観賢弘法大師の影像を拝む 附 弘法入唐の事
(延喜の聖主{*1}、「御夢想の告げあり。」とて、檜皮色の御装束をまゐらせ奉らる。勅使に般若寺の観賢僧正に仰せたりければ、御弟子に石山の内供奉{*2}俊祐と相ともに、奥院に詣でつゝ、御帳を押し開きて、宣命を伝へ奉る。御装束をまゐらせ替へんとし給ひしに、雲霧、忽ちに立ち隔つる心地して、大師の御体を拝み奉らず。観賢、涙を流しつゝ、「われ、一生の間、未だ禁戒を犯さず。何の罪ありてかは見え給はざる。」とて、五体を地に投げて、発露啼泣し給へば、速やかに雲晴れて、日の出づるが如くに、大師の御体、顕はれおはしけり。観賢、又随喜の涙に、香染の衣の袖を絞りつゝ、御肩の廻りまで、黒々と生ひ延びさせ給ひける御髪を剃り奉り、御装束をまゐらせ替へさせ給ひつゝ、内供奉に、「この御有様{*3}をば拝み奉るや。」と問ひたまひければ、「俊祐、霞に篭りたる心地して、見奉らず。」と答へければ、僧正、自ら内供奉{*4}が手を取りて、大師の御膝に引きあてて、「これこそ御膝よ。」と宣へば、俊祐、三度まで撫でまゐらせけり。その御移り香、失せずして、石山の聖教に移り、何の箱とかやに残り留まつて、今の世までもありとかや。目出たく貴き事どもなり。その後僧正、御廟の御戸をたて、帰りたまはんとし給ふに、大師、帝への御返事に、
{*5}我、昔、薩埵{*6}に遇ひて、まのあたり悉く印明を伝ふ。無比の誓願を発して、辺地異域に陪す。昼夜万民をあはれみて、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を証して、慈氏の下生を待つ{*7}{~*5}。(文)
とぞ仰せける。)
その後、後朱雀院の御宇、長暦三年己卯三月の頃、当山に貴僧ありて、観賢僧正の例を尋ねて、「御形を拝み奉らん。」と云ふ願をおこして、宣旨を申し、御廟の御前にて祈誓を致し、御帳を開きたりけるに、御体、隠れなく拝まれさせ給ふ。御鬚の生ひ延びさせ給ひたりければ、かの僧正の如く、これを剃り奉りけるに、「御膚を見ん。」とて、剃刀を以て御頭を少し切りたりければ、血のさとあえさせ給ひたりけるに、目くれて、雲霧に向かへる心地して、則ち急ぎ出でにけり。その時、内より帳を打ちつけられて、その後は開かれずとぞ承る。昔は、宣旨と申しぬれば、仏神もこれを背き給はざりけり。末世になればにや、当世は、云ひ甲斐なき人民に至るまで、勅命を軽んずるこそ悲しけれ。かの迦葉尊者の鶏足洞に入り、弘法大師の高野の石室に篭り給ひしより以来、五十六億七千万歳の春秋を隔てて、慈尊三会の暁を待ち給ふこそ遥かなれ。
三位中将は、御廟の前にやゝ久しく念誦して、「又もと思ふ参詣も、心に任せぬ我が身なり。遠うして又遥かなり。維盛、進んでは釈迦の出世にあはず、退きては慈氏の下生、期し難し。恨むらくは、その中間に{*8}留まつて、むなしく三途に帰らん事を。今、暮雲の心、繋ぎがたし。既に朝露の命、消えなんとす。願はくば、妄執を廟松の風に払つて、永く煩悩を法水の波に洗ひ、三界の火宅を出でて、無苦の宝刹に生まれん。」とぞ拝み奉られける。「さても維盛が身は、雪山の鳥の、今日死ぬるを{*9}知らずと啼くらん様に、今日か明日かと思ふものを。」と宣ひて、左右の袖を顔にあて、さめざめと泣き給へば、阿浄も重景も、共に袂を絞りけり。
その後、時頼入道が庵室に帰り、持仏堂にさし入り、拝廻したまへば、本尊かたがたに安置し奉り、閼伽をしなじな備へ奉れる有様、浄名居士の方丈に、三万二千の床を立てて、三世十方の諸仏を崇め奉りたりけんもかくやとおぼえて、いと貴し。行儀の作法を見給ふにも、昔は世俗奉公の袖を掻きをさめしに、至極甚深の床の上には、心地の玉をみがくらんとおぼえたり。後夜、晨朝{*10}の鐘の声には、生死の睡りをさますらんと聞こえけり。尾上の嵐はげしくて、檐のしのぶに露乱れ、雲居の月さやけくて、苔むす庭も静かなり。晋の七賢の篭りけん竹林寺の庵の中、漢の四皓のすまひけん商山洞の窓の前、かくやと思ひ知られたり。遁れぬべくば、かくてこそあらまほしくはおぼしけれ。その夜は、来し方ゆく末の物語して、互に泣くより外の事なし。
夜も既に明けにければ、三位中将、時頼入道に仰せけるは、「故郷に留め置きしをさなき者どもの、さしもわりなかりしをも、その母があながちに慕ふをも、今一度見もし、見えばやとこそ思ひて、屋島をば忍び出でしかども、そも今は叶はず。さらば、出家して熊野へ参らばやと思ふなり。」と語り給へば、入道、涙ぐみて、「この世は夢幻の所、憂き事も悲しき事も、始めて驚き思し召すべきに非ず。都に留め置かせ給ふ公達、北の方の御事、尤も思し召し切らせ給ふべし。
「分段輪廻の境に生まれたる者、誰か死滅の恨みを免れたる。妄想如幻の家に会ふ輩、終に別離の悲しみあり。かの沙羅林の春の空を尋ぬれば、万徳の花しぼみて、一化の緑、永く尽きぬ。歓喜園の秋の風を聞けば、五衰の露消えて、巨億の楽しみ、早くむなし。いはんや下界泡沫の質においてをや。不定短命の州においてをや。これによりて、老いたるも去り、若きも去りて、大小の前後、定めなし。貴きも逝き、賎しきも逝きて、上下の昇沈、知り難し。三界二十五有の栖、何者かこの苦をのがれん。五虫千八百の類、いかでかその愁へを離るべき。厭ふべきは憂世なり、悲しむべきはこの身なり。君、御一門{*11}の余執に引かれて、西海の旅に赴き給へる上は、敵のために捕らはれおはしますか{*12}、水底に沈み給ふべきか。大師入定の霊地なり、両部結界の道場なり。この峯にして、忽ちに俗服を脱ぎ、法衣を著しおはしまさん事{*13}、即身に安養の浄刹に詣し給へりと思し召しなすべし。
「如何にと申すに、日本一州、仏法流布の所広く、大師先徳、弘法利生の人多し。なかんづく、この寺はこれ、真言上乗弘通の砌、秘密教興隆の境なり。高祖大師{*14}は、大権の化現なり。讃岐国多度郡の人、俗姓は佐伯氏、母の夢に、天竺より聖人来つて、我が懐に入ると見て、妊みて生める子なり。生産の後、四天大王、蓋を取りて随従し給へり。石淵の勤操僧正に師とし、つかへて、初めには虚空蔵求聞持の法を学し、終に二十の歳出家して、沙弥の十戒を受け、名を教海と云ふ。その後、改めて如空と称す。具足戒の時、又改めて空海と号す。延暦二十三年甲申五月に、遣唐使正三位藤原朝臣賀能が舟に乗りて、入唐して、青竜寺恵果和尚に謁する日、和尚、笑みを含みて云く、『我、かねて汝が来る事を知れり。相待つこと日久し。今始めて相見る。大きによし、大きによし。汝はこれ、凡従にあらず。第三地の菩薩なり。内に大乗の心を具し、外に小国の僧を示す。密教の器たり。悉く授与すべし。』とて、五部灌頂の誓水をそゝぎ、三密持念の印明を授けて、両部の曼荼羅、金剛乗教二百余巻、三蔵付法の道具等、与へ畢つて云く、『我、この土の縁、尽きたり。久しく住する能はず。汝、速やかに本国に帰りて、天下に流布せよ。』と。
「空海和尚、行年三十四、平城天皇御宇、大同二年丁亥八月に、帰朝の船をうかぶる日、発願祈誓して云く、『諸学の教法、秘密撰所、感応の地あらば、この三鈷、到点せよ{*15}。』とて、日本に向つてなげ上げ給ふに、遥かに雲中に飛び入つて、東を差して去りにけり。和尚、行年四十三、嵯峨天皇弘仁七年丙申、高野山に登りたまふ。道にあやしき老人あり。和尚に語つていはく、『われはこれ、丹生明神。この山の山神なり。つねに業垢を厭ひ、久しく得道を願ふ。今まさに菩薩、到来し給へり。妾が幸ひなり。』と云ひて、山の中心に登り、御宿所を示して、かりはらふ所に、海上にしてなぐる処の三鈷、光を放ちてこゝに在り。秘法興隆の地と云ふ事、明らかなり。これによつて和尚、慈尊三会の暁に至るまで、密蔵のともしびをかゝげんために、一十六丈の多宝の塔婆を建立して、過去七仏の所持の宝剣を安置し給へり。事の奇特なり、法の効験なり。女人、影を隔てて{*16}、五障の雲、永くをさまり、僧俗、心をみがきて、三明の月、高く晴れたり。誠に穢土にして浄土を兼ね、凡夫にして仏陀に融す。有り難き聖跡なり。
「賢くぞ女房、公達を留め置き給ひける。引き具し給ひたりせば、いかでかこの霊場へも御参り有るべき。御心強かりける御事は、しかるべき御得脱の期に到りおはします{*17}。永離三悪の峯に登り、生仏不二の覚りを開き給ふべきにこそ。」と、細々とぞ申しける{*18}。
校訂者注
1:底本頭注に、「醍醐天皇。」とある。
2:底本頭注に、「御齋会を行はれる時に読師となる内供奉の僧。」とある。
3:底本は、「この有様」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
4:底本は、「自ら供奉(ぐぶ)が」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
5:底本、この間は漢文。
6:底本頭注に、「菩薩。」とある。
7:底本頭注に、「慈氏は弥勒菩薩で釈尊滅後五十六億七千万年にて此の世に化現し一切衆生を教化するといふ其の時期を待つ。」とある。
8:底本は、「その中に留まつて、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)従い改めた。
9:底本は、「今日死を」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
10:底本は、「後夜晨朝(ごやしんてう)」。底本頭注に、「〇後夜 午前四時。」「〇晨朝 午前六時。」とある。
11:底本頭注に、「君とは平維盛。」とある。
12:底本は、「おはすか、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
13:底本は、「著し坐(おは)さん事、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
14:底本頭注に、「弘法大師。」とある。
15:底本は、「到(いた)し点(てん)ぜよ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
16:底本頭注に、「女人禁制の意。」とある。
17:底本は、「到りおはす。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
18:底本は、「細々(こま(二字以上の繰り返し記号))と申しければ、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
コメント