忠度通盛等最後の事

 薩摩守忠度は、生年四十一。色白くして鬚黒く生ひ給へり。赤地錦の直垂に{*1}、黒糸縅の鎧に、兜をば著給はず、立烏帽子ばかりにて、白鴾毛の馬に、遠雁を文に打ちたる鞍置きてぞ乗りたりける。かるも河、須磨、板宿を打ち過ぎつゝ、渚に付いてぞ落ち給ふ。武蔵国の住人に岡部六弥太忠澄、十余騎の勢にて鞭を打つて追ひ懸けて、「こゝに西を{*2}差して過ぎ給ふは、敵か、味方か。名乗れ。」と云ふ。「これは、源氏の軍兵ぞ。」と答へて、いとゞ駒を早めて落ち給ふ。「味方には、立烏帽子にかね付けたる{*3}人は、なきものを。これは一定、平家の大将軍にこそ。」と思ひて、追ひて懸かる処に、源次、源三、百兵衛と云ふ侍ども、中を塞ぎて防ぎけり。かれ等三人をば郎等にうち預けて、なほ進みけり。熊王といふ童、「主を延ばさん。」と、命を棄てて戦ひけり。熊王は、敵一人切り殺して、我が身もこゝにて討たれにけり。源次、源三、百兵衛も、太刀の切鋒打ちそろへて散々に振舞ひけるが、敵二人討ち取つて、あまたに手負はせ、三人一所に亡びにけり。
 今は、忠度一人になり給ひたりけるを、忠澄、馳せ並べて引き組んで落つ。六弥太、上になる。忠度は、赤木の柄に銀の筒金巻きたる刀を、抜きまうけておはしければ、六弥太を三刀までぞ突き給ふ。馬の上にて一刀、落ちざまに一刀、落ち付きて一刀。隙ありとも見えず、一二の刀は鎧の上を突き給へば、手も負はず。三の刀に胸板を突きはしらかし、頷の下、片頬加へに{*4}つと突き貫く。忠澄、既にと見えけるに、郎等落ち合ひて、薩摩守をみしと切る。こてを以て合はせ給ひたりければ、馬手の腕、こて加へに{*5}打ち落とさる。
 忠度、「今は叶はじ。」と思し召しければ、上なる六弥太を持ちおこして、片手にひつ提げ、「こゝのけ。念仏申して死なん。」とて、なげ給へば、弓長二たけばかりなげられて、忠澄、とゝ走りて安堵せず。その間に忠度は、鎧の上帯切り、物具脱ぎ捨て、端坐して西に向ひ、念仏高声に唱へ給ふ。その後忠澄、太刀を抜き、寄りければ{*6}、「今は、汝が手にかゝりて討たれん事、仔細なし。暫く相待ちて、最後の念仏申さん。」と宣へば、忠澄、畏まりて、「そもそも君は、誰にて渡らせ給ひ候ぞ。」と問ひければ、薩摩守、「己は不覚仁や。『何者ぞ、名乗れ。』といはば、名乗るべきか。景気を以て見も知れかし。己に会ひて名乗るまじ。さりながら、最後の暇えさせたるに、己はよき敵取りつる者ぞ。同じ勲功と云ひながら、必ずよき勧賞に預かりなん。」とて、最後の十念高声に唱へつゝ、「はや、とく。」と宣ひければ、六弥太、進み寄りて頚を取る。
 脱ぎ捨て給へる物具とらせけるに、一巻の巻物あり。取り具して、頚をば太刀の切鋒に貫きて差し上げつゝ、陣に帰りて、「これは誰人の頚ならん。『名乗れ。』と云ひつれども、しかじかとて名乗らざりつれば、如何なる人とも見しらざりける。」に、巻物を披き見れば、歌ども多くありける中に、「旅宿花」と云ふ題にて一首あり。
  行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今夜の主ならまし  忠度
と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知りたりけれ。
 この人は、入道の弟公達の中には、心も剛に、身も健やかにおはしけれども、運の極みになりぬれば、六弥太にも討たれにけり。勧賞の時は、「六弥太、神妙なり。」とて、薩摩守の知行の荘園五箇所を給ひて、勲功に誇りけり。
 越前三位通盛は、紫地錦の直垂に、萌黄に沢潟縅したる鎧に、連銭葦毛の馬に乗つて、湊河の端を下りに落ち給ふ。団扇の旗差して、児玉党七騎にて追ひ懸け奉る。三位、幾程命を生きんとて、鞭をあててぞ落ち給ふ。しかるべき運の極みにや、馬をさかさまに倒して、頚へ抜けて{*7}ぞ落ち給ふ。児玉党、いまだ追ひ付かざりけるに、近江国佐々木荘の住人木村源三成綱と云ふ者、落ち合ひて組んでけり。両鼠、木の根を嚼む。その木たふれば、毒竜底に在つて、害を成さんとする喩へあり。児玉党、追ひ懸けたり。佐々木、待ち得たり。まこと、遁れ難くぞ見え給ふ。三位、上に成り給ふ。源三、「はね返さん、はね返さん。」としけれども、三位、力まさりなりければ、抑へて更に働かさず。刀をぬき、源三が頚を掻けども掻けども落ちず。持ち上げこれを見給へば、鞘ながらぬきたれば、切れざりけり。
 源三成綱は、紀中将成高の四代の孫、木村権頭が子息なり。佐々木荘に居住したりけるが、もとは小松大臣{*8}に奉公せし程に、おくれ奉りて後は、新中納言殿{*9}に付き奉りければ、平家の人々には見馴れ奉りたり。源平の合戦に、佐々木源三秀能が子息等、皆関東へ下りける間、源三成綱も、近く鎌倉へ下りけり。軍兵に催されて上りたれば、越前三位とも組み奉る。成綱、「叶はじ。」と思ひければ、下に臥しながら、「誰やらんと思ひ奉り候へば、君にて渡らせ給ひけり。知りまゐらせて候はんには、いかでか近く参り寄るべけん。年頃平家に奉公の身なれば、御方{*10}へこそ参るべきにて侍りつるに、心ならず、親しむ者どもにすかし下されて、今戦場に駆り向けられたり。いづれの御方{*11}も、おろそかの御事は候はねども、殊に見なれまゐらせて、御眤まじく思ひ奉る。只今かく組まれまゐらせぬる事よ。同じくは、人手にかゝりなんより嬉しくこそ。」と申す。三位は、「誰も、さこそは思へ。年頃日頃見馴れし者なれば、不便にも思へども、軍の道は力なし。今かやうに申すを聞けば、実にさこそ思ふらめ。」とて、ためらひ給ひける程に、佐々木五郎義清、主従五騎にて波打際を歩ませ来る。
 成綱、これを見て、「五郎は、よも見放たじものを。」と思ひて、三位の案じ煩ひたる処に、太刀の柄と箙とにかせいで、鎧の透間のありけるより、源三、刀をぬき、三位を二刀さす。刺されて弱り給ひけるを、力を入れてはね返し、起こしも立てず、やがて三位の首を取る。この間に、源三が郎等二人、三位の侍三騎、互に主をはぐゝみて、こゝにて五人、亡びにけり。源三、三位の首を取り、郎等に、「うなじの重きは、いかに。」と問ふ。「創を負ひ給へり。」と云ふ。三位の刀を取りて見れば、鞘ながら掻きたれば、鞘尻二寸ばかり砕けて、刀の鋒二寸入りて、その創にてぞ在りける。源三成綱は、左の手にて頷さゝへ、右の手に首を捧げて陣に帰る。ゆゆしくぞ見えたりける。
 蔵人大夫業盛は、今年十七に成り給ふ。長絹の直垂に、所々菊閉{*12}して、緋縅の鎧に、連銭葦毛の馬に乗り給へり。味方には離れぬ、いづちへ如何に行くべしとも知り給はざりければ、渚に立ちておはしけるを、常陸国の住人泥屋四郎吉安と組んで落ち、上に成り下に成り、ころびける程に、古井の中へころび入りて、泥屋は下になる。「兄を討たせじ。」とて、泥屋五郎、落ち重なつて、大夫の兜のしころに取りつきて、「ひかん、ひかん。」としければ、大夫、頭を強く振り給ふに、兜の緒を振り切る。五郎、兜を持ちながら、二尋ばかりぞなげられたる。されども手負はざりければ、起き上がつて業盛の首を取る。兄をば井より引きたてたり。「十七歳の心に、よく力の強くおはしけるにや。」と、人皆これを惜しみけり。

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校訂者注
 1:底本は、「直垂黒糸縅」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 2:底本は、「西に差して」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 3:底本は、「鉄(かね)付(つ)けたる」。底本頭注に、「鉄漿をつけた。」とある。
 4:底本は、「片頬(かたつら)加(くは)へに」。底本頭注に、「下顎の辺から片方の頬へかけて。」とある。
 5:底本は、「射鞴(こて)加(くは)へに」。底本頭注に、「籠手と共に。」とある。
 6:底本は、「寄せければ、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 7:底本頭注に、「馬の頭越しに向うへ。」とある。
 8:底本頭注に、「平重盛」とある。
 9:底本頭注に、「平知盛」とある。
 10・11:底本は、「味方」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本は、「菊閉(きくとぢ)」。底本頭注に、「直垂などの縫留に綻びを防がんがため組緒を綴ぢつけ其の余りをわがねて推しひらめて菊花の如くしたもの。」とある。