平家の首獄門に懸くる 附 維盛北の方首を見らるゝ事
源氏は、七日卯の時に一谷の矢合はせして、巳の時に平家を追ひおとし、二千余人が首ども切つて懸く。その内、宗徒の人々十人が首、取り持たせて、同じき十日、「上洛。」と披露あり。平家のゆかりの人々、さすが多く京に残りとゞまりたりければ、これを聞き、「誰々なるらん。」と肝心を消す。その中に、権亮三位中将の北の方は、遍照寺の奥、小倉山の麓、大覚寺と云ふ所に忍びて住み給ひけるも、隙なきものおもひにてぞおはしける。風の吹く日は、「今日もや、この人{*1}の船に乗り給ふらん。」と肝を消し、軍と聞こゆる折節は、「今日や、この人の討たれ給ひぬらん。」と、しづ心なく思しけるに、首どもの多く上るなれば、「この中には、よもはづれ給はじ。」と思はれけるこそいとほしけれ。
「三位中将と云ふ人の、いけどりにせられて上る。」と聞こえければ、をさなき者どもの恋しさも忍び難し。「いかにしてこの世にて今一度相見んずる。」と、返す返す云ひしかば、「都にあるならば、もし見る事もや。」など思ひて、「この人の生きながら取られて上りたるやらん。たとひ見、見えん事は嬉しけれども、京、鎌倉、恥をさらさん事は、その身のため心憂かるべし。」など口説き続け給ひて、伏し沈みてぞおはしける。さても、「三位中将とは、重衡卿のことなり。」と聞きて後も、「今度、はづれ給ひたりとも、終には如何聞こえんずらんと、慰む心もなきぞよ。」とて、袖を絞り給ふこそ、せめての事と哀れなれ。
同じき七日夜半に、西海の追討使源九郎義経、飛脚を奉りて申しけるは、「逆徒、去んぬる五日より、摂津国一谷に、上には城郭を構へ、軍陣を張り、下には砂浜を掘りて逆茂木を立つ。大将軍前内大臣已下は、兵船に乗りて海上に浮かび、その勢十万余騎なり。南浜のかけ手は範頼、北の山の搦手は義経。今日辰の刻に、両方より賊徒の軍をかけ襲ひ、忽ちに敗れ、平三位通盛卿、前但馬守経正、前薩摩守忠度、前若狭守経俊、前備前守国盛、前備中守師盛、前武蔵守知章、散位業盛、敦盛。郎従前越中守盛俊等、討ち捕り畢んぬ。この外、首を斬る者三百八十人。前左三位中将重衡卿は、甲冑を脱ぎ棄てて上の山へ遁れ入るといへども、延びやらずして、即ちいけどられ畢んぬ。前内大臣、前平中納言教盛已下は、船に乗り逃げ去り畢んぬ。」とぞ申しける。
十三日に、大夫判官仲頼、六條河原にて、九郎義経の手より平氏の首ども請け取つて、東洞院の大路を北へ渡して、左の獄門の樗の木に懸けらる。通盛、忠度、知章、経俊、師盛、経正、業盛(已上大将軍)。盛俊、家貞(侍)。この人々の頚なり。
そもそもこの頚ども、大路を渡し獄門に懸けらるべきの由、範頼、義経、兄弟両人奏し申しければ、法皇、思し召し煩はせ給ひて、蔵人右衛門権佐定長を御使にて、太政大臣、左右大臣、内大臣、堀川大納言に御尋ねあり。五人の公卿、一同に申されけるは、「この輩は、先帝の御時、戚里の臣{*2}として、久しく朝家に仕へ奉りき。なかんづく卿相の首、大路を渡し獄門に懸けらるゝ事、未だその例なし。範頼、義経が申し状、あながちに御許容あるべからず。」と申されければ、渡さるまじきにてありけるを、九郎義経、重ねて奏し申しけるは、「父義朝は、保元の逆乱に味方に参りて、凶徒を退け合戦の忠をぬきんづといへども、平治に悪衛門督信頼卿の語らひにより、こゝろならず勅勘を蒙る間、その頚、大路を渡されて、骸を獄門にさらす。かれを以てこれを案ずるに、平家、昨日までは朝家の重臣として卿相に列なるといへども、今日は国家の逆臣として、已に勅勘を蒙る。なかんづく命を軽んじ身を捨てて合戦を仕る事、且は朝威を重んじ奉り、且は父の恥をきよめんがためなり。舎兄鎌倉の頼朝、深くこの旨を存ず。しかるを、且は取り得る処の平家の首、申し請ひに任せ大路を渡されずば、向後、何の勇みあつて朝敵を誅戮すべき。」と、殊に憤り申しければ、力及ばせ給はで、終に大路を渡し、獄門に懸けられけり。昔は、北闕の群臣に列なり、足に雲上の台を踏みしかども、今は西海の凶賊となりて、首を獄門の枝に懸けられけり。京中の貴賤、多くこれを見る。老いたるも若きも、涙を流し、袖を絞らずと云ふ事なし。
権亮三位中将の北の方は、この事を伝へ聞き給ひて、「かの首の内には、我が人{*3}、よも遁れたまはじ。」とおぼしければ、斎藤五、斎藤六を召して、「己等は、無官の者とて、出仕の伴をもせざりしかば、いたく人に知られず。この二、三年のほど、入り篭りて色も白くなり、老い替はりたる様なれば、知りたる者も今は見忘れたるらんとおぼゆるぞ。渡さるゝ頚の中に、この人やましますらん。見て参れ。」と仰せられければ、兄弟、様をやつし、姿を替へて、大路に出でてこれを見るに、維盛の御頚はなかりけれども、一門の人々の首どもなれば、目もあてられず、哀れに悲しくおぼえて、つゝむ袂の下より、余りて涙ぞこぼれける。片への者ども、怪しげに見ければ、さすが空恐ろしくおぼえつゝ、急ぎ大覚寺に帰りて申しけるは、「小松殿の公達には、備中守殿の御頚ばかりぞおはし候ひつる。その外は、誰々。」と語り申しければ、北の方は、「心憂や。人の上ともおぼえず。」とて泣き給ひけるぞ、「誠に。」とおぼえていとほしき。
斎藤五が申しけるは、「見物の者の中に、雑色かとおぼしきが、ゆゝしく案内知りたりげに候つるが、四、五人立ちて、互に物語申し侍りつるは、『小松殿{*4}の公達は、今度は三草山の大将軍にて、新三位中将殿、少将殿、備中殿、三所向かはせ給ひたりけるが、陣を破られて、二所は御船に召して、讃岐の地へ著き給ひにけりと聞こゆるに、この備中殿は、いかにして兄弟の御中を離れて、討たれ給ひけるやらん。』と申しつるに、『さて、三位中将殿はいかに。』と尋ねまゐらせ候ひつれば、『その殿は、御所労にて、今度は打ち立ち給はず。船に乗り給ひて淡路へ渡らせ給ひけるぞ。』と語り候ひつる。」と申しければ、北の方、「あな、痛ましや。故郷に残し留め給へる身々の事の悲しさに、思ひ歎きの積もりつゝ、病となりにけるにこそ{*5}。世にも又、心強き人かな。所労、大事ならば、『かくこそありて、軍にもあはず淡路へ渡りぬる。』と、などや音づれ給はざるらん{*6}。人は、かやうに心強きにこそ。」とて、又さめざめと泣き給へば、「げに、理。」とおぼえつゝ、よその袂も絞りにけり。
「さても、都を出で給ひしより後は、我が身の侘しき事をば一言も宣はず、『をさなき者どもはわぶるか。終には一所にてこそ住まんずれ。』とのみ、時々音づれ給ふばかりなり。それも憑もしくもおぼえず。皆人も具すればこそ、野の末山の奥にも、一所にあらば、互に悲しき事をも慰むべきに、所々に住めばこそ、折に触れて、かくのみ心をも砕き、又、人もいたはり給ふらめ。いかゞして人を下して、『何事の御いたはりぞ。』と、慥かの事をも聞くべき。」と、怨み口説き給ひければ、六代殿、「など、やをれ、斎藤五、それ程に細々と物語する程の者に、『何の御いたはりぞ。』とは問はざりけるぞ。あな、不覚の者や。」と宣ひければ、斎藤五は、「未だをさなき御心に、これまで思し召し寄りける事よ。」と、いとゞ涙を催しけり。
三位中将も、通ふ心の中なれば、「渡さるゝ頚の中に我が首なくば、『水の底にも入りにけるやらん。』と、如何に覚束なく思ふらん。」とて、おろかならぬ者を使にぞ上されける。「今日までは、露の命も消えやらでこそ侍れ。打ち棄てて下りし後は、『いかにして世にも立ち廻り給ふらん。』と心苦し。をさなき者どもの方に、何事か。」など、細やかに書き給へり。心の中に思ひ立ち給ふ事ありければ、「これを限り。」とおぼしけるに、涙にくれて、書きもやり給はず。若君姫君の御もとへも御文あり。「『旅の空に憂き事もや。』とて留め置きたりしかども、中々心苦しければ、必ず迎へとり、互に相見んずるなり。もし又、世になきものと聞きなし給はば、これを形見にも御覧ぜよ。」と書き給ひたれども、「これが最後の筆のすさみ。」とも、いかでか思し召すべき。只、「いつか無き人と聞きなさんずらん。」と、かねておぼすぞ悲しき。
校訂者注
1:底本頭注に、「己の夫維盛。」とある。
2:底本は、「戚里(せきり)の臣」。底本頭注に、「外戚の臣。」とある。
3:底本頭注に、「己が夫維盛。」とある。
4:底本頭注に、「平重盛。」とある。
5:底本は、「病となりにけるこそ、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
6:底本は、「音信(おとづ)れ給はざらん、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
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