に向ひ奉り、闘諍の剣を研く事の悲しさよ。」とて、涙ぐみけるこそ哀れなれ。さる程に、夜もほのぼのと明けにけり。
校訂者注
1:底本は、「同小次郎直家」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
2:底本頭注に、「平教経。」とある。
3:底本は、「立ちはだらかで」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
4:底本頭注に、「〇正体なしと つまらないと。」とある。
5:底本は、「先に蒐(か)く」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
6:底本は、「取り篭めなば、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
7:底本頭注に、「一寸行くやうな風をして。」とある。
8:底本頭注に、「困らない様子。」とある。
9:底本は、「宿鴾毛(さびつきげ)なる馬の五臓太(ざうぶと)なるが」。底本頭注に、「〇宿鴾毛 月毛の赭みあるもの」「〇五臓太 骨格の逞しきもの。」とある。
10・12:底本は、「小手向(コタウゲ)」。底本頭注に「小峠の本字。」とあるのに従い改めた。。
11:底本は、「目油馬(めかすげ)」。底本頭注に、「油馬は糟毛即ち灰色で白色の雑れるもの。目油馬というたのは後文に其の由が記してある」とある。
13:底本頭注に、「休憩に用ゐる板屋。」とある。
14:底本は、「篠突(しのつき)」。底本頭注に、「篠の枝などで突いた痕。」とある。
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