煕巻 第三十八

知盛戦場を遁れ船に乗る事

 新中納言知盛卿は、浜へ向つて落ち給ひけるを、武蔵の国司にておはせしに、見知り奉りたりけるにや、児玉党、団扇の旗差して、三騎喚きて追ひ懸け奉る。「こゝに落ち給ふは、大将軍とこそ見まゐらせ候へ。如何にまさなく後ろをば見せ給ふぞ。」とて、無下に近付き寄りければ、中納言の侍に監物太郎頼賢は、究竟の弓の上手、能つ引き放つ矢に、旗指、頚の骨を射させて、馬より落つ。二騎の者ども、錏を傾けて、打つてかゝる。中納言、危ふく見え給ひければ、御子武蔵守知章、中にへだて、引き組みて落ち、取つて押さへて頚を掻く。敵の童、落ち重なつて、武蔵守をば刺してけり。監物太郎頼賢、弓矢をば、からと棄てて落ち合ひ、童が首を取る。頼賢は、主の首と童が頚と取り具して、馬にのらんとしけるが、膝の節を射させ、「今は最後。」と思ひければ、「人手に懸からじ。」とて、腹掻き切つて死ににけり。
 その紛れに新中納言は、井上と言ふ究竟の馬に乗り給ひたりければ、海上三町ばかりおよがせて、船に乗り移りて、助かり給ひにけり。知章は、忽ち勇兵の首を獲て、専ら壮士の名を顕はし、遂に父の死を救ひ、永く己が命を亡ぼす。
 船には、馬立つべき所なかりければ、舟のせがいより馬の頭を磯へ引き向けて、一鞭あてたれば、馬はおよぎ返りけり。阿波民部大夫成良が、「あの御馬、射殺し給へ。敵の物に成りなん。」と申しけれども、中納言は、「敵の馬に成るとても、如何、我が命を助けたらん馬をば殺すべき。」とて、なごり惜しげにぞおはしける。馬は渚におよぎ上がり、しほしほとぬれて、年ごろのよしみを慕ひつゝ、舟の方を見返りて、三度いなゝきたりけるこそ、畜類なれども哀れなれ。
 この馬は、中納言の武蔵の国司にておはしける時、当国河越より参りたりければ、名をば河越の黒とぞ申しける。余りに秘蔵し給ひて、馬のために月に一度、太山府君の祭をぞせられける。その験にや、馬の命も四十に成りけり。我が御身も、今度助けられ給ひぬ。九郎御曹司、この馬を院の御所へまゐらせたりければ、「聞こゆる名馬なり。」とて、御厩にぞ立てられける。

平家公達の最後 並 首ども一谷に懸くる事

 修理大夫経盛の子に若狭守経俊は、兵庫の浦まで落ち延びたまひたりけるを、那和太郎に組んで、討たれたまふ。
 同じく{*1}経盛の末子に無官大夫敦盛は、紺錦の直垂に、萌黄匂の鎧に、白星の兜著て、滋籐の弓に十八差いたるうすべをの矢{*2}、鴾毛の馬に乗り給ひ、たゞ一騎、新中納言の乗り給ひぬる舟を志して、一町ばかりおよがせて、浮きぬ沈みぬ漂ひ給ふ。武蔵国の住人熊谷次郎直実は、「あはれ、よき敵に組まばや。」と、渚に立ちて東西伺ひ居たる処に、これを見付けて、馬を海にざぶと打ち入る。「大将軍とこそ{*3}見奉れ。まさなくも海へは入らせ給ふものかな。返し給へや、返し給へや。かく申すは、日本第一の剛の者、熊谷次郎直実。」と云ひければ、敦盛、何とか思はれけん、馬の鼻を引き返し、渚へ向けてぞおよがせたる。
 馬の足立つ程に成りければ、弓矢をばなげ捨てて、太刀を抜き、額にあて、をめき上がり給ひけるを、熊谷、待ち受けて、上げもたてず、水鞠さと蹴させつゝ{*4}、馬と馬とを馳せ並べてとり組み、浪打際にどうと落つ。上になり下になり、二度三度は転びたりけれども、大夫は幼若なり、熊谷は古兵なりければ、遂に上に成る。左右の膝を以て鎧の袖をむずと抑へたれば、大夫、少しも働き給はず。熊谷は、腰の刀を抜き出し、既に頚をかかんとて、内兜を見ければ、十五、六ばかりの若上﨟、薄化粧にかね黒{*5}なり。にこと笑ひて見え給ふ。
 熊谷は、「あな、無慙や。弓矢取る身は、何やらん。これ程若くいつくしき上﨟に、いづこに刀を立つべきぞ。」と、心弱くぞ思ひける。「そもそも誰の御子にて渡らせ給ふぞ。」と問ひければ、「只とく切れ。」とぞ宣ひける。「斬り奉りて、雑人の中に捨て置きまゐらせんも、便なく侍り。うきふしも知らぬ東国の夷下﨟に逢うて、『名乗るまじ。』と思し召さるるか。それも理に侍れども、存ずる旨ありて申すなり。」と云ふ。大夫、思はれけるは、「名乗りたりとも、名乗らずとも、遁るべきに非ず。但し、存ずる旨とは、勲功の賞を申さんためにこそ有るらめ。組むも切らるゝも先世の契り。讐をば恩にて報ずるなり。さあらば名乗らん。」と思ひつゝ、「存ずる旨のあるなれば、聞かするぞ。これは、故太政入道の弟に修理大夫経盛と云ふ人の末の子。未だ無官なれば、無官大夫{*6}敦盛とて、生年十六歳に成るなり。」と宣ひけり。
 熊谷、涙をはらはらと流しけり。「あな、心憂の御事や。さては、小次郎と同年にや。実にさ程ぞおはすらん。岩木をわけぬ心にも、子の悲しみは類なし。いはんやこれ程わりなくいつくしき人を失ひ奉りて、父母の悶えこがれ給はん事の哀れさよ。中にも小次郎と同年に成り給ふなるいとほしさよ。助け奉らばや。又、御心も猛き人にておはしけり。『日本第一の剛の者。』と名乗るに、落武者の身として、この年の若きに返し合はせ給へるも、大将軍とおぼえたり。これは、公軍なり。あな、惜しや。如何せん。」と思ひ煩うて、暫し押さへて案じけるに、「前にも後ろにも、組んで落ち、おもひおもひに分捕しける間に、『熊谷こそ、一谷にて現に組みたりし敵を逃がして、人にとられたり。』といはれん事、子孫に伝へて弓矢の名を折るべし。」と思ひ返して申しけるは、「『よにも助けまゐらせばや。』と存じ侍れども、源氏、陸に充ち満ちたり。とても遁れ給ふべき御身ならず。御菩提をば、直実よくよくとぶらひ奉るべし。草の陰にて御覧ぜよ。疎略、ゆめゆめ候まじ。」とて、目を塞ぎ、歯をくひあはせて{*7}涙を流し、その首を掻き落とす。無慙と云ふもおろかなり。
 敦盛、死を恐れず、心を降さず。幼齢の人たりといへども、すこぶる凡庸の類に非ざりけり。平家の人々は、今討たれ給ふまでも、情をば捨て給はず。この殿、軍の陣にても、「隙には吹きなん。」と思しけるにこそ、色懐かしき漢竹の笛を、香も睦ましき錦の袋に入れて、鎧の引合にさされたり。熊谷、これを見奉り、「いとほしや。この程も城の中に、この暁も物の音の聞こえつるは、この人にておはしけり。源氏の軍兵は、東国より数万騎上りたれども、笛吹く者は、一人もなし。如何なれば、平家の公達は、かやうに優にはおはすらん。」とて、涙を流して立ちにけり。
 かの笛と申すは、父経盛、笛の上手にておはしけるが、砂金百両、宋朝に渡されて、よき漢竹を一枝取り寄せ、殊によき両節の間を一節{*8}取り、天台座主、前の明雲僧正に仰せられて、秘密瑜伽の壇に立てて、七日加持して、秘蔵して彫られたりし笛なり。子息達の中には、「敦盛、器量の仁なり。」とて、七歳の時より伝へて、持たれたりけり。夜ふくる儘にさえければ、さえだと名付けられけるなり。熊谷は、笛と頚とを手に捧げ、子息の小次郎がもとに行き、「これを見よ。修理大夫殿の御子に無官大夫敦盛とて、生年十六と名乗り給ひつるを、『助け奉らばや。』と思ひつれども、汝等が弓矢の末を顧みて、かく憂目を見る悲しさよ。たとひ直実、世になき者と成りたりとも、あなかしこ、後世弔ひ奉れ。」と云ひ含め、それよりして熊谷は、いよいよ発心の思ひ、出で来つゝ、後は軍はせざりけり。
 但馬守経正は、大夫敦盛の兄なり。赤地錦の直垂に、鎧はわざと著けざりけり。身を軽くして落ち給はん料にや、小具足ばかり、長覆輪の太刀を帯き、黄駱馬に乗り、侍一人も具し給はず、大蔵谷へ向ひて落ち給ふ。「これは、武蔵国の住人城四郎高家といふ者なり。こゝに落ち給ふは、平家の公達と見奉る。返し合はせて組み給へや、組み給へや{*9}。」と申し懸けて、追うて行く。経正、きつと見返して、「逃ぐるには非ず。己を嫌ふなり。」とて、馬を早む。高家、腹を立てて、「まさなき殿の詞かな。軍の習ひは、上下を嫌はず。向ふ敵に組むは、法なり。その義ならば、いけどりにして、恥を見せよ。打てや、者ども。打てや、者ども。」とて、主従三騎、鞭をあてて、追うて懸かる。「今は叶はじ。」と思ひ給ひければ、馬より飛び下り、腹掻き切つて、臥し給ひにけり。
 高家、落ち合ひ、首を捕つて見れば、たぶさに物を結ひ付けたり。軍終はりて、人にこれを問ひければ、梵字の光明真言なり。その真言の奥に、「たとひ朝敵となつて、頚をば渡さるゝとも、この真言をば必ず髻に結ひ付けらるべし。」とぞ書かれたる。哀れにぞおぼえける。首を渡されける時、聞こえけるは、この経正は、仁和寺の守覚法親王の年頃の御弟子にて、都を落ちし時、かの宮に参りて御暇を申しけるに、宮、「哀れ。」と思し召し、御自筆にあそばして給ひたりける真言なり。「哀れなり。」とて、結び付けたりける定にして{*10}、頚をば渡されけるなり。獄門の木に懸けられて後、御室より申されて、骨をば高野に送られて、様々御追善ありけるなり。土砂加持の功徳、猶ほ無間の苦をまぬかるといへり。いはんや即身に受けたもてらん{*11}においてをや。師資{*12}の契りは、多劫の因縁といへり。誠なるかな、この事をや。
 備中守師盛は、軍場をば遁れ出でて、小舟に乗つて渚を漕がせて、「助け船に移らん。」とおぼしけるほどに、武者一人、高岸に立ちて云ふ。「あれは{*13}、備中守殿の御舟と見まゐらす。これは、薩摩守殿の御内に豊島九郎実治と申す者にて侍り。助けさせたまへや。」と云ひて招きければ、「只一人なり。それ、乗れよ。」と宣ふ。水手等、「御船、狭く小さく候。如何。」と申しけれども、「只寄せて乗せよ。」と仰せられければ、漕ぎ寄せたり。実治は、大の男。しかも、鎧著ながら高岸より力を添へて飛び乗る。船ばたに飛び懸かりて、船を踏み傾けたるを、「のり直さん、のり直さん。」としける程に、踏み返して、皆海に沈みにけり。師盛は、浮き上がりたりけるを、伊勢三郎義盛、熊手に懸けて引き上げ、首を取りてけり。(異本には、「大臣御乳人子に清九郎馬允。」と名乗りて、舟を覆すと、云々。一谷にて討ちのこされたる平家の人々、船にこみ乗り、波にゆられて、浮きぬ沈みぬ、あるかなきかに漂ひけり。)
 新中納言、大臣殿に申されけるは、「武蔵守にも後れぬ。頼賢も討たれぬ。長家、有国なども、よも生き侍らじ。心細くこそ候へ。只一人持ちたる子が、『父を助けん。』とて、敵に組むを見ながら、親の身にて子をはぐゝむ心なく、落ち延びたるこそ、『命は、よく惜しきものかな。』と、身ながらもうたてくおぼえ候へ。人々の思し召さんも、恥づかしくこそ。」とて、さめざめと泣きたまふ。大臣殿は、「武蔵守は、心も剛に、手もきき、よき大将軍にておはせしものを。あな、惜しや。」とて、御子の右衛門督をうち見給ひ、「今年は同年にて、十七ぞかし。」とて、涙ぐみ給ひければ、人々も皆、袖をぞ絞りける。家長とは、伊賀平内左衛門、有国とは、武蔵三郎左衛門なり。これ等は、新中納言の一二の者にて、「命にも替はり、一所にて如何にもならん。」と、契り深かりければ、中納言も、子息の武蔵守と同じく、惜しみ給ひける侍どもなり。
 九郎義経は、一谷に棹結ひ渡して、宗徒{*14}の首ども取り懸けたり。千二百とぞ注したる。大将軍には越前三位通盛(門脇の子)、蔵人大夫業盛(同子)薩摩守忠度(入道の弟)、武蔵守知章(新中納言子)、備中守師盛(小松殿子)、若狭守経俊、但馬守経正、無官大夫敦盛(已上三人は修理大夫の子)。侍には越中前司盛俊、伊賀平内左衛門尉家長、武蔵三郎左衛門有国已下、京都、辺土の輩、四国、西国の者どもなり。その外は、さのみ名を注すにおよばず。箭にあたり、剣に触れて、ちまたに臥すやから、一谷の城郭のうち、東西の城戸のあたり、死人の多きこと、麻を散らせるがごとくなり。水に溺れ、山に隠れしものは、幾千万と云ふことを知らず。
 主上、女院、二位殿、内大臣、平大納言已下、ならびに人々の北の方、御船に召して、まのあたりこれを御覧ぜらる。「いかばかりの御事、おぼしめしけん。」と、推しはかられて、あはれなり。翠帳紅閨、万事の礼法ひき替へて、船中、波の上、一生の悲しみ、喩へん方こそなかりけれ。親は浪の上に漂ひ、子は陸の砂に倒れ、妻は船の中に焦がれて、夫は渚のかたはらに亡びぬ。友を忘れ、主を忘れても、片時の命を惜しみ、兄をあやしみて、弟をあやしむも、しばしの身をぞ蓄へたる。小水の魚のあわにいきつくが如く、客舎の羊の屠所に歩むに似たり。いつまで命を生んとて{*15}、各身をぞ惜しみける。
 討ち漏らされたる人々は、水手{*16}、梶取、八重の塩路に棹さして、波にぞゆられ給ひける。あるいは生田沖を漕ぎ過ぎて、雀の松原、昆陽の松、南宮の沖を沖懸けに、紀伊の地へ移る船もあり。あるいは芦屋の沖にかゝりて、九国へと急ぐ船もあり。鳴戸沖を漕ぎ過ぎて、屋島へ渡る船もあり。明石浦の波間より、淡路の狭迫を漕ぎ過ぎて、島隠れ行く船もあり。いまだ一谷の沖に漂ひて、波にゆらるゝ舟もあり。霜枯れの小竹が上の青翠、紫野に染めかへし、細谷川の水の色、薄紅にて流れたり。汀の波、湊の水、錦をあらふに似たりけり。

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校訂者注
 1:底本は、「同経盛」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 2:底本は、「護田鳥(うすべ)の毛の矢、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 3:底本は、「大将軍と見奉れ、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 4:底本頭注に、「水中で馬を烈しく駆けさせる時は水が鞠の如くはねあがるので其の様をいふ」とある。
 5:底本は、「鉄黒(かねぐろ)」。底本頭注に、「歯に鉄漿をつけて黒いのをいふ」とある。
 6:底本頭注に、「無官なれども五位の位を賜はれるもの。」とある。
 7:底本は、「くひあはせ涙を」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 8:底本は、「一節(ひとよ)」。底本頭注に、「節と節との間。」とある。
 9:底本は、「組み組へや。」。
 10:底本は、「定(ぢやう)にして」。底本頭注に、「儘にして。」とある。
 11:底本は、「受け持(も)てらん」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本は、「師資(しし)」。底本頭注に、「師弟。」とある。
 13:底本は、「あはれ」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 14:底本は、「宗徒(むねと)」。底本頭注に、「重立ちたるもの。」とある。
 15:底本は、「生きんと各」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 16:底本頭注に、「水夫。」とある。