目巻 第四十
法輪寺 附 中将滝口を相見る 並 高野山の事
そもそも法輪寺は、道昌僧都の建立、勝験無双の霊地なり。かの少僧都法眼和尚位道昌は、讃岐国香川郡の人、弘法大師の御弟子なり。俗姓は秦氏、秦の始皇六代の孫、融通王の苗裔なり。淳和帝の御宇、天長五年に、弘法大師について、灌頂の壇に登りて、真言の大法を伝受せり(三十歳)。その後、虚空蔵求聞持の法を修せんとて、勝地を尋ね求めけるに、大師、教へて云く、「葛井寺(今法輪寺)において、これを修すべし。かの山、霊瑞至りて多く、勝験相応の地なり。」と。よつて、同じき六年に、この寺に参篭して、一百箇日、求聞持の法を修し給ふ。五月の頃、皓月、西山に隠れ、明星、東天に出づる時{*1}、明星を拝み奉り、閼伽の水を汲むの処に、光炎、にはかに輝きて、あたかも電光の如し。怪しんでこれを見れば、明星天子、来影し、虚空蔵菩薩、袖に現ず。画くに非ず、造るに非ず。縫物の如く、鋳物の如し。数日を経といへども、その体、滅せず。尊相厳然として、異香芬馥せり。これ則ち、生身の御体として、奇特の霊像なり。誰か帰敬の誠を致さざらん。こゝに道昌、虚空蔵の形像を造り、その木像の御身に件の影像を納め奉り、神護寺において、弘法大師、これを供養し奉る。かの像の前にして、不断の行法を修しけるに、利生、誠に新たなり。貞観十六年に、山腹を引き、幽谷を埋づみ、仏閣を建てて、件の霊像を安置し、葛井寺を改めて法輪寺と名づく。
鎮守は本地虚空蔵法童法護大菩薩と号す。阿弥陀堂と申すは、当山最初の旧寺の跡なり。天平年中に、これを建立して葛井寺と云ひけり。天慶年中に、空也上人、参篭の時、貴賤上下を勧進して、旧寺を修行して、常行堂とするとかや。詠月遊興の輩は、明神、忽ちに巨益を与ふ。往詣参篭の人は、本尊、必ず願望を満て給ふ。月、窓を照らすの夜は、煩悩の雲、正に晴れ、嵐、松を吹くの時は、妄想の夢、必ず覚む。かかる目出たき寺なれば、滝口も閉ぢ篭りて、行ひ澄まして居たりけり。妹背の情に引かれつゝ、尋ね行きける横笛も、菩薩の善巧方便にて、善知識とぞおぼえける。
(異説に云く、頃は二月半ばの事なれば、梅津の里の春風は、よそまで匂ふ垣根かな。桂の里の月影は、朧に照らす折なれや。亀山や裾より出づる大井川、殊更心細くして、久方のそことも知らず尋ね行き、この坊かの坊尋ぬれど、上人がゆくへは知らざりけり、と。
又、異説には、横笛は、法輪より帰りて髪をおろし、双林寺に有りけるに、入道のもとより、
しらま弓{*2}そるを恨みと思ふなよ真の道にいれる我が身ぞ
と云ひたりければ、女、返事に、
白真弓そるを恨みと思ひしにまことの道に入るぞ嬉しき
その後、横笛尼、天野に行きて、入道が袈裟衣すゝぐ、ともいへり。異説、まちまちなり。いづれも哀れにこそ。)
滝口入道は、法輪寺を出で、高野に篭り、五、六年にぞなりける。しかるべき人々は、滝口入道と云ひけるを、一家の者どもは、高野の上人とぞ云ひける。時頼入道は、幼少より小松殿{*3}に候ひけるが、出仕の時は、絵書き花付けたる狩衣に、立烏帽子、私の行きには、直垂に折烏帽子、衣文を立て、鬚を撫で、さしも花やかなりし有様に、今は、黒き衣に、同じ色の袈裟にやつれにけりと、哀れなり。三十にたらぬ若入道の、いつしか老僧姿になり果てて、剃りたる髪は、さかり過ぎて生ひ延び、麻の衣の香の煙にしみかをり、思ひいりたる道心者、羨ましくぞ見え給ひける。
入道は、三位中将を見奉つて、「夢か、現か。」と、あきれ迷ひたるさまなり。泣く涙に咽びて{*4}、物もえ申さず。三位中将も、袖を絞りて、宣ふ事もなし。入道、やゝ久しくありて申しけるは、「屋島に御渡りと承り侍りしかば、世の中の、今は昔に替はり行く有様、御一門の人々、思し召さるらん御心の中も、推し量り候へば、罷り下りて、憂世の有様をも承り、又、歎き申し入らばやと、折節毎に思ひ出し侍りつれども、なまじひに出家入道して、かやうに引き篭りて、身は松の煙にふすぼり、形は藤の衣{*5}にやつして、御前に参り、御目にかゝるべき有様にもあらねば、「中々に。」と、身に憚りて罷り過ぎ侍りき。如何にしてこれまでは伝ひおはしましけるやらん{*6}。更にうつゝともおぼえ候はず。故殿{*7}、常の仰せには、『賢人は、栄華に誇らず、草庵に卜居す。』と仰せしものを、只今、思ひ合はせられ候ぞや。」と申して、墨染の袖を顔にあてて泣きけり。
中将、宣ひけるは、「都にていかにも成るべかりしに、人なみなみに西国へ落ち下りたりつれども、肝心も身にそはず、留め置きし者どもも、理に過ぎて恋しく覚束なければ、何事に付けても世の中あぢきなければ、思ひほれて{*8}年月を経る程に、これをばかくとも知り給はで、大臣殿{*9}も、池大納言の様に二心ある者とおぼして、打ち解け給はねば、いとゞ心も止まらで、あくがれ出でて、これまで来れり。『いかにもして故郷に伝ひ、替はらぬすがたを今一度見えばや。』と思ひつれども、本三位中将の、生きながら捕らはれて、父の骸に血をあやす事もうたてければ、『これにて髪を下して、水の底にも入りなん。』と思ふなり。但し、熊野へ詣でんとの志あり。」と、宣ひも敢へず泣き給へば、上人、「誠に夢幻の世の中は、とてもかくてもありなん。永き世{*10}の闇こそ苦しかるべけれ。目出たくも思し召し立ちける御事なり。」と申す。夜明けにければ、三位中将は、入道を先達として、まづ本寺より始めて、院々堂々に巡礼あり。
かの高野山は、帝城を去つて二百里{*11}、郷里を離れて人声なし。晴嵐、梢を鳴らして、夕日の影もしづかなり。金剛八葉の峯{*12}の上、秘密瑜伽の道場なり。一度参詣の輩は、永く三途の苦を離る。十三大会の聖衆には、肩を並べてへだてなし。三十七尊の聖容は、心の中にぞ坐し給ふ。八つの尾、八つの谷{*13}に、修生本覚の心蓮華をかたどり、あるいは上り、あるいは下る。行願証義の菩提心を顕はせり。金堂と申すは、嵯峨天皇の御願なり。あるいは釈尊涅槃の像を写せる道場もあり。在世の昔を慕ふかと哀れなり。弥陀来迎の粧ひを画ける霊場もあり。終焉の夕を待つかとおぼえたり。もしは、説法衆生の庭、坐禅入定の窓もあり。もしは、秘密修行の室、念仏三昧の砌もあり。顕教密教、掻き交じへ、聖道浄土、各なり。峨々として高き山、渺々として遠き峯、霖霧の底に花綻び、尾上の霜に鐘響く。嵐に紛ふ鈴の音、雲居に上る香の煙、取り取りにこそ貴けれ。
それより、檜原、杉原、百八十町分け過ぎて、奥院に参り給ふ。大師の御廟を拝み給へば、瓦に松生ひて、垣に蘿はへり。庭に苔深うして、軒にしのぶ茂りたり。「これやこの、仁明天皇の御宇、承和二年三月二十一日の寅の一点に入定し給へる石室なるらん。」と、過ぎにし方を数へければ、三百余歳も越えにけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇明星東天云々 明星は金星にて明星天子といひ、虚空蔵菩薩の化身と称す。」とある。
2:底本頭注に、「檀の木で作つた弓で反るといふ詞の序に用ゐて剃るといふ詞にかける」とある。
3・7:底本頭注に、「平重盛。」とある。
4:底本は、「咽(む)せて」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
5:底本頭注に、「葛布の衣でこゝでは法衣をいふ。」とある。
6:底本は、「伝ひ坐(おは)しけるやらん、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
8:底本頭注に、「思ひ惚れて、即ち物思ひに耽ること。」とある。
9:底本頭注に、「平宗盛。」とある。
10:底本頭注に、「死後の冥途。」とある。
11:底本頭注に、「〇帝城 京都。」「〇二百里 一里は六町。」とある。
12:底本は、「金剛(こんがう)八葉(えふ)の峯」。底本頭注に、「大塔を中心として八方に堂宇ある高野山をいふ。」とある。
13:底本頭注に、「高野山内十六峯は胎蔵界曼荼羅の八葉院に擬するといふ。而して大塔の四方四隅を遮るを内八葉といひ、壇場の外に聳えるを外八葉と称するといふ。」とある。
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