景高景時城に入る 並 景時秀句の事
大手の大将軍蒲御曹司、後陣に控へて、「武蔵、相模の若者ども、敵に息な継がせそ。攻めよ、かけよ。」と下知し給へば、三百騎、五百騎、入り替はり入り替はり、喚き叫びて戦ひけり。天帝修羅の合戦も、かくやとおぼえて恐ろしや。敵の頚取る者は、気色して城戸に出づ。主、親を討たせたる{*1}者は、涙を流して引き退く。馬を射させたる者は、かち立ちにて出づるもあり。疵を蒙る者は、人に助けられて出づるもあり。寄する時には、旗差しあげ、名対面して入りけれども、引く時は、又旗かき巻きて出づるとかや。
梶原平三景時が二男に平次景高、一陣に進んで攻め入る。大将軍、宣ひけるは、「これは、大事の城戸の口{*2}。上には高櫓に四国、九国の精兵どもを集め置きたるなるぞ。あやまちすな。楯を重ね、馬に鎧を著すべし。無勢にしては悪しかりなん。後陣の大勢を待ちそろへて寄すべし。」と下知し給へば、人々、承り継ぎて、「大将軍の仰せなり。勢を待ちまうけて寄せ給へ。」といへば、梶原は、きと見かへりて、
武士のとりつたへたる梓弓引きては人の帰るものかは
と詠じて、城戸口近く押し寄せて、散々に戦ふ。これを見て、党も高家も、面々に轡を並べて三千余騎、「我先、我先に。」と攻め付けたり。白旗、その数を知らずさし上げたれば、白鷺の蒼天に羽を並ぶるが如し。
平家は、高櫓より矢衾を造りて散々に射る。城は、究竟の城なり。生田森を一の城戸と定めて、三方には堀をほり、東の方に引橋渡して、重々に逆茂木を曳き、北の山本より南の海の際まで垣楯掻き、矢間をあけて、一口こそ開きたれ。城の内へ入るべきやうもなかりけるに、武蔵国の住人、篠党に河原太郎高直、同次郎盛直、兄弟二人馳せ来りて、馬より飛び下り、藁の下々{*3}をはき、城戸口に攻め寄せて、「今日の先陣。」と名乗つて、逆茂木を登り越え登り越え、城内へ入りけるを、讃岐国の住人真鍋五郎助光、弓の上手、精兵の手だれなりければ、城戸口に選び置かれたりけるが、さし顕はれて、能つ引き、暫し堅めて放つ矢に、河原太郎が弓手の草摺の余りを射させて、弓杖にすがりて立ちすくみたりけるを、弟の次郎、つと寄り、肩に引つ懸けて帰りけるを、助光、二の矢を以て、腰の骨懸けて、鎧かけず{*4}射こみたりければ、兄弟、逆茂木のもとに、太刀の柄をとつて並み居たり。真鍋が下人、これを見て、櫓の下よりつと出でて落ち合ひけれども、二人ながら痛手なれば、ともかくも戦ふに及ばずして、二人が頚はとられにけり。心の剛は、熊谷、平山に劣らずこそ思ひけれども、運の極みになりぬれば、敵一人も取らずして討たれけるこそ無慙なれ。
同国猪俣党に藤田小三郎大夫行安、つゞきて逆茂木を登り越えんとしけるを、真鍋、引き固めて放つ矢に、同じくこゝにて討たれにけり。藤田が妹の子に江戸四郎と云ふ者あり。今年十七になりけるが、つゞいてかけ入り、散々に戦ふ程に、鎧の胸板を射られて弱る処を、阿波民部大輔成良が甥に桜間外記大夫良連が手に討たれぬ。人見四郎も、こゝにして討たれにけり。勲功の時、河原太郎と藤田行安が子どもに、生田荘を給ふ。その墓所のためなり。今の世にまでも、かの社の鳥居の前に堂塔を造立して、菩提を弔ふとかや。
真鍋五郎は、櫓より下り、河原兄弟が首を手鋒に貫き、城戸の上に昇り、高く捧げて、「源氏の殿原、これを見よ。進む敵をばかくこそ取れ。つゞけ、つゞけ。」と招きたり。梶原、これを聞き、「口惜しき人どもなり。つゞく者がなければこそ兄弟二人は討たれたれ。」とて、五百余騎にて押し寄せつゝ、足軽四、五十人に腹巻著せ、手楯つかせて、えい声出して逆茂木を引き除く。こゝに、討たれたる鎧武者一人あり。見れば、藤田小三郎大夫行安なり。「あな、無慙。敵に首とらすな。隠せ。」とて、沙の中に掘り埋めて、後にかくと云ひければ、子息郎等ども、掘り起こして{*5}、生田荘に納めてけり。櫓よりは、「逆茂木を引かせじ。」と、矢衾を造つてこれを射る。寄手は、「これを引かせん。」と、差し詰め差し詰め矢倉を射る。これやこの{*6}、天帝、須弥より刃をふらし、修羅、大海より箭を飛ばすらん戦ひなるらんと、おびたゞし。両方の箭の行き違ふ事は、群鳥の飛び集まれるが如し。かかりけれども、足軽ども、一つ二つと引く程に、逆茂木をば遂に皆引き除けにけり。梶原は、「今は軍庭、平らなり。寄せよ、者ども。」とて、子息の源太相具して五百余騎、喚きて中へぞ入りにける。
この手には、新中納言父子、本三位中将、大将としておはしけるが、「敵、内に乱れ入る。」と見給ひて、二千余騎を差し向けて、梶原が五百余騎を中に取り篭めて、「余すな、漏らすな。」とて、一時ばかりぞ戦ひける。いづれも互に引かざりけるが、さすが無勢なれば、梶原、下手に廻つて、さと引いてぞ出でたりける。「源太は如何に。」と問へば、「味方を離れて、敵の中に取り篭められたまひぬ。」と云ふ。「あな、心憂。さては、討たれぬるにや。景時生きて、何かせん。景季が敵に組んで死なん。」とて、二百余騎を相具して、平家の大勢かけ散らしてうちに入り、声を揚げて、「相模国の住人鎌倉権五郎平景政が末葉、梶原平三景時ぞ。かの景政は、八幡殿の一の郎等。奥州の合戦の時、右の目射られながら、その矢を抜かずして、当の矢を射返して敵を討ち、名を後代に留めし末葉なれば、一人当千の兵ぞ。子息景季がゆくへ、おぼつかなくて、返し入れり。我と思はん大将も侍も、組めや、組めや。」と名乗り懸けて、轡を並べて攻め入りければ、名にや実に恐れけん、左右へさとぞ引き退く。
「源太尋ねよ。」とて攻め入り見れば、景季、未だ討たれず。初めは菊池の者どもと射合ひけるが、後には太刀を抜き合はせて名乗りけり。「和君は誰ぞ。」「菊池三郎高望。和君は誰ぞ。」「梶原源太景季。」と、名対面して切り合ひたり。源太は、兜をうち落とされ、大童にて、三十余騎に取り篭められて、切り合ひけるが、菊池三郎に押し並べて、引き組んで、馬の際に落ち重なつて、菊池が首を取り、太刀の切鋒に刺し貫きて、馬に乗り出でけるが、父の梶原に行き合ひたり。平三景時、源太を後ろに成して、矢面にすゝみ、禦ぎ戦ひつゝ、その間に源太に兜きせ{*7}、暫し休めて、寄せつ返しつ戦ひけり。城戸口に。「真鍋四郎。」「五郎。」と名乗つて出で合ひたりけるが、四郎は梶原に討たれぬ。五郎は手負ひて引き退く。平家の兵どもも、入り替はり入り替はり戦ひけれども、景時は、源太が死なぬ嬉しさに、猛く勇みて、たてさま横さま戦ひけり。暫し息をも継ぎければ、父子相具して、引いて城戸へぞ出でにける。さてこそ、梶原が生田森の二度のかけとはいはれけれ。
詩歌管絃は、公家仙洞{*8}のもてあそび物。東夷、いかでかしき島難波津の言葉を存ずべき{*9}なれども、梶原は、心の剛も人に勝れ、数寄たる道も優なりけり。咲き乱れたる梅が枝を、胡箙に副へてぞ挿したりける。かかれば、花は散りけれども、匂ひは袖にぞ残るらん。
吹く風を何いとひけむ梅の花散り来る時ぞ香はまさりける
と云ふ古き言までも思ひ出でければ、平家の公達は、「花箙とて、優なり。やさし。」と、口々にぞ感じ給ひける。
この梶原、右大将家の奥入りし給ひけるとき{*10}、名取川にて、
我ひとりけふの軍に名とり川
と、くり返しくり返し詠じ給ひければ、大名小名、うめきすめきけれども、付くる者なかりけるに{*11}、梶原、
君もろともにかちわたり{*12}せむ
と付けたりけり。又、京上りの御伴に、相模国円子川を渡り給へりけるに、梶原、少し用ありて、片方に下がり居たりけるが、「御伴にさがりぬ。」と、一鞭あてて打つ程に、この川の川中にて馳せ付き奉りたりけるに、沛艾{*13}の馬にて、鎌倉殿に水をさゝと蹴懸け奉る。御気色悪しくて、きと睨み返り給ひたりけるに、梶原、
円子川ければぞ波はあがりける{*14}
と仕りて、手綱をゆりすゑければ、御気色なほり給ひて、打ちうそぶき、「ければぞ波はあがりける。」と、二、三返ながめ給ひて、向ひの岸に打ち上がり、馬の頭を梶原に引き向けて、
かゝりあしくも人や見るらむ{*15}
と付け給ひ、「いかに。発句、脇句、いづれまされり。」とぞ仰せける。
かゝるやさしき男なりければ、さしもの戦場、思ひ寄るべきにあらねども、折知りがほの梅の枝を、箙にさして寄せたれば、源氏の手折れる花なれども、平家の陣にぞにほひける。東国の兵ども、百騎、二百騎、入り替はり入り替はり、「我も、我も。」と戦ひけり。こゝにて、源平の兵、多く討たれけり。東西の城戸口、人種は尽くるとも、落つべき様とは見えざりけり。
校訂者注
1:底本は、「討たれたる」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
2:底本は、「大事の城、城戸の上には」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
3:底本は、「藁(わら)の下々(げゞ)」。底本頭注に、「藁草履」とある。
4:底本頭注に、「鎧を貫通して。」とある。
5:底本は、「掘り起(おこ)し、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
6:底本は、「これやこれ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
7:底本は、「鎧(よろひ)きせ、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
8:底本は、「公家仙洞(くげせんとう)」。底本頭注に、「〇仙洞 上皇の御所」とある。
9:底本は、「磯城島(しきしま)難波津(なにはづ)の言葉(ことば)を存ず可き」。底本頭注に、「〇磯城島 敷島の道にて日本固有の歌道といふこと。」「〇難波津 王仁の、『難波津に咲くや此の花冬ごもり今を春べと咲くや此の花。』といふ歌によりて和歌のことをいふ」とある。
10:底本頭注に、「源頼朝が藤原秀衡を討たんため奥州へ下りたること。」とある。
11:底本頭注に、「〇うめき 呻吟。」「〇すめき うめきの転訛。」「〇付くる者 下の句をつける者。」とある。
12:底本頭注に、「徒渉と戦に勝つとにかける。」とある。
13:底本は、「沛艾(はいがい)」。底本頭注に、「あれくるふ」とある。
14:底本頭注に、「川の名に鞠をいひかけていふ。」とある。
15:底本頭注に、「蹴鞠を行ふ所をかゝりとも鞠壺ともいうて松桜楓柳を四隅に植ゑる 鞠といふ語の縁でかゝりといひ波のかゝるのをいひかけていふ。」とある。
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