重衡関東下向 附 長光寺の事

 三月二日、三位中将重衡卿をば、土肥次郎実平が手より、梶原平三景時請け取り奉り、宿所に置き奉る。
 五日、主馬入道盛国父子五人、九郎義経、召し捕つていましめ置く。
 七日、板垣三郎兼信、土肥次郎実平両人、平家追討のために、西国へ発向す。
 十日、本三位中将重衡卿は、兵衛佐、申し請けらるゝによつて、梶原平三景時に相具して関東へ下向。昨日は、西海の船の中にして、浮きぬ沈みぬ漕がれしに、今日は初めて、東路に駒を早めて明かし暮らさんこと、「されば、これは如何なりける宿報の拙なさぞ。」とおぼすぞ悲しき。御子の一人もおはしまさぬ事を恨み給ひしかば、母二位殿も{*1}、本意なき事におぼし、北の方大納言佐殿も、なゝめならず歎き給ひて、神に祈り仏に申し給ひしに、「賢くぞ子のなかりける。子あらましかば、いかばかり心苦しからまし。」と宣ふぞ、せめての事とおぼえて哀れなる。
 既に都を出で給ふ。三條を東へ、賀茂川、白川打ち越えて、粟田口、松坂、四宮河原を通るには、延喜第四の皇子蝉丸の、藁屋の床に捨てられて、琵琶の秘曲を弾じ給ひしに、博雅三位、三年までよなよなごとに通ひつゝ、秘曲を伝へたりけんも、思ひ出で給ひける。東路や袖くらべ、行くも帰るも別れてや、知るも知らぬも逢坂の、今日は関をぞ通られける。大津浦、打出宿、粟津原を通るに、心すごくぞ思されける。左は湖水、波きよくして一葉の船を浮かべ、右は長山遥かに連なりて、影、緑の色を含めり。三月十日余りの事なれば、春も既に暮れなんとす。遠山の花の色、残りの雪かと疑はれ、越路に帰る雁金、雲居に名のる音すごし。さらぬだに習ひに霞む春の空、落つる涙にかき暮れて、行くさきも見えざりけり。駒に任せて鞭を打つ道すがら、思ひ残さざることぞなき{*2}。帰雁霞に歌ひ、遊魚浪に戯る。雲雀野にあがり、林鶯籬に囀る。「禽獣猶ほ春の楽しみに遇へれども、我が身ひとりは秋の愁へに沈めり。」と、目に見、耳にふるゝ事、哀れを催し思ひを傷ましめずと云ふ事なし。さこそは歎きも深かりけめ。
 勢多の唐橋、野路宿、篠原堤、鳴橋、霞にくもる鏡山、麓宿に著き給ふ。明けぬれば馬淵の里を打ち過ぎて、長光寺に参りて、本尊の御前に暫し念誦し給へり。この寺は、武川綱が草創、上宮王{*3}の建立なり。千手大悲者の常住の精舎、二十八部衆擁護の寺院として、法華転読の声幽かに、瑜伽振鈴のこゑ澄めり。中将、寺僧に硯を召し寄せて、柱に名籍を書きたまふ。正三位行{*4}左近衛権中将平朝臣重衡とぞ註されたる。今の世までもその銘、幽かに残れり。後世を祈りたまひけるやらん、覚束なし。
 (そもそも長光寺と云ふは、武作寺の事なり。昔、聖徳太子、近江国蒲生郡老蘇杜におはしましけるに、太子の后高橋妃、御産の気ありて、十余日まで難産したまひければ、太子、妃に語りて曰く、「汝、ひとへに神道をのみ信じて、未だ仏法を仰がず。胎内の小児は、必ず聖人なるべし。汝が身は不浄なり。早く精進潔斎し、清浄の衣を著して、仏力を憑まば、自ら平産せん。」とのべ給ふ。妃曰く、「妾、君を仰ぐ事、日月星宿に相同じ。正命を違ふべからず。我、産賀して如在ならば、君と仏法に合力して、伽藍を興隆し、群生を済度すべし。但し、仏法真あらば、威力を示し給へ。」と誓ひ給ふ時、老蘇宮西南の方より、金色の光照らし来て、后の口中に入りければ、王子平産あり。異香、殿中に匂ひて、栴檀沈水の如くなり。妃、瑞相に驚き、武川綱に仰せて、光の源をみせらる。命を承りて、尋ね行きてこれを見れば、西南に去る事三十余町をへだてて、一つの山の麓に方三尺の石あり。青黄赤白紫の五色にて、眼を合はするに、目まぎれ{*5}せり。傍に八尺余りの香薫の木あり。匂ひ、人間に類なし。このよし、妃に奏すれば、妃、又太子に奏せらる。
 太子、宣ひて云く、「石は、補陀洛山にては宝石と名づく。あるいは金剛石と云ふ。大唐には瑪瑙と名づけたり。木は、これ白檀なり。天竺には栴檀と云ふ。海中に入りては沈香とも号せり。いづれも人物に用ゐるべからず。早く白檀を以て仏を造り、かの石の上に安置せよ、かしこは転妙法輪の跡、仏法長久の砌なり{*6}。」と。妃、大きに随喜して、武に仰せて、かの木石の上にして、仮初に三間の堂を造り、覆ひたまひけり。武が作れる寺なれば、武作寺と云ひけるを、法興元世二十一年壬子二月十八日、太子と妃と相共に、かの寺に御幸して、手づから地を引き柱をつらね、金堂、法堂、鐘楼、僧堂を建てひろげ、太子自ら、かの白檀を以て、后高橋妃の等身に千手の像を造りて、宝石の上に安置し、法華、維摩、勝鬘等の三部の大乗を篭められつゝ、武作寺を改めて長光寺と定めらる。異光、遠きより照らし来つて、妃の口中に入りしかば、これを寺号とし給へり。来詣参入の類、花を散らし掌を合はするの輩あまねく、現には千幸万福に楽しみて、当には補陀洛山に生まれんと誓ひ給へる寺なりけり。)
 上宮建立の聖跡、千手大悲の霊像におはしませば、重衡も、武士に暇を乞ひ給ひ、暫く念珠せられけり。その後、寺を出で給ひ、平の小森を見給ふにも、杉の木立の翠の色、羨ましくぞおぼしけん。鶉啼くなる真野の入江を左になし、まだ消えやらぬ残りの雪、比良の高峯を北にして、伊吹がすそを打ち過ぎつゝ、心を留めんとにはなけれども、荒れて中々やさしきは、不破の関屋の板廂、如何に鳴海の塩干潟、涙に袖ぞ絞りける。在原業平が、きつゝ馴れにしと詠みける三河国八橋にも著きしかば、蛛手に物をや思ふらん。浜名の橋を過ぎ行けば、又越ゆべしと思はねど、小夜中山も打ち過ぎて、宇津山辺の蔦の道、清見が関を過ぎぬれば、富士のすそ野にも著きにけり。左には松山峨々と聳えて、松吹く風蕭々たり。右には海上漫々と遥かにして、岸打つ浪瀝々たり。浮島原を過ぎ給へば、これやこの恋せば痩せぬべしと歌ひ給ひし足柄の関をばよそに見て、同じき二十三日には、伊豆の国府にぞ著き給ふ。

頼朝重衡対面の事

 兵衛佐殿、折節、伊豆の奥野の焼狩とて、狩場におはしましけり。この由かくと申したりければ、「北條へ入れ奉れ{*7}。」となり。あけの日は、北條へ具し奉る。その日は、浄衣をきせ奉つて、白き帯を以て、左右の手をしたゝかにいましめ奉る。中将、うち涙ぐみ、「罪深き罪人の冥途へ赴くにこそ、白き物著て閻魔の庁へはのぞむと聞く。それに少しも違はぬ重衡が有様かな。」と、心細くぞ思はれける。北條へ入り給ひたりければ、一法房を使にて、「これまで御下向、返す返す有り難くおぼえ侍り。この間、焼山狩{*8}仕りて、狩場の灰などかゝりて見苦しく候へば、静かに見参に入るべし。」と宣ひ棄てて、鎌倉へ入り給ひけり。
 二十五日に、梶原平三、三位中将相具し奉り、同じき二十六日に、鎌倉へぞ入りにける。「二十七日に、兵衛佐と三位中将と対面あるべき。」の由、披露あり。大名小名、門前市をなす。
 その日になりければ、三位中将相具し奉つて、兵衛佐の宿所へ参る。佐殿の屋形、新しく造りて、未だ門をば立てられず。四方に築地つき、三方は覆ひしたりけれども、今一方せざりけり。寝殿に引きつゞきて、内侍に九間、外侍に七間、十六間にしつらはれたり。内侍の上十二間を拵へ、中に障子を立てきつて、六間づゝにしつらひ、上の六間に高麗縁の畳を敷き、三位中将をすゑ奉り、内侍には国々の長大名{*9}並み居たり。外侍には、若侍、その数来り集まれり。内外の侍を見給へば、古、平家に仕へて重恩深き者も多くあり。歴々としたる{*10}所に只一人ぞおはしける。やゝ久しくありて、白き直垂著たる法師来り、三位中将の向ひておはする御簾を半に揚げ{*11}、錦の縁刺したる畳押し直して返りにけり。一法昌寛、これなり。
 やゝありて兵衛佐、渋塗の立烏帽子に白直垂著して、寝殿に出でて著座。空色の扇披き仕ひて{*12}、梶原平三景時を使にて、三位中将殿に申されけるは、「頼朝、故入道殿の御恩、山よりも高く、海よりも深く罷り蒙りて候へば、御一門の事、つゆおろそかならねども、朝敵とて追討の院宣を下さるゝ上は、私ならねば力及ばず。かやうに思ひよらぬ世の習ひにて候へば、いか様にも屋島の大臣殿{*13}の見参にも入りぬとこそおぼえて候へ{*14}。かやうに申せばとて、御意趣あるべきに非ず候ふべし{*15}。なほなほ、これまでの御下向、思ひ寄らず有り難く悦び入りて候と申すべし{*16}。」と宣ふ。
 梶原、三位中将の前に跪きて申さんとしければ、「何條申し継ぐ。」とや思はれけん。「一門、運尽きて都を落ちし上は、西国にて如何にもなるべき身のこれまで下向、思ひよらざりき。実に故入道の芳恩、思ひ忘れ給はずば、今一両日の内に兵に仰せて、頭を刎ねらるゝ事、いとやすき事に侍り。但し、事の心を案ずるに、殷の紂は夏台に囚はれ、文王は羑里に囚はると云ふ文あり{*17}。上古、猶かくの如し、いはんや末代をや。王者、又遁れ難し、いはんや凡夫をや。なかんづく、我が朝には源平両家、昔より互角の将軍として帝位を守護し奉り、互に狼藉をいましめき。しかるに重衡、一谷にして討たるゝにも非ず、遁るゝにも非ず、誤つていけどられて、再び故郷に還りて憂名流し、今この恥を蒙る。昨日は人の上、今日は我にかゝれり。身の恥に似たりといへども、弓矢取の敵にいけどらるゝ事、先例なきに非ず。これ、先世の宿業なり。又、怨憎の果てぬ処なり。只御芳恩には、急ぎ頚を召すべし。」と宣ひければ、大名小名、皆涙をぞ流しける。
 景時、又佐殿に申さんとしければ、佐殿、「よしや。皆、聞きつるぞ。昌寛、参れ。」と召されたり。一法、来り畏まる。「宗茂召して参れ。」と宣ひければ、狩野介、召されて参る。四十ばかりなる男の小鬚なるが、浅葱の直垂著て、前に進む。「やゝ、宗茂。三位中将殿入れ奉り、よくよくもてなしまゐらせよ。おろそかにあたり奉つて、頼朝恨むな。南都の衆徒も申す旨あり。」とて入り給ひぬ。宗茂、武具したる者五十人ばかり具し来つて、中将を中に取り篭め、我が屋形へ入れ奉つて守護しけり。重衡卿、一谷にては荘四郎にいけどられ、都へ上るには九郎義経に具せられ、京中にては土肥次郎に守護され、関東下向の時は梶原に渡され、今は狩野介に預けらる。譬へば、娑婆世界の罪人の、冥途中有の旅にして、七日七日に十王の手に渡さるらんも{*18}かくやと思ひ知られたり。

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校訂者注
 1:底本は、「母二位も」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 2:底本は、「思ひ残さることぞなき。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「聖徳太子。」とある。
 4:底本頭注に、「〇行 位高き人の其の官を行ふ義。」「〇 。」とある。
 5:底本頭注に、「目が眩む。」とある。
 6:底本は、「砌なり。』妃」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 7:底本は、「入れ奉れるなり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 8:底本は、「焼山狩(やきやまがり)」。底本頭注に、「野山の草を焼き払ひ、鳥獣を追ひ立てて狩すること。」とある。
 9:底本は、「長大名(をさだいみやう)」。底本頭注に、「権門勢家」とある。
 10:底本頭注に、「広々とした。」とある。
 11:底本は、「半(なか)ばに揚(あ)げ、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本は、「披(ひら)き給ひて、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 13:底本頭注に、「平宗盛。」とある。
 14:底本は、「覚えて、斯様に」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 15:底本は、「非ず候へ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 16:底本は、「申すべき。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 17:底本頭注に、「〇殷の紂云々 殷の湯王の誤りである。夏の桀王のために夏台といふ獄に囚はれたこと。」「〇文王云々 殷の紂王のために羑里といふ地に囚はれる。」とある。
 18:底本は、「流さるらんも」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。