維盛出家の事
三位中将、涙を流し、打ちうなづき給ひて、「誠に都を出でし日より、敵のために亡ぼされて、骸を山野の道のほとりにさらして、名を西海の波の底に沈むべしとこそおもひしに、かかるべしとは懸けても思ひ寄らざりき。これも、善業の催す処と云ひながら、如何にも故郷のをさなき者どもの事のみ思ひ出でつれども、その事思ひ棄てて参詣せし程に、粉河にて法然上人に対面して、念仏往生の法門を聴聞し、大乗無作の大戒を授けられ、あまつさへ上乗瑜伽の霊峯に登り、大師草創の仏閣を拝み、堂々巡礼して、六道輪廻の業を滅すらんと存ずる上、かやうに目出たく貴き事ども承れば、昔は家門主従の礼儀たりしかども、今は菩提の大善知識とこそ思し召せ。さらば、急ぎ出家を。」と宣ふを見奉るに、潮風に黒み、尽きせぬ御ものおもひに痩せ衰へ給ひて、その人とも見えずなり給ひたれども、猶ほ人には勝れて紛ふべくもなし。らうたくうつくしくぞおはしける。いかなる讐敵なりとも、哀れと思ひぬべし。
御戒の師には、東禅院に理覚坊の心蓮上人と申す僧を請じ奉る。時頼入道、出家の御具足取り調へたりけるに、三位中将は、与三兵衛、石童丸二人を近く召して宣ひけるは、「我が身こそ、かかる道狭き者となりて、様を替ふるとも、己等は、いかなるありさまをすとも、なじかはながらへざるべき。如何にもならん様を見はてなば、都へ上り、身々をも助け、をさなき者どもの便りともなるべし。」と宣へば、二人共に、はらはらと泣きて、暫しは物も{*1}申さず。
やゝありて、与三兵衛、申しけるは、「重景が父、与三左衛門尉景康は、平治の合戦の時、故殿の御伴に候ひけるが、二條堀川にて、左馬頭義朝が郎等、鎌田兵衛正清に組んで、悪源太義平に討たれけり。その時は、重景、二歳にて候ひけり。母には七歳にて後れぬ。堅固のみなし子になり果てて、『哀れ、いとほし。』と申す親しき者もなかりけるを、『景康は、我が命に代はりし者なり。その子なれば、殊に不便の者なり。』とて、御前よりそだておはしまして、九つと申しし年、君の御元服{*2}のついでに、忝くもやがて髻を取り上げられまゐらせて、『盛の字をば、五代{*3}に付け奉る。』とて、君、つかせ給ひぬ。『重の字をば、松王に賜ぶ。』とて、重景とは付けさせ給ひけり。童名を松王とは呼ばれけるも、二歳の時、母が抱いて参りければ、『この家をば小松といへば、付くるなり。』とて、松王とは召されけり。君の御元服の年より、とり分けて御方に仕へて、今年は十七年に罷りなる。表裏ともなく召し具せられしかば、遊び戯れまゐらせ、一日片時立ち離れまゐらせず。小松殿、隠れさせ給ひし時は、この世の事、つゆ思し召し棄てさせ給ひて、一言をも仰せ置かせ給はざりしかども、御いとほしみあれかしの御志にて、さしも多き侍の中に、『重景、よくよく少将{*4}に奉公して、御心に違ふな。』とばかりこそ、最後の御ことばにて候ひしか。されば君、神にも仏にもならせ給ひなん後は、如何なる楽しみ栄え侍るとも、世にあるべしとこそ存じ候はね。東方朔、西王母が一万歳の命、皆昔語りに名を伝へ、欲色二界の快楽の天、限りあれば衰没の悲しみありと承る。生死の友には会ひて別れやすく、輪廻の門には別れてあひ難し。同じくは菩提の種を植ゑて、一つ蓮に座を並べ奉り候べし。」とて、腰の刀を抜き出だし{*5}、髻を切り、三位中将よりさきに時頼入道に剃らせてけり。法名戒実と云ふ。
石童丸も、八歳よりつき奉り{*6}、跡懐よりそだちて、今年は十一年にぞなりける。志深く、御いとほしくし給ひければ、重景にも劣らず思ひ奉りけり。「多くの人の中に、屋島より打ち解け、これまで召し具せられ奉りて、真の道に捨てられ奉るべきにあらず。」と申して、本結際よりおし切りて、同じく入道に剃らせけり。法名戒円と云ふ。これ等が先立ちて剃るを御覧じ給ふにも、御涙堰き敢へ給はず。
時頼入道は、本尊の御前に香を焼き、花を供じ儲けたり。三位中将は、髻を左右に結ひ分けて、四恩師僧{*7}を拝し給ふ。心蓮上人、髪剃を取り、泣く泣く御後ろに立ち寄りつゝ、「流転三界中、恩愛不能断。棄恩入無為、真実報恩者。」と、三返唱へて剃り給ひけるにも、「北の方に今一度かはらぬかたちを見えて、かくもならば、思ふ事なからまし。」とおぼすぞ、「愛執煩悩、罪深しと云ひながら、誠に。」とおぼえていとほしき。御髪剃り落とし奉りければ、御衣を召し替へて、心蓮上人、「大哉解脱服、無相福田衣、被服如戒行{*8}、広度諸衆生。」と唱へて、御袈裟を授けたてまつる。法名戒法房とぞ申しける。(ある説に云く、「父小松内府、出家して浄蓮と申しければ、我が身をば心蓮といはん」と仰せけりと、云々。これを尋ぬべし{*9}。)
三位中将も与三兵衛も、同年にて二十七、石童丸は、十八なり。三人共に、盛りをだにも過ぎ給はぬ人々の、かく剃り給ひつゝ居並みたるを見渡して、心蓮上人も時頼入道も、墨染の袖を絞りけり。中将入道、舎人武里を召して宣ひけるは、「我、ともかくも成りなば、都へは向ふべからず。後の形見に今一度、日頃恋しかりつる事をも云ひ、又、様を替へ、身の成る果てを書きやらばやとは思へども、はや世になき者と聞くならば、思ひ歎きに堪へず、髪を落とし、かたちをやつさんも不便なり。それはせめても如何せん、淵河に身をも沈めて、をさなき者どもが便りなく、『父には生きて別れぬ。母には死して後れぬ。』と、小賢しく歎き悲しまんもいとほしかるべし、終には隠れあるまじけれども、いつしかしらせじと思ふなり。『急ぎ迎へとらん。』とこしらへ置きし事も、むなしくなりぬ。いかばかりかはつらく思ふらん。都に留まりて歎き思ふらんよりも、旅の空にあくがれて、せん方なく悲しき心をば知らず恨みん事も、いといたはし。」とて、御涙せきあへず。「只これより屋島に行きて、新三位中将、左中将{*10}達に、ありの儘を申せ。侍ども、いかに覚束なく思ふらん。誠にかくとも知らせねば、誰々もさこそ恨み給ふらめ。そもそも唐皮と云ふ鎧、小烏と云ふ太刀は、当家代々の重宝として、我まで嫡々に相伝はれり。肥後守貞能がもとに預け置きけり。それをば取りて、三位中将に奉れ。『もし不思議にて、世も立ち直らば、後には必ず六代{*11}に譲り給へ。』と申すべし。」とて、さめざめとぞ泣き給ふ。
唐皮小烏抜丸の事
「かの唐皮と云ふは、凡夫の製にあらず。仏の作り給へる鎧なり。桓武天皇の御伯父に慶円とて、真言の奥義を極め給へる貴き上人おはしき。綸言を賜ひて、紫宸殿の御前に壇を拵へ、胎蔵界の不動の前に智印を結び、こゝろを安平になぞらへて、かの法{*12}を加持せらる。七日と云ふ未の刻に、紫雲起こりてうづまき下り、その中よりあらゝかに壇上に落つる物あり。雲消え壇晴れてこれを見れば、一両の鎧あり。櫨の匂ひに白く黄なる{*13}両蝶をすそ金物に打つて、糸縅には非ずして皮縅なり。裏を返して見るに、さねのあひあひに虎毛あり。図り知りぬ、虎の皮にて縅したりと。故にその名をば唐皮とぞ申しける。
「帝、御尋ねありければ、慶円、申させ給ひけるは、『これはこれ、本朝の固めなり。これ、不動降伏の鎧なり。かの明王は、外に降魔の相を現ずといへども、内に慈悲哀愍を具足せり。火焔を身に現ずれば、如我{*14}の相を顕はす。如我{*15}の相とは、大日胎蔵の身を現ずるなり。大日胎蔵の身と云ふは、大歳の腹体をかこむ科なり。かの垣、鎧にしかず。されば、不動に七領の鎧あり。兵頭、兵体、兵足、兵腹、兵背、兵指、兵面なり。皆{*16}これ五天、五国、五花、相承相対せり。人の五体を囲はん料なり。しかれば、州中の守り、甲冑に如かず。この鎧は、七領が中の兵面と云ふ鎧なり。本朝の守りには、何物かこれにまさるべき。人、甲冑を著せん時は、専ら国の家壁と思ひて、我が物の想ひをなさじ。国を囲はん時は、ひとへに州頭の壁とのみ思はざれ。すめらぎの御衣と思ふべきなり。』と奏聞せられけり。
「されば、この鎧は、真言秘教の中より不動明王の化現し給へる処なり。国家の守りとして、六代までは大内の御宝なりけり。その後、武道に遣はして、将軍にもたすべき由、日記に留め給ひたりけるを、高望王の御孫、平将軍貞盛に下し預けられしより以来、維盛までは嫡々九代に伝はれり。今唐皮と云ふは、これなり。
「又、小烏と云ふ太刀は、かの唐皮出で来て後、七日と申す未の刻に、主上、南殿におはしまして、東天を御拝ありける折節に、八尺の霊烏飛び来つて、大床に侍り。主上、御笏を以て招き召されけり。烏、勅命によつて躍り上がり、御座の御縁に嘴を懸けて奏し申さく、『我はこれ、大神宮より剣の使者に参れり。』とて、羽づくろひして罷り立ちけるが、その懐より一つの太刀を御前に落とし留めけり。主上、御自らこの剣を召されて、『八尺の大霊烏の中より出でたる物なれば。』とて、小烏とぞ名付けさせ給ひける{*17}。唐皮と共に、宝物に執し思し召す。されば、太刀も鎧も、同じく仏神の御製作なり。本朝守護の兵具なり。よつて代々は内裏に伝はりけるを、貞盛が世に下し預けて、この家に伝はりて、希代の重宝なり。
「又、平家に抜丸と云ふ剣あり。池大納言頼盛卿にあり。中ごろ、伊勢国鈴鹿山のほとりに、賎しく貧しき男あり。身の乏しきことを歎きて、常に精進潔斎して大神宮に詣でて、世にあらん事を祈り申し、年頃日ごろおこたる事なかりければ、神明、その志を憐れんで、『汝、深山に遊猟して、獣を得て妻子を養へ。』と示現したまひければ、御託宣を憑み、鈴鹿の山を家として、夜昼猟して獣をとる。得たる時は妻子を養ひ、得ざる時は口をむなしくす。これを以て一期{*18}活命の便りとなすべしともおぼえざりければ、『我、年ごろ参詣の功によつて、霊夢を感ず。神慮に任せ、深山に遊猟すれども、身を助くるはかりごとあるべしともおぼえず。大神宮、如何にと御計らひ有るやらん。』と、愚かに冥慮を恨み思ひ奉りける折節、三子塚と云ふ所にて、あやしき太刀を求め得たり。
「この太刀儲けて後は、いさゝかも目にかゝる禽獣鳥類、遁す事なし。しかるべき宝なりけり。『我聞く、漢朝の高祖は、三尺の剣を以て、ゐながら諸国の王を従へたり。日本の愚猟、一振りの剣を求めて、帯きながら山中の獣を得たり。これ、天照大神の冥恩なり。』と思ひければ、昼夜に身を放たず。ある夜、鹿を待ちて、大きなる木の下に宿す。太刀を大木に寄せ立てて、その夜を明かす。朝にこの木を見れば、古木の如くして、枝葉、皆枯れたり。猟師、不思議にぞ思ひける。『月頃日頃もこの木の下を栖とせしかども、さてこそありしに、夜べまでは翠の梢、盛りにこそありしに、今夜この太刀を寄せかけたる故にや、一夜が内に枯れぬるこそ{*19}あやしけれ。これ、定めて神剣ならん。』とて、木枯とぞ名付けたる。
「その頃、刑部卿忠盛、伊勢守にておはしけるが、ほの聞きて、件の猟師を召し、この太刀を見給ふに、『異国はそも知らず、我が朝には有り難き剣なり。』とて、よに欲しく思はれければ、栗真荘の年貢三千石に替へて取られけり。さてこそ猟師、家富み、身ゆたかにして、いよいよ大神宮の御利生とも思ひ知りけれ。忠盛、都に帰り上り、六波羅の池殿の山荘にて昼寝して、前後も知らずおはしけるが、この木枯の太刀を枕に立て置きたり。大蛇、池より出で、口を張り、およぎ近付き、忠盛を呑まんとす。木枯、鞘よりさと抜けて、かばと転び倒るゝ音に驚きて、忠盛、起き直つて見給ふに、剣は抜けて、鐔を蛇に向けたり。蛇は、剣に恐れて水底に沈みにけり。太刀、かばと倒るゝは、主を驚かさんがため{*20}、鞘より抜くるは、主を守つて大蛇を切らんがためなりけり。それよりして、木枯の名を改めて、抜丸とぞ呼ばれける。
「平治の合戦に、頼盛、三河守にて、熊手に懸けられて討たるべかりけるにも、この太刀にて鎖金を打ち切つて、遁れ給ひけり、かかる目出たき剣なれば、嫡々に伝はるべかりけるを、頼盛、当腹にて相伝ありければ、清盛、頼盛、兄弟なれども、暫しは中悪しくおはしけりと聞こえき。」なんど、細かに物語し給ひて、「唐皮、小烏は、重代の重宝、家門の守りなり。世立ち直らば、必ず六代に伝へ給へ。」と、よくよく仰せ含めけり。
校訂者注
1:底本は、「物を申さず。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
2:底本頭注に、「君は平維盛。」とある。
3:底本は、「御代(ごだい)」。底本頭注に、「維盛。」とある。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
4:底本頭注に、「平維盛の若き時をいふ。」とある。
5:底本は、「脱ぎ出し」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
6:底本は、「つぎ奉り、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
7:底本頭注に、「心蓮上人。」とある。
8:底本は、「被奉如来教行、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
9:底本は、「尋ねべし。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
10:底本頭注に、「〇新三位中将 平資盛。」「〇左中将 平清経。」とある。
11:底本頭注に、「維盛の嫡子」とある。
12:底本頭注に、「不動明王を本尊として修する法。」とある。
13:底本頭注に、「銀と金。」とある。
14・15:底本は、「女我(によが)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
16:底本は、「これ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
17:底本は、「名付け給ひける。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
18:底本は、「一期(ご)」。底本頭注に、「一生。」とある。
19:底本は、「枯れぬる事奇しけれ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
20:底本は、「驚かさん為、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
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