小宰相局 附 慎夫人の事
さても、今度討たれ給へる人々の北の方、皆髪を下して姿を替へ、流す涙に袖朽ちて、身を墨染にやつしつゝ、念仏申して後世弔ひ合はれけるこそ哀れなれ。その中に、本三位中将重衡卿の北の方も、既に、「御髪、下さん。」とし給ひけるを、「内の御乳母{*1}なり。いかゞはさる御事侍るべき。と、大臣殿、あながちに制し申されければ、力及ばずして、尼には成り給はざりけり。越前三位通盛は、大臣殿の御婿にておはしけれども、女房、未だをさなくおはしければ、近付き給ふことはなし。小宰相局と申す女房をぞ相具し給ひたりける。
かの局と申すは、故刑部卿憲方の娘、上西門院の女房なり。「心に情深く、形、人に勝れ給ひたり。」と聞こえしかば、心を懸けぬ人はなし。上西門院、四方の花を御覧のために、北野の御幸ありけるに、小宰相局をも召し具せさせ給へり。越前三位の左衛門佐にておはしけるをも、御伴にさされて参りけり。万里を飛びし梅の花、一夜に生ふる松が枝。現神人{*2}の効験も、今更貴く思し召し、漸う社壇も近付けば、大内山{*3}の霞は、木隠れてのみ見え渡る。女院、御車より下りさせ給へば、小宰相局も下り給ひけり。通盛、ほの見給ひて、宿所に帰りて、「忘れん。」とすれども忘られず、「如何せん。」とぞ思はれける。又萌え出づる春の草、主なき宿の埋づみ火は、下にのみこそ焦れけれ。
乳母の女房を招きて、「如何はせん。」と、この物語ありければ、「思ひ寄らざる御事なり。当時、女院の御方に候はせ給ひて、片時も御前を立ち離させ給はぬものを。」と申しければ、「一筆の文までも叶ふまじきか。」と問ひ給へば、「それは、何か苦しく侍るべき。」と申す。「さらば。」とて、御文あり。
吹き送る風のたよりに見てしより雲間の月に物思ふかな
と書きて奉る。小宰相は、「人や見つらん。浅ましや。思ひ懸けず。」とて返事なし。これを便りとして、三年が程、書き尽きぬ水茎{*4}の数積もれども、終に返事なかりけり。
通盛、御所の舎人を語らひて、御文を書きて、これを持ちて小宰相局に奉りて、「散らぬ所に打ち置け。」とて、給びてけり。舎人、御文を給はりて、隙を伺ひけるに、局、女院の御所へ参り給ひけり。折節、御所近く成つて、車の物見より投げ入れて、使ははや失せにけり。小宰相局、車の内にて忍び騒ぎ給ふ。「これは、如何なる人の伝ぞや。」と宣へども、御伴の者も、「知らず。」と申しければ、「大路に捨てんもさすがなり。車に置かんもつゝましく。」思ひ煩ひ、いかにすべき様もなく、袴の腰に挟みて、御前へ参らせ給ひぬ。隙なき御遊に打ち紛れておはしける程に、女院の御前にしも、この文を落とし給ひにけり。
女院、御衣の御袂に引き隠させおはして、御遊の後、女房達の中にて、「かかる文を求めたり。主、誰ならん。」と仰せければ、我も、我も、「知らず。」と申させ給ひけるに、小宰相局、ゆゝしく浅まし気なる有様にて、あきれてぞ見え給ふ。女院、この文を取り出させ給へば、妓炉{*5}の煙に薫りつゝ、香もなつかしき匂ひあり。手跡も、なべてならずいつくしく、筆の立ちどもめづらかなり。
わが恋は細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるゝ袖かな
踏み返す谷のうき橋浮世ぞと思ひしりてもぬるゝ袖かな
「つれなき御心も、今は中々嬉しくてなん。」と書きたり。
「これは、逢はぬを恨みたる文なり。何と思ひなるべき人やらん。『左衛門佐の申す。』とは聞こし召ししかども、細かには知ろし召さず。あまりに人の心強きも、讐となるものをや。この世には、まのあたり青鬼と成りて、身をいたづらになし、又、後世の障りともなる。今の世には、又ひとり行く道にしも{*6}合はせて、情なき事を、あた{*7}とも申し伝へ侍り。人をも身をも鬼になして、何にかせん。繋念無量劫とかやも罪深し。中頃、小野小町と云ひけるは、容顔人に勝れ、情の色も深かりければ、見る人も聞く人も、肝を働かし心を傷ましめぬはなかりけり。されども、その道{*8}には心づよき名を取りたりけるにや、人の思ひの積もりつゝ、はては、風を禦ぐ便りもなく、雨を漏らさぬわざもなし。空にくもらぬ月星を涙に宿し、人の惜しむものを強ひて乞ひ、野辺の若菜摘みて命を継げるには、青鬼こそ床をば並べける。一夜の契り、何か左程苦しかるべき。」とて、女院、御自ら御硯引き寄せおはしまして{*9}、
たゞ憑め細谷川の丸木橋ふみ返しては落つる習ひぞ
谷水の下に流れて丸木橋ふみ見て後ぞ悔やしかりける
と遊ばして、女院、御なかだちにて渡らせ給へば、力及ばで、終に靡き給ひにけり。
仙宮の玉妃、天地をかねて契りけん深き志もゆかしくて、雲上の御遊にも、今はすゝましからぬ程のなからひなり。かくて馴れ初め給ひて、日頃へけるに、通盛、ある女房に心を移して、かれがれ{*10}になりければ、小宰相局、かくぞ怨みやり給ひける。
呉竹のもとは逢ふ夜も近かりき末こそ節は遠ざかりけれ
もとよりにくからざりける中なれば、通盛、この文にめで給ひ、互に志浅からずして、年頃にもなり給ひければ、これまでも具し下り給ひけり。
(昔、漢の文帝、上林園に御幸あり。慎夫人といへる女御、座を並べておはしますを{*11}、袁盎と云ふ臣下、夫人の座を退く。帝、御気色かはり、夫人、いかれる色あり。袁盎、畏まつて申す、「公に后おはします。又、妾おはします{*12}。妾は座を並べざれども、后は席を一にす。夫人は妾にして、后に非ず。何ぞ公と床を共にせん。昔の人彘がためしを思ひ知り給へ。」と云ひければ、夫人、この言を悟り得て、袁盎が賢心を歎じ給ひ、金五十斤を給ふといへり。迎へるを妻と云ひ、走れるを妾と云ふ本文あり。)
越前三位通盛も、この事を思ひ知り給ひけるにや。大臣殿の御娘{*13}は妻室なり。夫婦の契りにおはしければ、小宰相局は、仮り初めの眤びなり。妾にてぞおはしける。一つ御船には住み給はで、別の船に宿し置き奉り、三年の程、波の上に漂ひ、時々、事を問ひ給へり。中々、情ぞ深かりける。軍より先に、三草山の仮屋へ呼び奉り給ひけり。旅寝の空の草枕、「今こそ最後。」と知り給へ。
三位の侍に宮太滝口時員と云ふ者あり。一谷の合戦に討ち漏らされたりけるが、船の中に参りて申しけるは、「三位殿は、湊川の下にて、近江国の住人、佐々木の一党木村源三成綱と云ふ者が手にかゝりて、討たれさせ給ひぬ。」と泣く泣く語り申しければ、北の方{*14}は、つゆ物も仰せられず。かねて思はぬ外の事の様に、引きかづき臥し給ひて後は、枕も床も浮きぬばかりぞ泣き給ふ。今度討たれ給へる人々の北の方、いづれも歎き悲しみ給へる有様、おろそかなりとも見えざりけれども、これは、理にも過ぎ給へり。
乳母子なりける女房の只一人付き奉りたりけるも、同じ枕に臥し沈みたりけるが、涙を押さへて申しけるは、「今は、如何に思し召すとも甲斐あるまじ。御身々{*15}とならせ給ひて後、御さまをも替へ、後世をも弔ひまゐらせさせ給へ。かかる浮世の習ひなれば、始めて驚き思し召すべからず。御身一つの事なりとも、如何はせん。人々の北の御方も、皆かくこそ。」など慰め申しけれども、只泣くより外の事なし。返事をだにもし給はず。「一定、討たれぬ。」とは聞き給ひけれども、「もしや、生きて帰る。」と待ち給ひけるに、日数経て、四、五日にも成りぬ。一谷は、七日に落とされたりけるに、十三日までぞ臥し沈み給へる。
「明くる日十四日に、屋島の磯へ付くべし。」と聞こえけるその夜、人しづまりて、乳母子の女房に宣ひけるは、「『三位は討たれたり。』と、人ごとに云ひつれども、『余の人々も、あなたこなたに落ち散り給ひぬ。』と聞けば、さもやあらんと思ひて、誠とも思はざりつるが、この暁よりは、げにもさもあらんと思ひ定めたるなり。その故は、明日打ち出でんとての夜は、夜もすがら、いつよりも心細き事どもを云ひ続けて、涙を流しつゝ、『如何にも我は、明日の軍に討たれんずるとおぼゆるぞ。されば、後にいかなる有様にてか、世にもおはせんずらんと思ふこそ、心苦しけれ。世の習ひなれば、さてはよもおはせじな{*16}。如何なる人にか見え給はんずらん。そも、心憂。』など云ひしかば、いかにかくは宣ふやらんと、心騒ぎしておぼえしかども、必ずしもかかるべしとは思はざりしに、げに限りにてありける事の悲しさよ。生きて物を思ふも苦しければ、水の底にも入りなんと思ふなり。これまで付き下りて、一人残り居て思はん事こそいとほしけれ。故郷に待ち聞きて歎き給はんも罪深けれども、この世にながらへてあるならば、心の外の事もあるぞかし。なき人の魂、草の陰にて見んも、うたてかるべし。如何なる男なれば、『蓬が杣にも後れじ。』とは契りけるぞ。如何なる女なれば、つれなく残り居て、なげくべきぞ。たゞならずなりたる事を、その夜始めて知らせたりしかば、なゝめならず悦びて、『我{*17}、三十になりぬれども、未だ子のなかりつるに、始めて見ん事は嬉しけれども、かくいつとなき船の中、波の上の住居なれば、身々とならん時も、通盛、いかゞはせんずる。』と、只今あらんずる事の様に歎きしぞや。はかりなかりけるかね言{*18}かな。中々、何しに知らせけん。」とて、涙もせき敢へず泣き給ひければ、乳母子の女房、思ひけるは、「日頃は、泣き給ふより外の事なくて、はかばかしくものも宣はざりつるに、かく細やかに、来し方ゆく末の事まで口説き給ふこそ怪しけれ。げにも、千尋の底までも思ひ入り給はんずるやらん。」と、胸打ち騒ぎ、申しけるは、「水の底に入らせ給ひたりとても、恋しき人を見奉るべきに非ず。今は、云ふに甲斐なき御事なり。それよりは、只平らかに身々とならせ給ひて後、をさなき人を生ほし立て奉り、御形見とも御覧じ、又、故郷におはします人々にも見え奉りおはしまし{*19}候べし。御身をなきものになし給ひては、何の詮かは侍るべき。我が身も、故郷に老いたる親をも棄てて、これまで下り侍りし事は、いかならん野の末山の奥までも、離れ奉らじとこそ思ひしか。されば、無き人{*20}の御事は、今は力なき御事にて侍り。わらはも、知らぬ旅の空、習はぬ船の中に住居して、夜昼心を砕き、憂目を見候事も、御故にこそ{*21}堪へ忍びても過ごし侍る志を、忘れさせ給ひて、誰を憑み、何に慰めとて、さやうの事思し召し立つらん悲しさよ。せめては御すがたを替へさせ給ひて、墨染の袖に身をやつし、苔むす庵に篭り居て、閼伽を結び{*22}花を採り、御菩提をこそ弔ひおはします{*23}べきに、悲しみの余りに海に入らせ給ひたらんは、中々罪深き御事にてこそ候はめ。」など、細々に慰め制しける程に、夜も漸うふけければ、乳母子の女房もまどろみぬ。
船の中も、はやしづまりたりけるに、小宰相局、忍びて船端に立ち出で給ひつゝ、念仏百返ばかり申して後、「南無西方極楽世界、大慈大悲阿弥陀如来。本願誤り給はず、別れにし三位通盛と、一仏浄土の蓮葉に導き給へ。」と、忍び音に祈りつゝ、漫々たる海上なれば、いづくを西とはわかねども、月の入るさの山の端を、そなたとばかり伏し拝み、海へぞ飛び入り給ひける。
三位は、この女房の十五と申しけるより見初め給ひて、今年は十九に成り給ふ。束の間も離れ難く思はれけれども、大臣殿の御婿にておはしければ、「その方ざまの人には知らせじ。」とて、官兵どもの船に宿し置き奉りて、時々見参せられけり。屋島へ漕ぎもどる夜半ばかりの事なれば、船人も皆、より臥したりけるに、楫取どもはこれを見て、「こは如何に。女房の海へ入り給ひぬるぞや。」とのゝしりければ、乳母子の女房、打ち驚き、心迷ひして、傍を探るに人もなし。「あな、心憂や。あれや、あれや。」と叫びければ、各、海に飛び入りて、「取り上げ奉らん。」としけれども、折しも月さへ朧にて、阿波の鳴戸の癖なれば、満ち潮引き潮あらそひて、潜れども潜れども見えざりけり。
相構へて取り上げたりければ、この世にもはや無き人になりたまひにけり。白袴に練貫の二つ衣{*24}引き纏ひて、髪より始めてしをれつゝ、僅かに息ばかり通ひ給ひけれども、目も見開き給はず、寝入りたる様にぞおはしける。乳母子の女房、をめき叫びて、近づくより{*25}手を取り組みて、「如何にかく心憂き目をば見せ給ふぞや。多き人の中に、相具せんと候ひしかば、老いたる親にも別れ、をさなき子をも振り捨てて、これまで付きまゐらせて下りたる志をも、思し召し忘れさせ給ひ、我が身一人を残し置き、かく成り給ひぬる事の口惜しさよ。水の底へも引き具してこそ入り給はめ。片時離れ奉らんとも思はざりつるものをや。長き世の恨み、如何にせよとて。せめては今一度、物仰せられて、聞かさせ給へ。さしも夜もすがら、この事をこそ申し侍りしに。まどろむを待ち給ひける悲しさよ。」とて、手に手を取り、顔に顔を並べて口説きけれども、一言の返事もし給はず。船の中の上下、これを見て、皆涙をぞ流しける。夜も既に明けなんとして、程も経にければ、叶ふべくも見えず。たまたま通ひける息も止まりて、事切れ果てにけり。
「さてしもあるべきに非ず。」とて、三位の著背長{*26}の残りたりけるに、「浮かびもぞ上る。」とて押し巻き、又海へ入れ奉る。乳母子の女房も、「後れじ。」と、つゞきて海へ入りけるを、人々、取り留めたりければ、船の中に臥し倒れ、をめき叫びけり。理に過ぎて無慙なり。余りの悲しさに、自ら髪をはさみ下したりければ、中納言律師忠快、尼になし、戒を授け給ふ。門脇中納言も、憑み給へる嫡子越前三位と、最愛の乙子蔵人大夫業盛とて、今年十七になり給へりし、二人の御子達を討たれつゝ、かたがた歎き深かりけるに、「三位の形見とて、この小宰相局{*27}をこそ見奉らん。」とおぼしけるに、かくなり給ひ{*28}ぬる哀さよ。とにもかくにも涙せき敢へ給はず。心の中、只推し量るべし。
薩摩守忠度、但馬守経正、この人々の北の方も、おはし合はれけれども、涙に沈みながら、さてこそおはしけれ。昔も今も、夫に後れて様などかふるは、尋常の習ひなり。忽ちに身を投ぐる事は、例少なくぞあるらん。昔、天竺の金地国の后は、王のなごりを惜しみて、「王と一所に生まれん。」とて、葬火の中に飛び入りて亡びにけり。今、日本の通盛の北の方は、三位の別れを悲しみて、海に沈みて消えにけり。火に飛び入り、水に入る。志、とりどりにこそ哀れなれ。
権亮三位中将維盛は、この有様を見給ひて、うち涙ぐみ、「賢しくぞ、この人ども{*29}を心づよく留め置きてける。我も具したりせば、かかる事にこそあらんずらめ。」と宣ひけるこそいとほしけれ。
校訂者注
1:底本は、「内(うち)の御乳母(おんめのと)」。底本頭注に、「安徳天皇の乳母。」とある。
2:底本は、「現神人(あらひとがみ)」。底本頭注に、「普通には天皇の義であるがここでは菅公を指す。」とある。
3:底本頭注に、「普通には禁中の義であるがここでは北野の北方に在る山。」とある。
4:底本は、「水茎(みづくき)」。底本頭注に、「消息文。」とある。
5:底本は、「妓炉(ぎろ)」。底本頭注に、「香をたく大炉をいふ。其の煙で文を認めた紙をたきしめる。」とある。
6:底本は、「道にしても」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い削除した。
7:底本は、「宛(あた)」。底本頭注に、「怨の当字。」とある。
8:底本頭注に、「好色の道」とある。
9:底本は、「引き寄せおはして、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
10:底本頭注に、「離れ離れ。」とある。
11:底本は、「女おはすを、御座(ござ)を並べて、袁盎」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
12:底本は、「公(きみ)に后(きさき)おはす、又妾(せふ)坐(おは)す、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
13:底本は、「大臣殿の娘」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
14:底本頭注に、「小宰相局」とある。
15:底本は、「御身々(おんみゝ)」。底本頭注に、「子を産みて分身すること。」とある。
16:底本頭注に、「まさか其の儘にては居るまい。」とある。
17:底本は、「我が三十」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い削除した。
18:底本は、「兼言(かねごと)」。底本頭注に、「かねて言ひ置ける言。」とある。
19:底本は、「おはし候べし。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
20:底本頭注に、「通盛。」とある。
21:底本は、「御故(おんゆゑ)にこそ」。底本頭注に、「そなた即ち小宰相局の故に。」とある。
22:底本は、「閼伽(あか)を結び」。底本頭注に、「仏に供へる水を汲み。」とある。
23:底本は、「弔(とぶら)ひおはすべきに、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
24:底本は、「二衣(ふたつぎぬ)」。底本頭注に、「小袿にて二つ重ねたる衣。」とある。
25:底本は、「近くより」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
26:底本は、「著長(きせなが)」。底本頭注に、「大将が著する鎧。」とある。
27:底本は、「この宰相(の)局」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
28:底本は、「かくなりぬる」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
29:底本頭注に、「自分の妻子。」とある。
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