重衡酒宴 附 千手伊王の事
つごもり頃になつて、狩野介、湯殿尋常にこしらへて、「御湯ひき{*1}給へ。」と申す。中将、「嬉しき事かな。道の程、疲れて見苦しかりつるに、身きよめん事の嬉しさよ。但し、今日は身を清め、明日は、きらんずるにや。」と、心細くぞ思はれける。一日湯ひき給ふ程に、昼程に及びて、二十ばかりかと見ゆる女の、目結{*2}の帷に白き裳著たりけるが、湯殿の戸少し開きて、左右なく内へも入らず。中将、「如何なる人ぞ。」と問ひ給ふ。「兵衛佐殿より、『御垢にまゐれ。』と仰せつるなり。」と聞こえしかば{*3}、「有るべくも侍らず。」と仰せられけるに、狩野介、湯の奉行して候ひけるが、「とかくの事な申されそ{*4}。はや参り給へ。」と聞こえければ、女、湯殿の内に入り、湯とり、水取りなどして、ひかせ奉る。
くれ程に、十四、五ばかりなる美女の、地白の帷に染付の裳著たりけるが、金物打ちたる楾{*5}に、新しき櫛取り具して、髪に水懸け、洗ひ梳りなんどして、上げ奉る。休み所に入れ奉つて{*6}、暫くありて、この女、「何事も思し召さん事{*7}をば、御憚りなく承るべし。」といへば、中将、宣ひけるは、「さして申すべき事なし。只この髪のそりたきばかりなり。」と。かの女、佐殿にかくと申しければ、「私の宿意ばかりならば、やすき事なれども、朝敵とて下向し給ひたる人を、私に出家を赦す事、叶ひ難し。南都の大衆も、申す旨のあるものを。」と宣へば、女、この由かくと申せば、中将、打ちうなづきて、又も物も宣はず。
その夜に入りて、佐殿、狩野介を召して、「三位中将は、無双の能者{*8}にておはしますなり。和君{*9}が私なる様にて、琵琶弾かせ奉れ。頼朝も、汝が後園にたゝずみて聞くべし。」と宣ひけり。宗茂、宿所に帰りて、時の景物{*10}尋ねて、酒勧め奉らんと支度したり。酌取りには昼の女を出して、狩野介、瓶子いだき、家子、侍、肴杯、面々に持ちて参りたり。中将、酒三度うけて、いと無興に思はれたり。狩野介、女に向ひて、「とてもかくても、御前、御つれづれを慰めまゐらせん料なり。一声挙げて、今一度申させたまへ。」と云ひければ、女、かねて心得たる事なれば、酌さしおきて、
{*11}羅綺の重衣たる 情無きを機婦に妬む
管絃の長曲に在る をへざるを伶人に怒る{~*11}
と云ふ朗詠を二、三返したりけるが、節もこゑもとゝのほりて、大方優にぞ聞こえける。
中将、宣ひけるは、「折節の朗詠こそ、思ひ合はせて痛はしけれ{*12}。この句は、北野天神{*13}の、「{*14}春わかうして気力無し{~*14}。」と云ふ事を、内宴の序にあそばせり。譬へば、『春わかうして』とは、みめよき女なり。『気力無し』とは、力の弱きなり。上の句に、羅綺とて、薄くいつくしき衣を著して美女の舞ふ時には、軽き衣も重くおぼゆ。これは、『機婦に妬む』とて、機織りけん女も恨めしくおぼえ、下の句に、管絃のさしも面白けれども、舞姫の舞ひ弱りて力なければ、速やかに入らばやと思へども、長曲を弾ずる時、『伶人に怒る』とて、管絃する人も悪くおぼゆと云ふ心なり。されば、永日ながら湯ひかせ、夜さへ又長々と酒勧むる事よとおぼして、この朗詠をばし給ふか。誠に心元なくこそおぼゆれ。湯も酒も、我が心よりおこらねども、折から優に聞こゆるものかな。但し、天神、この句をあそばして、『我ながらいみじくも作りたり{*15}。この句を詠ぜん所には、必ず我が魂行きのぞみて、その人を守らん。』と御誓ひありけり。重衡は、逆罪の身にて、神明にも仏陀にも放たれ奉りたれば、助音{*16}仕るに憚りあり。仏道成るべき事あらば、さもありなん。」と宣ひければ、女、承りて、
{*17}十方仏土の中には 西方を以て望みとなす
九品蓮台の間には 下品といへども足りぬべし
十悪といへども猶ほ引接す 疾風雲霧を披くより甚し
一念といへども必ず感応す これを巨海涓露をいるゝに喩ふ{~*17}。
と云ふ朗詠して、
極楽欣はん人はみな 弥陀の名号唱ふべし
阿弥陀仏阿弥陀仏 南無阿弥陀仏阿弥陀仏
阿弥陀仏 大悲阿弥陀仏
と云ふ今様、四、五返うたひけるにぞ、中将、助音し給ひける。その後、三度うけて女に賜ふ。女、賜はりて、宗茂に譲る。親しき者ども五、六人とり渡して止みぬ。
纐纈{*18}の袋に入りたる琵琶一面、錦の袋に入りたる琴一挺、女の前に置きたり。中将、琵琶を取り寄せ見給ふ。女、柱立てて{*19}弾きたりけり。中将、宣ひけるは、「只今あそばす楽をば、五常楽{*20}とこそ申し習はして侍れども、重衡が耳には、後生楽とこそ聞き侍れ。往生の急{*21}つげん。」とて、転手{*22}ねぢつゝ、妙音院殿の口伝の御弟子にておはしませば、皇麞の急{*23}、撥音気高く弾ぜらる。楽二、三返弾じ給ひて、「同じくは一声。」と勧め給へば、女承つて、
一樹の陰に宿り 一河の流れを汲む人も 先世の宿縁なり
と云ふ契りの白拍子を、一時かずへ澄ましたりけるが{*24}、夜は深更になりぬ。
人は、鳴りを静めたりければ、よそまでも耳目を驚かし、袂を絞るばかりなり。かかりければ、人々、「これを見奉らん。」とて、障子を細目にあけたる間より風吹き入りて、前の灯、消えにけり。狩野介、「星灯参らせよ。」と申しけるに、中将、爪調べして、
{*25}灯暗うしては数行虞氏が涙 夜深うしては四面楚歌の声{~*25}。
と云ふ朗詠を二、三返、し給ひけり。夜明けにければ、女、暇賜ひて帰りぬ。
中将、人を召して、「夜べの女は、如何なる者ぞ。」と尋ね給ひければ、「白川宿の長者の娘。千手前とて、今年二十に罷りなる。当時は、鎌倉殿のきり人{*26}にて、御気色よき女房なり。」とぞ申しける。「さて、召し具したりつる美女はいかに。」と問ひ給へば、「猶子{*27}にて侍る。」とぞ{*28}答へける。
兵衛佐殿は、斎院次官親義を招きて、「中将の朗詠に、『灯闇うしては数行虞氏が涙。』と云ひつるは、如何なる心ぞ。」と問ひ給ふ。親義、申しけるは、「これは、史記項羽本紀の文なり。項羽と云ひし人は、天下に並びなき兵。身のたけ八尺、力、鼎をあげけり。漢の高祖と天下をあらそふ事九箇年、相戦ふ事七十一度。毎度項羽勝ちけるに、漢の大将軍に韓信と云ふ者の、謀りごとを以て項羽を囲みて、既に遁れ難かりければ、楚国の軍敗れて落ち去りければ、漢の兵、楚の陣に入りて、漢の旗を立てて楚国の歌を歌ひければ、『我が兵も皆、敵に随ひにけり。』と悲しみて、騅と云ふ第一の馬に乗つて出でんとするに、馬、身を振つて出でず。駅と云ふ第二の馬に乗つて出でけるに、項羽が妻の虞氏、夫の別れを惜しみて泣きければ、項羽、歌うて云く、『力山を抜き、威は天を覆ふ。天さいはひせず騅いかん。天さいはひせず虞氏いかん。』と歌うて、終に別れて失せにけり。灯の闇きもとにして、虞氏、別れを惜しみて数行の涙を流ししかば、『灯暗うしては、数行虞氏の涙。』とは申すなり。大国の法には、軍に勝ちぬれば、必ず悦びの歌を歌ふ。譬へば我が朝に、軍に勝つて悦びの鬨を造る、定なり。項羽、軍に負けて、夜ふけ、耳をそばだてて聞けば、敵打ち入りて、四方に楚の歌を歌ひて、心細かりければ、『夜深うしては、四面楚歌の声。』とは申して侍る。その様に、暁かけて灯消え、千手の前も帰らんずれば、さすがなごりの惜しく思すにこそ。虞氏は、夫の別れを悲しみ、中将は、女のよしみを慕ふかとおぼえたり。さても朗詠し、歌を謡ふも、敵の中より慰むる音なれば、心細く思はれつゝ、灯の消えたる折節に、この朗詠を思ひ出で給ふにこそ。」とぞ釈しける。
「さて、楽はいかに。」と問ひ給へば、親義、申しけるは、「廻骨と云ふ楽にて候。文字には、骨を廻らすと書けり。大国には、死人を野外へ葬送するには、必ずこの楽を弾くと承る。朗詠の仕様、楽の弾じ様、遂に我が死せん事を思ひ、兼ねてこの楽をひき給ふにと、哀れに候。」とて、涙を流しければ、佐殿{*29}も、中将の、琵琶をひき朗詠し、千手が、琴を弾き歌をうたひたりしよりも、親義、一々に釈し申したりければ、哀れに思ひ給ひて、同じく袖を絞り給ふ。
やゝありて、兵衛佐は、千手に向ひて、「さても頼朝がなかだちこそ、しすましておぼゆれ。」と仰せられければ、女、顔打ち赤めて、「全く情を懸け給ふ事、侍らず。」と申す。「年ごろは、千手をば、『正直者ぞ。』と思ひたれば、真ならぬ時もありけるや。いかでか御前にて偽り申すべき。さて汝、誓ひごとしてんや。」と宣へば、「御赦し候はば、やすく候。」と申す。その時佐殿、顔けしき悪しざまになりて、「これまでは仰せらるまじけれども、汝をやるは、中将を慰めんためなり。中将、いかでか汝に情を懸けざらん。あらがふがにくきに{*30}、さらば、誓ひごと仕れ。」と仰す。女、涙を流しつゝ、「もし中将に召されながら、御前にて偽りごと申し侍らば、近くは江柄、足柄、伊豆、箱根より始め奉り、日の下に住し給ふもろもろの神のにくまれを蒙らん。」とぞ申したる。
佐殿、手をはたと打つて、「頼朝が心には、並びはありとも勝るはあらじと思ひたる千手を、中将に嫌はれたるこそ無念なれ。吾が内に女のなきに似たり。」とて、平六兵衛が姪女に伊王前とて、歳二十になりけるが、みめ形たらひ{*31}、遊び者ならねば、今様、朗詠こそせざれども、琵琶、琴の上手にて、歌、連歌、よろづ情ありける女なり。はなやかに出で立ちて、結四手と云ふ美女相具して、中将へまゐらせらる。
「敵ながらも頼朝は、都なれてやさしき女をあまた持ちたりけり。又、情深くも振舞ひたり。」とおぼしければ、夜もすがら、優にをかしき御物語はありけれども、これにも心は移されず。夜も明けにければ、女、暇申して帰りけり。
兵衛佐殿、待ち得て、よにも心元なく思して、「いかに、伊王。」と尋ね給ふ。「これも、嫌はれ奉りたり。」と申せば、「偽りか。」と仰せらる。「誠に。」と申しければ、佐殿、「これ聞け、人ども。中将は、院、内の御気色も人に勝れ、父母にもおぼえの子。上下万人に重く思はれけるは、理なり。三十の内外の人の、千手と伊王とを見て、いかでか打ち解くる心なかるべき。されども、只今敵の前に、思ひ入れたる{*32}気色なく、『その道{*33}あらじ。』と思ひける。武くもやさしくもおはしけり。さればとて、寂しめ奉るべからず。二人、夜ごとに参るべけれども、出で立ちも煩ひあり。これにおはせん程は、夜まぜ{*34}に参りて宮仕へせよ。ゆめゆめおろそかに仕ふべからず。」と仰せられければ、千手は榊葉と云ふ美女を具し、伊王は結四手と云ふ美女を供にて{*35}、今年の卯月の一日より、明くる年の六月上旬まで、打ち替はり打ち替はり参りつゝ、御宮仕へぞ申しける。
さて中将、南都に渡されて斬られたまひにしかば、二人の者どもさしつどひて、臥し沈みてぞ歎きける。「由なき人に馴れ奉り、憂目を見聞く悲しさよ。中将、岩木を結ばぬ身なれば、などか我等に靡く心もなかるべきなれども、『かやうに成り給ふべき身にて、人には思ひをつけじ。我も物をおもはじ。』と、心強く{*36}おはしましける事のいとほしさよ。」とて、共に袖をぞ絞りける。「『何事も先の世の事と聞けば、思ひ残すべき事はなけれども、後世弔ふべき一人の子のなき事こそ悲しけれ。』と仰せられしものを。」とて、二人相共に佐殿に参りて、「故三位中将殿に、去年より相馴れ奉り、その面影、忘れ奉らず。『後世を助くべき者なし。』と、歎き仰せ候ひき、見参に入り侍りけるも、しかるべき事に候なれば、暇を賜はり、様を替へて、菩提を助け奉らん。」と申しけれども、その赦しなければ、尼にはならざりけれども、戒をたもち、念仏唱へて、常は弔ひ奉りけり。中将、第三年の遠忌に当たりけるには、しひて暇を申しつゝ、千手二十三、伊王二十二、緑の髪を落とし、墨の衣に裁ち替へて、一所に庵室を結び、九品に往生を祈りけり。
中将は、狩野介に具せられて、しばらく伊豆におはしけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「入浴。」とある。
2:底本は、「目結(めゆひ)」。底本頭注に、「括り染め。」とある。
3:底本は、「聞きしは、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
4:底本は、「兎角(とかく)の事は申されそ、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
5:底本は、「楾(はんざふ)」。底本頭注に、「手を洗ひ髪などを結ふに用ゐる具」とある。
6:底本は、「入り奉つて」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
7:底本は、「思召す事」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
8:底本は、「能者(のうしや)」。底本頭注に、「一芸に秀でたる人。」とある。
9:底本は、「和君(わぎみ)」。底本頭注に、「そなた。」とある。
10:底本頭注に、「酒の肴」とある。
11・14・17・25:底本、この間は漢文。
12:底本は、「疑はしけれ、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
13:底本頭注に、「菅原道真。」とある。
15:底本は、「作りたる。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
16:底本は、「助音(じよおん)」。底本頭注に、「始め一人にて謡ひ出し他人の付くべき所より付いて合唱すること。」とある。
18:底本は、「纐纈(かうけつ)」。底本頭注に、「括り染め。」とある。
19:底本は、「柱(ぢ)立てて」。底本頭注に、「絃の下に加へて張りを強くする柱を立てて。」とある。
20:底本は、「五章楽」。底本頭注に従い改めた。
21:底本頭注に、「皇麞の急といふのを同音でしやれていふ。」とある。
22:底本は、「転手(てんじゆ)」。底本頭注に、「絃を巻きつけるもの、四個あり」とある。
23:底本は、「皇麞(わうしやう)の急(きふ)」。底本頭注に、「皇麞は天宝の楽といふ大曲。急は早拍子。」とある。
24:底本頭注に、「数遍歌ひ澄ます。」とある。
26:底本頭注に、「寵せられて権威ある人。」とある。
27:底本は、「猶子(いうし)」。底本頭注に、「養子。」とある。
28:底本は、「侍るぞ。』と答へける。
」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
29:底本頭注に、「源頼朝。」とある。
30:底本は、「争(あらそ)ふがにくきに、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
31:底本頭注に、「容貌が整ふ。」とある。
32:底本頭注に、「心を移す。」とある。
33:底本頭注に、「女と契ること。」とある。
34:底本頭注に、「一夜交替。」とある。
35:底本は、「美女と共(とも)にて、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
36:底本は、「心強(こゝろづよ)くし坐(おはしま)しける」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い削除した。
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