維盛屋島を出でて高野に参詣す 附 粉川寺に法然房に謁する事
権亮三位中将維盛は、故郷は雲居のよそに成りはてて、思ひを妻子に残しつゝ、人なみなみに西国へ落ち下り給ひたりけれども、晴れぬ歎きにむすぼほれ、その身は屋島に在りながら、心は都へ通ひけり。
三月十五日に、与三兵衛尉重景、石童丸と云ふ童、船に心を得たる者とて武里と申す舎人、この三人を具し給ひ、忍びつゝ屋島の館を出でて、阿波国由木浦にぞ著き給ふ。心憂き浪路の旅と云ひながら、今までも一門の人々に相具して明かしくらしつるに、今日を最後{*1}と思し召しければ、御なごり惜しくて、海士の篷屋の柱に、
折々はしらぬ浦路のもしほ草書きおく跡を形見とも見よ
重景、御返事申しけり。
我が恋は空ふく風にさも似たり傾く月に移ると思へば
石童丸、「大臣殿御事を思ひ出し給ふらん。」と思ひ奉りて、
玉鉾や旅行く道のゆかれぬは後ろにかみの留まると思へば
さても御舟に乗り移り給ひ、音に聞く阿波の鳴戸の沖を漕ぎ渡り、紀伊の路をさして楫を取る。頃は三月十日余りの事なれば、尾上に懸かる白雲は、残んの雪かと疑はれ、磯吹く風に立つ波は、旅の袖をぞ濡らしける。きやうけいのうかれ声、をしあけ方になりしかば、八重立つ霞のひまより、御船、汀に押し寄せたり。
「こゝは、いづこなるらん。」と尋ね給へば、「名にしおふ紀伊国和歌浦。」とぞ聞き給ふ。それより吹上浦を過ぎ給ひけるに、「一門を離れ、兄弟にも知られねば、一つは恨みに似たれども、かからざらましかば、かかる名所をばいかでか見るべき。」と、いさゝか慰み給ひけり。かの和歌浦と申すは、衣通姫、居をしむ、山の岩松、磯打つ波、沖の釣船、月の影、しらゝの浜の真砂に、吹上浦の浜千鳥、日前、国懸の古木の森、面白かりける名所かな。されば衣通姫、玉津島姫明神とあらはれて、この所に住み給へり。「理なり。」とぞ思し召す。
由良湊と云ふ所に舟をつけ、これより下りたまへり。「山伝ひに都へ上りて、恋しき人どもをも今一度見ばや。」と思しけるが、御様をやつし給へども、猶ほ尋常の人にはまがふべくもなし。本三位中将の、いけどられて京田舎、恥をさらすだに心憂きに、我さへ憂名を流さんも口惜しく思はれければ、千度心は進みけれども、心に心をからかひて{*2}、泣く泣く高野へ参り給ふ。
思し召し出づる事ありければ、このついでに粉川寺へぞ参られける。この寺は、大伴小手と云ひし人、「我が朝の補陀落、これなり。」とて、甍を結べる所なり。去んぬる治承の頃、小松殿{*3}、熊野参詣のついでに、かの寺に参り給ひたりけるに、書き置き給へる打札あり。「今一度、父の手跡を見給はん。」と思ひ出で給ひけり。かの札を御覧ずれば、落つる涙に墨消えて、文字のかたちは見えねども、「重盛」と云ふ字ばかりは、彫りて墨を入れたれば、ありしながらに替はらねば、泣く泣くこれをぞ見給ひける。「手跡は、千代の形見なり。」と云ひ置きけることのはも、げに哀れにぞ思し召す。
御堂に入り、観音の御前に念誦しておはしけるに、僧一人来りて、共に念誦してありけるが、あやしげに見奉りて、「これは、いづこより御参りぞ。」と問ふ。「京の方より。」と答へ給へば、「法然上人の入らせ給へるを聞こし召して御参りか。」と云ふ。三位中将は、その事かねて知らず。「何事に入寺し給へるぞ。」と返し問ひ給へば、「この間、念仏法門の談議なり。」と申して、細かに問答して立ちぬ。
中将は、与三兵衛を招きて、「わざとも都に上り、法然房に逢ひ奉り、後世の事をも尋ね聞くべきにこそあれども、道狭き身なれば、力なし。上人、たまたまこの寺におはすなり。憚りあれども、見参し奉らん事、いかゞあるべき。」と宣へば、重景、畏まつて、「何の御慎しみか候べき。上人をば、生身の仏と承る。しかるべき善知識にこそ。後世菩提の御ために御聴聞あらん折節、たとひ災害にあはせ給ふとても、いたみ思し召すべからず。闘諍合戦の場にして身を失つて、修羅の悪所にも生まれ候なるぞかし。いはんや聞法随喜の窓にして命を亡ぼす事あらば、弥陀の浄刹に往生せんと思し召さるべし。」など、小賢しく申しければ、「しかるべし。」とて、夜に入りて、重景を御使にて、法然上人へ申されけるは、「維盛、高野参詣の志ありて、屋島を忍び出でて、これまで罷り伝ひて侍るが、折節、しかるべき事と存じ候。出離の法門、一句承らばや。」と仰せられけり。
上人、哀れに思して、やがて三位中将を請じ入れ奉り、見参し給ひて、「いかにや、いかにや。有り難くこそ思ひ奉れ。都を出で給ひて後、人々、こゝかしこにて亡び給ふと承るに付きては、御身、如何成り給ひぬらんと、心苦しく思ひ奉るに、再び見参に入り奉る御事、哀れに悦び入り侍り。さても、さしもの世の乱れの中に、遥々と高野参詣の御志、目出たくも思し召し立ちける御事かな。」とて泣き給ふ。
中将、宣ひけるは、「家門の栄華、既に身に極まりて、先帝{*4}を始めまゐらせて、一族悉く西海に落ち下りし上は、人並々にあくがれ出で候ひぬ。憂きことも多かりし中に、難波潟一谷にて、卿相雲客数亡びぬ。たまたま討ち残されたる者も、ある空{*5}も侍らず。夜は夜もすがら、今や水底に沈むと歎き、昼は終日に、今や敵に失はるゝと悲しむ。とにもかくにも、しづ心なし。されば、遂に遁るまじきもの故に、貴き結界の地{*6}と承れば、高野に参りて出家をもして、その後、如何にもならばやと思ふ事侍りて、屋島を出でて、これまで伝ひつゝ、見奉るこそ嬉しけれ。」とて、その夜は庵室に留まり給ひ、泣き口説き、物語し給ひけるが、暁方に、「維盛、をさなきより身を放たず、日所作{*7}に読み奉る御経おはします{*8}。水の底にも沈まん時は、同じく沈め奉らん事、罪深くおぼえ候。もし世になき身と聞き給はん時は、思ひ出して後世弔ひ給へ。」と宣ひて、これを渡し奉る。上人、請け取り給ひて、「たとひこれなしとも、いかでか忘れ奉るべきなれども、かく思し召し入りて承れば、披き見ん折々は、必ず弔ひ奉るべし。」とて拝み奉れば、四半の小双紙に、金泥に書きたる小字の法華経なり。いと哀れにぞ思しける。
三位中将は、「今日は留まりて、なごりをも惜しみたく侍れども、維盛をば、平家の嫡々とて、頼朝、ことに相尋ぬべしと披露あり。人の口も恐ろし。戒をたもち、暇申さばや。」と宣へば、上人は、「この間、説戒の程、御聴聞もあれかしと存ずれども、御急ぎと承れば、戒を授け奉るべし。」とて、円頓無作の大戒、梵網の十重禁をぞ説き給ふ。
上人、結して{*9}曰く、「塔中の釈迦は、この法を説きて、仏位を十界の衆生に授け、台上の舎那は、この戒を受けて、正覚を花蔵世界{*10}に唱ふ。法華一実の妙戒は、能持の一言に戒珠を胸の間にみがき、合掌の十指に十界を実際におく。衆生正覚の直道、即身成仏の要路なり。これ即ち、薄地底下の凡夫の、一毫の善なき者の、罪悪生死{*11}の衆生の、出離の期なき輩、修行覚道に入らざれども、速やかに仏果を成ずる計りごと、この戒に如くはなし。これによつて、梵網経に曰く、『{*12}一切の心有る者、皆応に仏戒を摂すべし。衆生、仏戒を受け、即ち諸仏の位に入る。位、大覚に同じきのみ。真にこれ諸仏の子。一度この戒を受くる者、諸仏の位に入る。大覚の位に同じ{~*12}。』と説き給へば、誠に有り難き功徳なり。戒師、戒を授くるは、授戒灌頂とて、前仏の智水を後仏に授くる{*13}こゝろなれば、この戒を受くるは、即身に正覚を唱ふるなり。故に、この戒をば、一得永不失の戒とて、一度受けて後、永く失ふ事なし。」とぞ宣ひける。中将も聴衆も、皆随喜の涙を流しけり。
その後、念仏の法門、弥陀の本願、こまごまと説き給ひ、様々教化せられければ、維盛、しかるべき善知識と嬉しくて、泣く泣く庵室を出で給ひけるが、「契りあらば、後生には必ず参り会はん。」と宣ひて、それより高野へ参り給ふ。上人も、哀れに思ひ給ひ、遥かに見送り奉り、衣の袖を濡らしたまへば、見る人、袂を絞りけり。三位中将は、高野山に参りつゝ、人々をぞ尋ね給ひける。
校訂者注
1:底本は、「今日は最後」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
2:底本頭注に、「心を争ひて。」とある。
3:底本頭注に、「平重盛。」とある。
4:底本頭注に、「安徳天皇。」とある。
5:底本頭注に、「世にある心地。」とある。
6:底本頭注に、「衣食人数及び地界に於て制限区域を立てる地。」とある。
7:底本は、「日所作(にちしよさ)」。底本頭注に、「毎日の所作。」とある。
8:底本は、「御経坐(おは)す。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
9:底本頭注に、「結末をつけて。」とある。
10:底本は、「化蔵世界(けざうせかい)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
11:底本頭注に、「〇生死 迷へる衆生の受ける苦の果報。」とある。
12:底本、この間は漢文。
13:底本頭注に、「〇前仏 釈尊の前に出た迦葉仏尊。」「〇後仏 弥勒仏等未来成の諸仏。」とある。
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