重衡京入り 並 定長問答の事

 本三位中将重衡卿は、荘三郎家長にいけどられて、再び都へ帰り上り給ふ。懸けらるゝ頚どもも{*1}、さる事なれども、生きながら故郷に恥をさらし給ふこそ無慙なれ。六條を東へ渡されけり。貴賤男女、市の如くに集まり、これを見る。口々に申しけるは、「あまたの殿原の中に、入道殿にも二位殿にも、おぼえの御子{*2}にておはせしかば、一家の人々も重んずる事に思ひ給ひたりき。院、内へ参り給ひしかば、老いたるも若きも、所を置き、もてなし奉らせ給ひき。時々は、口をかしき事{*3}なんどをも云ひ置きて、人に忍ばれ給ひしものを、如何なる罪の酬いにて、かくはなり給ひぬるやらん。」といへば、ある人の申しけるは、「いかでか報いざるべき。まのあたり南都東大寺より始めて、仏像経巻焼き亡ぼしし報いなれば、かかる憂目を見給ふにや。されども、あはれ、事に触れて人に情をかけ、よろづに甲斐甲斐しくはなやかなりし人ぞかし。親のいとほしみもさる事にて、よその人までも憑もしき事に思ひ申ししぞかし。」なんど、上下、口々に憐れみけり。院宮の女房達の中にも、馴れ近付き給ひたる人々も多くおはしければ、これを聞き見ては、只夢の心地してぞおぼしあはれける。
 十四日、蔵人右衛門権佐定長、法皇の仰せによつて、「故中御門中納言家成卿の八條堀川の御堂にて、本三位中将を召し問はるべし。」とて、土肥次郎実平、同車して来り給へり。重衡卿は、紺村濃の直垂に練貫の二つ小袖を著られたり。折烏帽子を引き立て給へり。土肥次郎は、木蘭地の直垂に、膚に腹巻を著たり。郎等三十人を相具して、皆甲冑を著す。蔵人右衛門権佐は、赤衣{*4}に剣、笏を帯せり。昔は、人の数ともおぼさざりしに、今は、生きながら冥官にあひ給へる心地して、恐ろしくぞおもはれける。
 定長、院宣の趣、條々くはしく重衡卿に仰せ含められける中に、「三種の神器を都へ返し入れ奉らば、頼朝に仰せられて、死罪をもゆるされ、西国へも返し遣はさるべし。」とぞ仰せける。重衡卿、院宣の御返事申されけるは、「先祖平将軍貞盛が時より、故入道相国{*5}に至るまで、代々朝家の御守りとして、一天の御固めたりき。しかるを、入道薨去の後、子孫、君に棄てられまゐらせて、西海の浪に漂ふ。通盛已下の一門、多く一谷にして誅せられ、その首、獄門に懸けられぬ。重衡、又かかる身に成りぬれば、一人西国に帰り下りて候とも、負くべき軍に勝つこと侍るまじ。返し下されずとも、勝つべき軍に負くる事候まじ。宿運、忽ちに尽きて、一門の中に重衡一人、いけどられて故郷に帰り上り、恥をさらす。されば、親しきものに面を合はすべしともおぼえず。今一度見んと思ふ者は、よも候はじ。もし母の二位尼などや、恩愛の慈悲にて、無慙とも思ひ候はん。その外は、哀れを懸くべしとも存ぜず。なかんづく主上の帰り入らせ給はざらんには、三種の神器ばかりを入れ奉ることは、有り難くこそ存じ候へ。しかれども、忝く院宣を蒙る上は、『もしや。』と、私の使にて申し試み侍るべし。」とて、平左衛門尉重国と云ふ侍を下し遣はすべき由、申されけり。
 この重国と云ふは、重衡卿のをさなくより不便の者に思はれて、自ら烏帽子を著せ給ひ、片名をたびて、重国と呼ばれけり。三位中将、かやうに甲斐甲斐しく御返事をも申されけれども、心憂き事に思されつゝ、うちうつぶきて、只涙をのみぞ流し給ふ。御使定長も、岩木をむすばぬ身なりければ、落涙に袖ぬれて、赤衣の袖を絞りけり。

重国花方院宣を帯して西国下向 同 上洛返状を奉る事

 同じき十五日に、重衡の使平左衛門尉重国、院宣を帯して西国へ下向。院よりは、御壺の召次{*6}に花方と云ふ者を副へ下されけり。かの院宣に云く、
 {*7}一人聖帝、北闕九重の台{*8}を出で、九州に幸し、三種の神器、南海、四国の境に移りて、数年を経。尤も朝家の御歎き、亡国の基たるなり。かの重衡卿は、東大寺焼失の逆臣なり。頼朝申し請ふの旨に任せ、須からく死罪に行はるべしといへども、ひとり親類に別れ、已に生虜となる。篭鳥雲を恋ふるの思ひ、遥かに千里の南海に浮かび、帰雁友を失ふの情、定めて九重の中途に通ふか。しかれば則ち、三種の神器を返し入れ奉るにおいては、速やかにかの卿を寛宥せらるべきなり。てへれば{*9}院宣かくの如し。よつて執達、件の如し。   
    元暦元年二月十四日  大膳大夫業忠うけたまはる  
 平大納言殿{~*7}
とぞ書かれたる。
 三位中将も、内大臣並びに平大納言のもとへ、院宣の趣、くはしく申し下されけり。母二位殿へも、御文、細やかに書きて、「今一度重衡を御覧ぜんと思し召さば、内侍所を都へ返しいれまゐらするやうに、よくよく大臣殿に申させ給へ。」とぞ書き、下し給ひける。北の方大納言佐殿へも、御文まゐらせたく思しけれども、私の文は許さざりければ、詞にて、「旅の空にも、人は我に慰み、我は人にこそ慰み奉りしに、この六日は{*10}、必ず限りとも知らず、申し置きたき事も多くありしものを。憑もしき人もなきに、明かし暮し給ふらんと、おもひやるこそ心苦しけれ。又、身の有様{*11}も、心の中も、只推し量り給へ。憂かりし船の中、波の上も、今は思ひ出して、恋しくこそ。」と、宣ひもあへず泣き給へば、重国も涙を流しけり。預かり守る武士も、鎧の袖をぞ{*12}絞り合ひける。
 十六日には、重ねて重衡卿を召し問はれけり。平家は、都を出でて、西国に落ち下り給ひたりけれども、只浪の上、舟の中にのみ漂ひて、安堵し給はざりける上に、一門、多く一谷にて{*13}亡びにければ、いとゞせん方なくぞ思されける。討ち漏らされたる人々も、春の尾上の残りの雪、日影に解くる風情して、消えなん事を歎きけり。
 十八日には、在々所々に、武士の狼藉を止むべき由、蔵人右衛門権佐定長、院宣によつて、頭左中弁光雅朝臣に仰す。
 二十二日には、諸国兵粮米の貢を止むべきの由、定長、院宣によりて、光雅朝臣に仰す。
 二十七日には、西国へ下し遣はさる重衡卿の使重国、召次花方、両人帰洛して、右衛門権佐定長の宿所に行き向ひて、前内大臣宗盛の申されたる院宣の御返事を奉る。定長、即ち院参して、これを奏聞す。かの状に云く、
 {*14}右、今月十四日の院宣、同二十四日、讃岐国屋島浦に到来、謹しんで承る所、件の如し。これについてこれを案ずるに、通盛已下当家の数輩、摂津国一谷において、已に誅せられ畢んぬ。何ぞ重衡一人、寛宥の院宣を悦ぶべけんや。そもそも我が君{*15}は、故高倉院の御譲りを受け、御在位既に四箇年。その御恙無しといへども、東夷、党を結んで攻め上り、北狄、群を成して乱入する{*16}の間、且は幼帝、母后{*17}の御歎き尤も深きに任せ、且は外戚、外舅の愚志浅からざるにより、北闕の花台を固辞して、西海の薮屋に遷幸す{*18}。但し、再び旧都の還御無きにおいては、三種の神器、いかでか玉体を放たるべけんや。それ臣は、君を以て体となし、君は、臣を以て体となす。君安ければ則ち臣苦しまず、君憂ふれば則ち臣楽しまず。謹しんで臣等の先祖を思ふに、平将軍貞盛、相馬小次郎将門を追討して、東八箇国を鎮めしより以降、子々孫々に伝へて、朝敵の謀臣を誅戮し、代々世々に及びて、禁闕の朝家{*19}を守り奉る。なかんづく亡父太政大臣、保元、平治の両度合戦の時、勅威を重んじて愚命を軽んず。これひとへに君の御ためにして{*20}、身のために非ず。しかるに、かの頼朝は、父左馬頭義朝謀叛の時{*21}、しきり誅罰すべきの由、故入道大相国に仰せ下さるといへども、慈悲の余りに流罪に申し宥むる所なり。こゝに頼朝、已に昔の高恩を忘れ、今芳志を顧みず、忽ちに流人の身を以て、濫りに凶徒の類につらなる。愚意の至り、思慮の讐なり。尤も神兵天罰を招き、速やかに廃跡沈滅を期するものか。日月は一物のためにその明を暗まさず、明王は一人のためにその法を抂げず。何ぞ一情を以て大徳文を覚らざらん。但し、君{*22}、亡父数度の奉公を思し召し忘れずば、早く西国に御幸有るべきか。時に臣等、院宣を奉じて、忽ちに蓬屋の新館を出でて、再び花亭の旧都{*23}に帰らん。しかれば、四国、九国、雲の如く集まりて異賊を靡かし、西海、南海、霞の如く随ひて逆夷を誅せん。その時主上{*24}、三種の神器を帯し、九重の鳳闕{*25}に幸せん。もし会稽の恥をきよめずば、人王八十一代{*26}の御宇に相ひ当り、我が朝の御宝、波に引かれ風に随ひ、新羅、高麗、百済、契丹に赴き、異朝の財と成るといへども、終に帰洛の期無きか。この旨を以て、しかるべきの様に奏聞を洩らさしめ給ふべし。宗盛頓首謹言。
    元暦元年二月二十八日  内大臣宗盛請文{~*14}
とぞ書かれたりける。
 御壺の召次花方は、平左衛門尉重国に具して、院宣の副使に西国へ下りたりければ、平大納言時忠卿、花方を捕らへて、金を以て頬を焼き、波方をぞ焼きつけたる。その後、髻を切り、鼻をそいで、「これは、己をするにはあらず。」とて、追放しけり。無益の院宣の御使勤めて、身のかたはをぞ付けにける。さてこそ花方をば、異名には波方とも呼びけれ。「時忠卿の、『己をするに非ず。』と宣ひけるは、されば、法皇の御事を申しけるにや。畏ろし、畏ろし。」とぞ、人皆、舌を振ひける{*27}。
 さて重国、申しけるには、「東国の逆乱によつて、西国に臨幸あり。主上、還御無くんば、三種の神器、たやすく返し入れ奉られ難し。つらつら夷狄{*28}の俗を慮るに、已に虎狼の性に同じ。只利をもとめて名をもとめず。ひとへに廉譲の思ひを忘れて、深く任欲の心に淫す。しかるに、忽ち異類の賊を賞せられ、永く一族の輩を棄てらる。あるいは{*29}勲功を称し、あるいは威猛を振ひ、国衙と云ひ荘園と云ひ、針を立つるの土地も無く、これをとり掠め、片粒の官物もなく、これを劫略す。世の衰乱、日を逐ひていよいよ甚しく、国の残滅、年を積みてますます減ずるか。臣、もし国家安全の諌言を献ぜられば、君、何ぞ天下和平の叡慮を廻らさざらんや。」と{*30}、前内大臣、申さるゝ由をぞ奏しける。

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校訂者注
 1:底本は、「頚共さる事」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 2:底本頭注に、「寵愛せられたる子。」とある。
 3:底本頭注に、「滑稽なこと。」とある。
 4:底本頭注に、「五位の袍は赤色であるから其の束帯姿をいふ。」とある。
 5:底本頭注に、「平清盛。」とある。
 6:底本は、「御壺(おんつぼ)の召次(めしつぎ)」。底本頭注に、「宮殿に伺候して雑事を勤め時を奏する役。」とある。
 7・14:底本、この間は漢文。
 8:底本頭注に、「〇一人聖帝 安徳天皇。」「〇北闕九重之台 京都の皇居。」とある。
 9:底本は、「者(てへれば)」。底本頭注に、「上の文をうけて何何といふ事はといふ義をあらはす詞。」とある。
 10:底本頭注に、「〇人は我に云々 人とは己が夫大納言佐」「〇此の六日は 重衡が捕はれてより後、今までの日数。」とある。
 11:底本頭注に、「重衡自身の様子。」とある。
 12:底本は、「鎧の袖をば絞り合ひける。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 13:底本は、「一谷(いちのたに)に亡び」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 15・24・26:底本頭注に、「安徳天皇。」とある。
 16:底本頭注に、「〇東夷云々 源頼朝が東国に兵を挙げたのをいふ。」「〇北狄云々 木曽義仲が北国に兵を挙げたのをいふ。」とある。
 17:底本頭注に、「〇幼帝 安徳天皇。」「〇母后 安徳天皇の母后建礼門院。」とある。
 18:底本頭注に、「〇北闕之花台 京都の皇居。」「〇西海之薮屋 薮はオドロにて皇居に対して行宮を指す。」とある。
 19:底本頭注に、「皇室」とある。
 20:底本は、「奉(二)為(おんため)(ニシテ)君(ノ)(一)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 21:底本頭注に、「平治の乱を起したのをいふ。」とある。
 22:底本頭注に、「後白河法皇。」とある。
 23:底本頭注に、「京都」とある。
 25:底本頭注に、「京都の皇居。」とある。
 27:底本は、「振りける。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 28:底本頭注に、「源氏を賤しめていふ。」とある。
 29:底本は、「我は」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 30:底本は、「廻(めぐ)らさざらんや。』前(の)内大臣」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)従い補った。