一谷落城 並 重衡卿いけどりの事

 一谷を中にさし挟み、追手五万余騎は、東の城戸口より攻め寄せける上に、熊谷、平山、一陣二陣にかけ入りぬ。今は防ぐ者なし。搦手は、一万余騎の内、七千余騎は三草山の山口、西の城戸口へ廻りて攻む。三千余騎は、鵯越より落とし合はせて攻む。東生田杜をば、三千余騎にて固めたれども、屋形屋形は猛火燃え広がりて、おびたゞし。東西より火に攻められ、人に攻められて、皆、「船にのらん。」と、渚に向ひて落ち行きけるも、海へのみこそ馳せ入りけれ。助け船ありけれども、余りに多くこみ乗りければ、大船三艘は、目の前に乗り沈めける。「しかるべき人々をば乗すれども、次様の者をば乗すべからず。」とのゝしりけれども、暫しの命も惜しければ、「もしや、もしや。」とて、「船にのらん。」と取り付きけるを、太刀長刀にて薙ぎければ、手打ち落とされ、足切り折られて、皆海にぞ沈みける。かくはせられて死にけれども、敵に組んで死する者はなし。多くは味方打ちにぞ亡びにける。
 先帝{*1}を始めまゐらせて、女院、北政所、二位殿、三位殿已下の女房達、大臣殿父子已下の人々は、かねてより御船に召して、海上に出で浮びて、これを御覧ぜられ、「いかばかりの事をか思し召しけん。」と哀れなり。
 本三位中将重衡は、国々の駆り武者取り集めて、三千余騎にて生田杜を固め給ひたりけるが、城中乱れつゝ、火焔、屋形屋形に充ち満ちて、黒煙空に覆ひ、軍兵散々にかけ阻てられて、東西に落ち失せぬ。恥を知りたる者は、敵に組んで討たれぬ。走り付きの奴原{*2}は、海に入り、山に篭りけれども、生くるは少なく、死ぬるは多く、敵は雲霞の如し。味方の勢なかりければ、重衡卿、「今は叶はじ。」とて、浜路に懸かり、渚に打ち副ひて、西を指して落ち給ふ。その日の装束は、褐衣に白糸を以て群千鳥を縫ひたる直垂に、紫すそごの鎧をぞ著給へる。馬は、童子鹿毛とて究竟の逸物、早走りなり。大臣殿の御馬を預かり給ひてぞ乗り給へる。荘三郎家長が、「よき大将軍。」と見て、父子、乗替の童、三騎にて追うてかゝる。
 三位中将は、蓮の池をも打ち過ぎ、小馬の林を南に見なし、板宿、須磨にぞ懸かり給ふ。荘三郎、目に懸けて、鞭に鐙を合はせて追ひけれども、逸物には乗り給へり、只延びに延び給ひける間、「今は叶はじ。」と思ひ、十四束取りて番ひて、追ひ様に馬を志して遠矢に射る。その矢、馬の三頭に射篭めたり。その後は、あふれども打てども、疵を痛みて働かず。三位中将の侍に後藤兵衛尉守長とて、をさなくより召し仕ひたまひて、「如何なる事ありとも、一所にて{*3}死なん。」と、深く契り給ひて召し具せられたり。三位中将の秘蔵せられたりける夜目なし鴾毛と云ふ馬にぞ乗せられたる{*4}。これは、「童子鹿毛、もしの事あらば、乗りかへん。」との約束なり。馬も秘蔵の馬なり、主は深く憑み給へる侍なりけれども、「童子鹿毛に矢立ちぬ。」と見て守長は、「我が馬、召されなば、我、如何せん。」と思ひて、主を打ち捨て奉り、射向の袖の赤符かなぐり棄てて、西を指して落ち行きけり。
 三位中将は、「如何に、守長。その馬、まゐらせよ。その馬、まゐらせよ。」と仰せけれども、そら聞かずして馳せ行きけり。「あな、心憂や。年ごろは、かくやは契りし。重衡を見棄てて、いかに守長、いづくへ行くぞ。留まれ、守長。その馬、まゐらせよ。」と宣へども、耳にも聞き入れず、見も返らず。渚に添うて馳せ行きけり。三位中将、今は力及ばずして、「相構へて、馬を海へぞ打ち入れん。」とし給ふ。そこしも遠浅なりける上、馬も弱りて進まざりければ、汀に下り立ち、刀を抜き、鎧の引合{*5}を切り、自害し給はんずるにや、又、海に入り給はんずるかと見えければ、家長、手しげく攻めより、馬より飛び下り、乗替に持たせたる小長刀を取り、十文字に持ちて開き、するすると歩みよりぬ。「君の御渡りと見まゐらせて、家長、参りて候。如何に、正なく御自害、有るべからず。いづくまでも御伴仕るべし。」とて、畏まつてありければ、三位中将、自害をもし給はず、遠浅なれば、海にも入り給はず、立ち煩ひ給ひたりけるを、家長、つと寄り、我が馬に掻き乗せ奉り、差縄{*6}にて鞍のしづわ{*7}にしめ付けて、我が身は乗替に乗りてぞ帰りにける。その勲功の賞には、陸奥国しつしと云ふ所を給ひけり。
 多くの人の中に、重衡卿一人いけどられ給へる事、大仏焼失の報いにや。重衡は、只七歩の命ををしみ、わづかに一旦の死を遁れ、顔を都鄙にさらし、名を遠近に辱かしめけり。去んぬる頃、東大寺大仏上人の夢に、「我が右の手、急ぎ鋳成すべし。敵を討たせんがためなり。」と示し給ふと見えければ{*8}、急ぎ鋳奉りてけり。去んぬる七日、右の御手、成り給ひけるに、かの卿いけどられける事、測り知りぬ、「大仏の御方便なり。」と云ふ事を。末代なりとはいへども、霊験、まことにいちじるしくぞ{*9}おぼえける。
 さても後藤兵衛尉守長は、逸物に乗りたりける甲斐ありて、命ばかりは生きにけり。後には、熊野法師に尾張法橋と云ひける者の後家の尼に、後見してぞありける。かの尼、訴訟ありて、後白河法皇の御時、伝奏し給ふ人のもとへ参じたりけるに、人、これを見て、「三位中将のさばかりいとほしみし給ひしに、一所にて如何にも成るべき者が、さもなくて、さしもの名人の、思ひ懸けず尼公の尻舞ひ{*10}して、晴れの振舞ひこそ人ならね。」と、にくまぬ者こそなかりけれ。
 又、人の云ひけるは、「剛臆も賢愚も、世を治むるはかりごと。命を助くる有様、とりどりの心ばせ、いかでか是非をわきまふべき{*11}。弓矢を取る身が前には、不覚とも云ふべけれども、命を惜しむ時は、臂を折りしためしもあるぞかし。されどもこの守長は、歌の道には優しき者にて、帝までも知ろし召したる事なり。
 「一年、一院(後白河院)、鳥羽の御所に御幸ありて、御遊ありき。頃は五月の二十日余りの事なり。卿相雲客、列参あり。重衡卿も、『出仕せん。』とて出で立ち給ひけるが、卯の花に郭公書きたる扇紙を取り出でて、『きと張りてまゐらせよ。』とて、守長にたぶ。守長、仰せうけたまはつて、急ぎ張りける程に、分廻しをあしさまに充てて、郭公の中を切り、僅かに尾と羽先ばかりを残したり。『誤ちしぬ。』と思へども、取り替ふべき扇もなければ、さながらこれをまゐらする。重衡卿、かくとも知らず出仕し給ひて、御前にて披きて仕ひ給ひけるを、一院、叡覧ありて、重衡の扇を召されけり。三位中将、始めてこれを見給ひつゝ、畏まりてぞ候はれける。御諚、再三に成りければ、御前にこれをさしおかれたり。一院、披き御覧じて、『無念にも、名鳥に疵をば付けられたるものかな。何者がしわざにてあるぞ。』とて、打ちわらはせ給ひければ、当座の公卿達も、誠にをかしき事に思ひ合はされたり。三位中将も、苦々しく恥ぢ恐れ給へる体なり。退出の後、守長を召して、深く勘当{*12}し給へり。守長、大きに歎き恐れて、一首を書きまゐらす。
  五月やみくらはし山の郭公姿を人にみするものかは
と。三位中将、この歌を捧げて御前に参り、しかじかと奏聞し給ひたりければ、君、『さては、守長が、この歌詠まんとて、わざとのしわざにや。』と叡感あり。
 「例なきに非ず。能因入道が、
  都をば霞とともに出でしかど秋風ぞ吹く白川のせき
と読みたりけるを、『我が身は都にありながら、いかゞ無念にこの歌を出さん。』とて、『あづまの修行に出でぬ。』と披露して、人に知られず篭り居て、照る日に身を任せつゝ、色を黒くあぶりなして後に、『陸奥国の方の修行のついでに、白川関にて読みたり。』とぞ云ひひろめける。又、待賢門院の女房に加賀と云ふ歌よみありけり。これも、
  かねてより思ひし事をふし柴の{*13}こるばかりなる歎きせむとは
と云ふ歌を読みて、年ごろ持ちたりけるを、『同じくは、さるべき人に云ひ眤びて、忘れられたらん時によみたらば、勅選なんどに入りたらん面も優なるべし。』と思ひけり。さて、如何したりけん、花園大臣に申しそめて、程経つゝ、かれがれ{*14}になりにけり。加賀、思ひの如くにやありけん、この歌をまゐらせたりければ、大臣、いみじく哀れにおぼしけり。世の人、『附子柴の加賀。』とぞ云ひける。さて、思ひの如く千載集に入りにけり。
 「『守長も、かくしもやあるらん。』と、覚束なし。秀歌なりければ、鳥羽の御所の御念珠堂の杉の障子{*15}に彫り付けられて、今にあり。されば、賢きも賤しきも、讃むるもそしるも、とりどりなるべし。」とぞ申しける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「安徳天皇。」とある。
 2:底本は、「走り付きの奴原(やつばら)」。底本頭注に、「一旦従ひたる兵ども」とある。
 3:底本は、「一所に死なん」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 4:底本は、「乗らせられたる。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 5:底本は、「引合(ひきあはせ)」。底本頭注に、「鎧の右の脇にて引合はす所。」とある。
 6:底本は、「差縄(さしなは)」。底本頭注に、「馬を牽いたり繋いだりする時に轡にかける綱。」とある。
 7:底本頭注に、「後輪。」とある。
 8:底本は、「見ければ、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 9:底本は、「著(いちじる)しく覚えける。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 10:底本頭注に、「後見のこと」とある。
 11:底本は、「弁(わきま)へん、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本は、「勘当(かんだう)」。底本頭注に、「譴責。」とある。
 13:底本は、「思ひし事ぞふし柴の」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇 ふしは柴と同じことで重ねて言うた詞。」とある。
 14:底本頭注に、「離れ離れ。」とある。
 15:底本頭注に、「板戸。」とある。
る。