平家城戸口を開く 並 源平侍合戦の事
平山、熊谷に云ひけるは、「城の構へ様を見るに、二重の櫓には平家の侍、国々の兵ども並み居たり。高岸に副へて屋形を並べて、大将軍おはす。海には石を畳み重ねて、大船どもを{*1}片寄せ置く。上に櫓を掻けり。城戸口には、逆茂木重々に引き廻して、ひらかねばたやすくかけ入る事、叶ひ難し。如何すべき。」と云ふほどに、城内の兵どもの評定しけるは、「熊谷父子と名乗りて、組まん組まんとのゝしるを、この陣固めながら漏らさん事、云ひ甲斐なし。さりとて、大勢にも非ず、只三騎なり。さて又、後陣の大勢のつゞくにもあらず。東国には、げにこれ等こそ名ある者にてあるらめ。日本第一の剛の者と名乗るをば、如何むなしくは返すべき。いざ、殿原。熊谷父子、いけどりにして、大臣殿の見参に入れん。」と云ふ。
「しかるべし。」とて、越中次郎兵衛尉盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、後藤内定綱已下、はやり雄の若者ども二十三騎、城戸口の逆母木を引きのけさせて、轡ならべて喚いて駆け出でける処に、平山は、波打際より馬を出して、主従二騎懸け出でつゝ、「武蔵国の住人平山武者所季重、かくこそ先をば懸くれ。」とて、城戸口へぞ馳せ入りたる。城内の者どもは、「熊谷、鬼神なりとも、二十余騎の勢にては、手取りにせん。」と見る所に、差し違へて、「平山。」と名乗りて懸け入りければ、二十三騎も、平山に付いて内に入る。城中には、「源氏の大勢に城戸口を破られぬ。」と心得て、引き退く。櫓の上よりこれを見て、「敵は二騎ぞ。いたくな騒ぎそ。」とて、矢をはげ、射んとすれども、味方は多し、敵は二騎。一所にたまらず{*2}、電なんどの様なれば、弓を引きてはゆるし、引きてはゆるしけれども{*3}、矢のあて所はなかりけり。
櫓にて下知しけるは、「平山と名乗るは、本所経たる名ある侍、よき敵ぞ。その男、取つて引き落とせ、中に。坂東者は、馬の上にてこそ口はきけども、組んで後には物ならじ。落ち合へ、落ち合へ、殿原。」と、両方の櫓の上より進めけれども、平家の侍の乗りたる馬は、舟にゆられ、飼ふ事は稀なり。乗る事は隙なし、日数は遥かに経たり。平山が目油毛馬は、勇みいばへ{*4}たる大馬の、狂象のたける様に、弓手馬手を嫌はず、一所にとまらず馳せければ、「相構へてあてられじ。」とぞためらひける。まして落ち合ふまでは、思ひよらず。
熊谷父子は、二十三騎が後ろを守りて、喚きてかく。二十三騎は、平山をば内輪{*5}に成して、取つて返して熊谷に向へば、平山、又喚きてかく。二十三騎は、熊谷を外様に成して、取つて返して平山に向へば、熊谷、又喚きてかく。三廻り四廻りくるりくるりと廻りたれども、いづれにも組まずして、終には敵五騎をば外様に成してぞ禦ぎたる。熊谷は、「平山を休めん。」とて、「暫く和殿は気を継ぎ給へ。」とて、父子二人、面に立つて散々に戦ふ。左右の櫓より射ける箭は、雨の足の如くなれども、鎧に立つは裏かかず、あきまを射ねば、手は負はず。
越中次郎兵衛尉盛嗣、好き装束なれば、紺村濃の直垂に、赤糸縅の鎧著て、白星の兜に、葦毛の馬に乗り、先に進みて、熊谷に打ち並びて、組まんずる様にはしけれども、熊谷父子は、上食ひ{*6}しつゝ、間もすかさず待ち懸けて、父に組まば直家落ち合ひ、子に組まば直実落ち重なるべき気色にして、少しも退かざりける頬魂、「叶はじ。」とや思ひけん、盛嗣、一段ばかりを隔てて申しけるは、「大将軍に逢うてこそ命をも捨てめ。和君に組む事あるべからず。」と云ふ。熊谷、勝つに乗つて、「きたなし、盛嗣よ。直実をだにも恐れてくまぬ者が、大将軍に組まんと云ふは、へらぬ体のことばか。まづ直実にくんで、源氏の郎等の手の程見よや。」と云ひけれども、盛嗣、終に組まずして、しらけぬ体{*7}にて控へたり。
悪七兵衛景清は、盛嗣が組まざりけるを、「にくし。」とや思ひけん、次郎兵衛をば馬手になし、渚の方より、「熊谷に組まん。」と喚きて懸かりければ、直実父子、景清に目を懸けて進みける有様は、鬼を酢に差して{*8}食はんずる景気なり。既に組まんとしけるを、次郎兵衛、「やゝ、七郎兵衛殿。君の御大事、これに限るまじ。あれ程のふてかたゐ{*9}に会うて、命を捨てん事、無益なり。止まり給へ。詮なし、詮なし。」と制しければ、悪七兵衛も、事がらには出でたりけれども{*10}、「如何して留まらん。」と思ふ処に、かく制しければ、立ち止まりて組まざりけり。その外、二十三騎の者ども、口々にはのゝしりけれども、熊谷、平山に近付きよる者はなし。共に、「武蔵国の住人、直実。季重。日本第一の剛の者。一人当千の兵。」と名乗つて、逸物の馬どもに乗りたれば、こゝかとすればかしこにあり、かしこかとすればこゝにあり。二、三匹が走り廻りける有様は、四、五十疋が馳せ違ふに似たり。
平家の侍、組む事は叶はずして、馬を射る。熊谷、馬の腹を射させて、しきりにはねければ、足を越えて下り立ち、「落ち合へ、落ち合へ。」といへども、終に人、落ち合はず。小次郎は、「父が馬に矢立ちぬ。」とみてければ、「今は最後。」と思ひ切つて、二の垣楯の際まで押し寄せて、「熊谷小次郎直家、生年十六歳。軍は今日ぞ始め。くめや、者ども。落ち合へ、人ども。」と云ひければ、平家の侍ども、「狐の子は頬白と。親に似たる不敵者かな。聞けば、十六と云ふ。誠にさ程にぞ成るらん。あますな。」とて、散々に射ける矢に、小肱を射させて引き退く。熊谷は、「小次郎、手負ひぬ。」と思ひ、打ち寄せて見ければ、直家、父に向うて、「この矢、抜いて給べ。」と云ふ。熊谷、「これは、痛手に非ず。暫しこらへよ。隙のなきぞ。」と云ひ捨てて、又喚きて攻め入り戦ひけり。
平家追討の軍兵、今度上洛の時、鎌倉殿の侍所{*11}にて評定あり。「十五、六は、をさなし。十七以上は上洛すべし。」と定められたりけるに{*12}、小次郎は、十六なり。「有りの儘に申しては、御免あらじ。十七と名乗つて父が伴せん。」と思ひければ、鎌倉にて、その定に申す。父も、「我が身の伽にもせん。軍をも、し習へかし。」と思ひければ、同じく、「十七。」と申して、西国まで具したりけれども、一谷にては、実正に任せて十六歳とぞ云ひける。
平山は、暫し休みて馬をも気を継がせけるに、「熊谷は、馬を射させてかち立ちに成り、小次郎も手負ひぬ。」と見ければ、また入り替はりて戦ひけり。旗指は、黒糸縅の鎧に三枚兜を著たり。馬より真つさかさまに射落されたりければ、安からず思ひて、余の者には目を懸けず、旗差が敵に押し並べ、引つ組んで、馬の上にて頚を切り、手に捧げ、「一人当千の兵、平山武者所季重。一陣懸けて、敵の頚取つて出づる剛の者のふるまひ。見よや、殿原。我と思はん者、組めや、者ども。」とて、城の外へこそ出でにけれ。誠にゆゝしくぞ見えたりける。平山が二度のかけとは、これなりけり。平家の侍ども、平山一人をば、やすく討つべかりけるを、後ろに熊谷ありけるをいぶせく思ひつゝ、終に漏らして出しにけり。後日に関東にて、一陣二陣のあらそひありけるに、「熊谷は、城戸口へ寄する事は、一陣。平山は、城の内にかけ入る事、一陣。しかも敵の頚を取る。功はいづれも取り取りなれども、平山、先陣。」に定まりけり。
その後、成田五郎、三騎にて押し寄せて、一戦して出でにけり。次に白旗一ながれ上げて、五十余騎にて馳せ来る。熊谷、「誰人ぞ。」と問へば、「信濃国の住人、村上次郎判官代基国。」と名乗りて、一時戦うて出づ。これ等を始めとして、高家には秩父、足利、三浦、鎌倉、武田、吉田。党には小沢、横山、児玉党、猪俣、野与、山口の者ども、「我も、我も。」と{*13}白旗ささせて、十騎、二十騎、百騎、二百騎。入れ替へ入れ替へ、「劣らじ、負けじ。」と戦ひけれども、西国第一の城なれば、落つべき様こそなかりけれ。赤旗白旗相交じはり、風に靡ける面白さは、竜田の山の秋のくれ、白雲かゝる紅葉葉や。梅と桜とこき交ぜて、花の都に似たりけり。喚き叫ぶこゑ、山を響かし、馬の馳せ違ふ音、雷の如く、太刀長刀のひらめく影、電の如し。組んで落つる者もあり、矢に当つて死する者もあり。刺し違へて臥す者もあり、疵を蒙りて退く者もあり。源氏も平氏も、隙ありと見えず。源平、こゝにて多く討たれにけり。
校訂者注
1:底本は、「大船どもの」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
2:底本頭注に、「一所に溜らず。」とある。
3:底本頭注に、「弓に矢をつがへて引きながら狙ひのきまらぬためにゆるめ、又引きては又ゆるめること。」とある。
4:底本は、「嘶(いば)え」。
5:底本は、「内は」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
6:底本は、「上食(うはくひ)」。底本頭注に、「歯を食ひしばることであらうかといふ。」とある。
7:底本頭注に、「負けない様子。」とある。
8:底本頭注に、「酢につけて。」とある。
9:底本は、「ふて癩(かたゐ)」。底本頭注に、「ふてはふてること、癩は業病であるから熊谷父子を畏れ罵つた詞。」とある。
10:底本頭注に、「意地づくで向うたけれども」とある。
11:底本頭注に、「将士を進退し非違を検察し、罪人を決罰し、及び幕府宿衛の武士、将軍扈従の兵士を選挙する役所。」とある。
12:底本は、「定められたりけるを、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
13:底本は、「我も(二字以上の繰り返し記号)白旗ささせて」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
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