熊谷敦盛の首を送る 附 返状の事
熊谷次郎直実は、敦盛の頚をば取りたれども、嬉しき事をば忘れて、たゞ悲しみの涙を流し、鎧の袖をうるほしけり。つらつら事の有様を案ずるに、愚かなる禽獣鳥類までも、子を思ふ道は、志深し。焔の中に身を亡ぼし、矢さきに当つて命を失ふ事も、子を思ふ情にあり。人倫いかでか憐れまざらん。弓矢取る身とて、何やらん、子孫の後を思ひつゝ、他人の命を奪ふらん。蜻蛉{*1}のあるかなきかの身を以て、何思ふべき世の末を、これ程に若くいつくしき上﨟を失ひ、歎き給ふらん父母の心の中こそいとほしけれ。「たとひ勲功の賞には預からずとも、この首、遺物、返し送り、今一度、替はれるすがたをも見せ奉らばや。」と思ひければ、実検にも合はせ、懸け頚にもしたりけれども、大将軍に申し請けて、馬、鞍、甲冑、弓矢、漢竹の笛、一つも取り落とさず、一紙の消息に相具して、敦盛の首をば、父修理大夫へぞ送りける。その状に云く、
{*2}直実、謹しみて言上す。不慮にこの君に参会し奉るの間、呉王、匂践を得、秦皇、燕丹に遇ふの嘉直をさしはさみ、勝負を決せんと欲するの刻、容儀を拝するによつて、俄に怨敵の思ひを忘れ、忽ちに武威の勇をなげうつ。あまつさへ守護を加へ、供奉し奉るの処、大勢襲ひ来るの間、始め源氏を辞し、平家に参ずといへども、かれは多勢なり、これは無勢なり。樊噲の威、かへつて縮まり、養由{*3}の芸、速やかにつゞむ。こゝに直実、たまたま生を弓馬の家にうけ、幸ひに武勇を日域にかゞやかす。謀りごとを廻らし、城を落とし、旗を靡かし、敵を虐げ、天下無双の名を得といへども、蟷螂、力を合はせて車を覆へし、螻蟻、心を一にして岸を穿つが如し。なまじひに弓を挽き、箭を放ち、むなしく愚命を同軍の戟塵に奪はれ、憂名を傍輩の後代におよぼさんこと、自他、身の本望に背き、家の面目に非ず。しかる間、この君の御素意を仰ぎ奉るの処、早く御命を賜はり、菩提をとぶらふべきの由、仰せ下さるゝにより、落涙を抑へながら、はからずして御頚を賜はり畢んぬ。恨めしきかな、この君と直実と、縁を悪世に結び奉る。悲しきかな、宿運久しく萌し、今に至って怨酬の害を成す。しかりといへども、この逆縁{*4}を翻へさば、いかでか互に生死のあざなひをたち、一荷の実{*5}を成さざらんや。しかれば則ち、ひとへに閑居の地形を卜し、ねんごろに御菩提を祈り奉るべし。直実申す所の真偽、定めて後聞、その隠れ無く候はんか。この趣を以て、御披露に洩らし有るべく候。恐惶謹言。
二月十三日 直実状
進上 平左衛門尉殿{~*2}
とぞ書きたりける。
修理大夫経盛は、この頚、遺物を送り得て、夢か現か分きかねて、物もおぼえず泣き給ふ。公達、あまたおはしけれども、この殿は、末の子にて、殊に憐れみ給ひつゝ、前にて生ほし立てて、みめも心も世に有り難き人にて、分くる方なく思はれしに、軍場に出でて、その後、「敵にや取られけん。深き海にや沈みけん。遁れてよそにやあるらん。」と、そのゆくへを知り給はねば、忍びの涙を拭ひて、神に祈り、仏に誓ひて、「存命せるか、死せるか知らばや。」と思はれけるに、今は、不審は晴れたれども、見ては歎きぞ増さりける。生しき頚を膝の上にかき載せて、「如何にや、如何にや、敦盛よ。かかるすがたをみする事こそ悲しけれ。」とて、流るゝ涙は雨の如し。前に候ひける女房も兵も、只夢の如くに思ひつゝ、袖をのみこそ絞りけれ。「使の侍も心元なし。」とて、泣く泣く返事せられけり。その状に云く、
{*6}敦盛、並びに遺物等、給はり候ひ畢んぬ。この事、花洛の古郷を出で、西海の波上に漂ひしより以降、かねて存ずる所なり。今驚くべきに非ず。故に戦場にのぞむの上は、何ぞ再帰の思ひ有らんや。盛者必衰{*7}は無常の理なり。老少前後は穢土の習ひなり。しかりしかうして、親となり子となる。先世の契り、浅からず。釈尊、羅睺{*8}の存をめで、楽天{*9}、一子の別れを悲しむ。応身、権化{*10}だに猶ほ以てかくの如し。いはんや凡夫、いかでか歎かざらんや。しかるに去んぬる七日、戦場にうち立つの朝より、旅船に後るゝの暮にいたるまで、その面影、未だ身を放たず。来燕の声幽かに、帰雁の翅むなし{*11}。死生、告ぐる者無くして行方に迷ひ、存亡、音信を聞きて由緒を知らんと、天に仰ぎ地に伏してこれを訴へ、心を砕き肝を焦がしてこれを祈る。ひとへに神明の納受を仰ぎ、しかしながら仏陀の感応を待つの処、七日の内において、今この貌を見るに、仏神の効験、誠有りて虚しからず。内には哀傷、骨に徹し、外には感涙、袖にそゝぐ。生きて再来に劣らず、蘇りて重見に相同じ。そもそも貴辺の芳恩に非ずば、いかでか今、相見るを得んや。一門の風塵だに、猶ほ捨てゝ退く。いはんや軍徒怨敵の人においてをや。和漢両国の儀をとぶらひ、古今数代の法を顧みるに、未だその例を聞かず。この恩の深厚なること、須弥、すこぶるひきく、蒼海、かへつて浅し{*12}。進みては過去遠々より酬い、退きては未来永々に報じ難きものか。万端多しといへども、筆紙に尽くし難し。謹言。
二月十四日 左衛門尉平公朝
熊谷次郎殿 御返事{~*6}
とぞ書かれたる。
直実は、この返事を給はつて、いとゞ涙を流しつゝ、せん方なくぞ思ひける。穢土の習ひを悲しみて、「遁ればや。」と思ひけるが、西国の軍鎮まりて、黒谷の法然房に参りつゝ、髻を切り、蓮生と名を付けて、終に世をこそ背きけれ。
校訂者注
1:底本は、「蜻蛉(かげろふ)」。底本頭注に、「虫の名。短命なるにたとへる。」とある。
2・6:底本、この間は漢文。
3:底本頭注に、「〇樊噲 漢の高祖の功臣」「〇養由 楚の大夫養由基のことで射術の名手。」とある。
4:底本頭注に、「病患を受け妻子に別れるなど総て違逆の事より仏法に近づく因縁をいふ」とある。
5:底本頭注に、「一荷は一蓮で極楽に往生し身を同一の蓮の上に託する事。実とは極楽往生の絶果の真実なること」。
7:底本は、「盛者必滅」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
8:底本頭注に、「釈尊の嫡子羅睺羅。」とある。
9:底本頭注に、「白楽天。」とある。
10:底本頭注に、「〇応身 仏三身の一でこゝでは釈迦をいふ」「〇権化 権現と同じく仏菩薩が聖位より権に現はれて人となるもので、こゝでは白楽天をいふ。」とある。
11:底本頭注に、「敦盛の生死が杳として知れないのをいふ。」とある。
12:底本頭注に、「恩の高きことは須弥山もなほ低く其の深きことは蒼海もなほ浅しといふ。」とある。
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