維盛入道熊野詣 附 熊野大峯の事
これより熊野参詣の志ありとて、修行者{*1}の様に出で立ち給ひければ、「如何にもなり給はん様を見奉らん。」とて、時頼入道も御伴申して参りけり。紀国三藤と云ふ所へ出で給ひ、藤代王子に参り給ふ。暫く法施を奉り、所願成就と祈誓して、峠に上りたまへば、眺望、殊に勝れたり。霞篭めたる春の空、日数は雲居を隔つれど、妻子の事を思ひ出で、故郷の方を見渡して、涙のこりをぞかき給ふ{*2}。和歌浦、玉津島の明神を伏し拝みたまふにも、昔、遠明日香天皇{*3}の后、衣通姫と申ししが、帝を恋ひ奉り、行幸のなれるを知らずして、
我がせこがくべき宵なりさゝがにのくもの振舞ひかねてしるしも
と詠じたまひたりけるを{*4}、帝、立ち聞き給ひて、叡感の御情、いとゞ深くぞおぼしける。かれを思ひ出づるにも、故郷の人の悲しさに、絞りかねたる袂なり。衣通姫、此処を目出たくおぼしければ、跡を垂れたまへり。
吹上浜、与田浦、日前、国懸の古木森、沖の釣舟、磯打つ浪、哀れはいづれも取り取りなり。蕪坂を打ち下り、鹿瀬の山を越え過ぎて、高家王子を伏し拝み、日数漸く経るほどに、千里浜も近付きけり。
岩代王子を通りたまふ。その辺にて狩装束したるもの、七、八騎ばかり会ひたりけり。「敵の来り、搦め捕らんとするにや。」と、肝心を迷はして、各、腰刀に手を懸けて、自害せんとしける程に、はらはらと馬より下り、深く平みて通りにけり。「見知りたる者にこそ。誰ならん。」と浅ましくいぶせく思ひ給ひければ、いとゞ足ばやにぞ指し給ふ{*5}。当国の住人に湯浅権頭入道宗重が子息、湯浅兵衛尉宗光と云ふ者なり。郎等どももあやしげに思ひて、「この道者は誰人にておはしまし候ぞ。」と問ひければ、宗光、「あれこそ平家の故小松大臣の御子に権亮三位中将殿よ。一門の人々に落ち連れて、西国にとこそ聞き奉りしに、如何にして屋島よりこれまで伝ひ給ひけるやらん。小松殿の御時は、常に奉公申して御恩をも蒙り、この殿をも見馴れ奉りたれば、近く参りて見参にもとおもひつれども、道狭き御身となりて、憚り思し召す御気色あらはなりつれば、さて過ぎぬ。あな、いたはしの御有様や。替はる代の習ひと云ひながら、心憂かりける事かな。」とて、馬を留めてはらはらと泣きければ、郎等どもも、皆袖をぞ絞りける。
三位中将入道は、日数経れば岩田川に著き給ひて、一の瀬のこりをかき{*6}給ひ、「我、都に留め置きし妻子の事、つゆ思ひ忘るゝ隙なければ、さこそ罪深かるらめども、一度この河を渡る者、無始の罪業、悉く滅すなれば、今は愛執煩悩の垢もすゝぎぬらん。」と、憑もしげに仰せられて、
岩田川誓ひの船にさをさして沈む我が身も浮かびぬるかな
と詠じたまひても、父小松大臣の御熊野詣の悦びの道に、兄弟、この河水にあみ戯れて上りたりしに、「権現に祈り申す事あり。浄衣、脱ぎ替ふべからず。御感応あり。」とて、これより重ねて奉幣ありし事思ひ出で給ひても、脆きは落つる涙なり。
その日は滝尻に著き給ふ。王子の御前に通夜し給ひ、後世をぞ祈り申されける。かの王子と申すは、本地は不空羂索。衆生利益のためとて、跡をこの砌に垂れ、当来慈尊の暁を待ち給ふこそ貴けれ。
明けぬれば、峻しき岩間を攀ぢ登り、下品下生の鳥居の銘、御覧ずるこそ嬉しけれ。
{*7}十方仏土の中には 西方を以て望となす
九品蓮台の間には 下品といへども足るべし{~*7}
と註し置きたる諷誦の文、憑もしくこそおぼしけれ。高原の峯吹く嵐に身を任せ、三超の巌を越ゆるには、忉利の雲も遠からず。発心門に著き給ひ、上品上生の鳥居の額拝み給ひては、流転生死の家を出でて、即悟無生の室に入るとぞ思し召す。
それより本宮に著き給ひては、寂静坊阿闍梨が庵室に入り給ふ。この坊は、故小松内府の師なればなり。阿闍梨、中将入道を見奉り、夢の心地して、哀れにもなつかしくもおぼえければ、「御前に参つて、七旬の余算{*8}をたもちて、再び御顔拝み奉る事の嬉しさよ。故大臣の御参詣、只今の様におぼえてこそ。」とて、老いの袂を絞りけり。三位中将も、今更昔に立ち返る御心地して、父の大臣の御事、げに昨日今日の様に思ひ出でられ給ふにも、尽きせぬ御ものおもひに打ち副へて、阿闍梨が袖を絞るを見給ふにぞ、今一際の悲しみもまさりける。
さても中将入道殿は、「参社せん。」とて、坊を出で給ひつゝ、この御山を見給ふに、大悲利物の霞は、熊野山にたなびき、和光同塵の垂迹は、音無川に住み給ふ。常楽我浄の春風に、妄想の冰解け、仏性真如の月影に、生死の闇も晴れぬらんと、信心、肝に銘じつゝ、証誠殿の御前に再拝念誦し給ひけり。常住の禅徒、客僧の山伏、参り集まりて、懺法をぞ読みける。一心敬礼のこゑ澄めば、三世の諸仏、随喜を垂れ、第二、第三の礼毎に、無始の罪障滅ぶらんと、いと貴く思し召しければ、賢くぞ思ひ立ちける。父の大臣の、「命を召して、後世を助け給へ。」と申されける事、思ひ出でて、「かかるべき事を、かねてさとり給ひける。」とおぼえて哀れなり。
この権現と申すは、仏生国{*9}の大王善財、太子と相共に、女の心を悪みて、遥かに飛び来つゝ、この砌にぞ住み給ふ。斗薮{*10}の行者をはぐゝみ、修験の人を憐れむ。大峯と申すは、金剛、胎蔵、両部曼荼羅の霊地なり。この山に入る人は、この社壇より出で立つ。役優婆塞は、三十三度の修行者。竜樹菩薩にあひ奉りて、五智三密の法水を伝へ、伊駒嶽に昇つて、二人の鬼を搦めて、末代行者の使者とせり。弘法、智証の両大師、行者の跡を尋ねて、大峯{*11}にぞ入り給ふ。山王院大師{*12}、熊野権現の在所を尋ねて参詣し給ひしに、雲霞、峯を隔て、荊棘、道を埋づめて、東西を失ふ。滝尻に留まり、七日祈誓し給へば、八尺の霊烏飛び来りて、木の枝を食ひ折りてその路を示せば、跡をとめて上りつゝ、社壇に詣で給ひき。八尺の長頭巾{*13}、この表示とぞ聞こゆる。
花山法皇の那智篭り、寛平法皇{*14}の御参詣、後白河院の卒堵婆の銘、忝くぞおぼゆる。善宰相は、浄蔵貴所{*15}の祈祷により、閻魔宮よりかへされ、通仁親王{*16}は、行尊僧正の加持により、冥途の旅より蘇息せり。皆これ、大峯修行の効験、権現掲焉の利生なり。
およそ、かの山の体たらく、三重滝にのぞめば、百丈の浪、六根の垢を洗ひ、千草嶽に上れば、四季の花、一時に開けて盛りなり。ふきうの峯には、寒嵐、衣を徹し、古家宿には、時雨、袖をうるほす。かの馳児宿、竜のむなさき、大禅師、小禅師、屏風のそば道、釈迦嶽、負釣、行者帰、いづれも得道の人にあらずんば、いかでかこゝを通はん{*17}。しかるに権現、金剛童子の加護にて、恙なきこそ貴けれ。あるいは高山に登りて薪を採り、あるいは深谷に下りて水を汲む。大王の、阿私仙に従ひて、千歳の給仕に相似たり。太子{*18}の、檀特山に入りて、六年の苦行に異ならず。一見の新客は、初僧祇の功徳を得、三度の古衆は、三祇劫の万行を満てたり。誠なるかな、一陀羅尼の行者は、智者の頭をふむといへり。これ皆、垂迹権現の善巧方便の利益なり。
証誠殿と申すは、本地は阿弥陀如来。誓願を饒王の往昔におこして、大悲を釈迦の在世に弘め、正覚を十小劫に成じて、済度を極十歳に留む。一念十念をも嫌はず、五逆十悪、猶ほ助け給へり。一座無為の実体は、遥かの西にましませど、随縁化物の権迹は、この砌にぞ住み給ふ。前に大河流れたり。水、功徳池の波を添へ、後ろに長山連なれり。風、宝林樹の枝に通ふらし。
本地の悲願を仰ぎて、「本願、誤り給はず。必ず西方浄土に導き給へ。」と申し給ひける。中にも、「古里に留め置きし妻子、安穏に。」と祈り給ふこそ、憂世を遁れ、実の道に入りても、妄執は猶ほ尽きざりけりと悲しけれ。
明けぬれば、寂静坊に暇を乞ふとて、「和光同塵は、まちまちにましませども、利益衆生は一つなり。両度参詣の契りを以て、一仏浄土に必ず。」とて、本宮を出で給ひ、備崎より舟に乗り、時々は苔路をさし、新宮に詣で給ふ。一夜通夜し給ひて、祈誓は本宮に同じ事。翌日は、明日香、神蔵に暫く念誦し給ひて、那智へぞ参りたまひける。佐野の浜路に著き給へば、北は緑の松原影しげく、南は海上遥かに際もなし。日数の移るにつきても、あた命{*19}のつゞまるほど、屠所の羊の足早く、心細くぞ思しける。
那智の御山はあなたふと、飛竜権現おはします。本地は千手観音の化現なり。三重百尺の滝の水、修禅の峯より流れ出でて、衆生の塵垢を洗ひき。千手如意の本誓は、弘誓の船に棹さして、沈淪の生類を渡し給ふも憑もしや。法華読誦の音声は、霞の底に幽かなり。如来の説法したまひし、霊山浄土に相似たり。観音薩埵の霊像は、岩の上にぞ坐し給ふ。大悲の生を利益する、補陀落山とも謂ひつべし。
「去にし寛和の頃、花山法皇の行ひ給ひにける所。」とて、時頼入道、教へ奉りければ、滝本へ下り給ひて、その旧跡を拝すれば、今は御庵室も霧に朽ちて、その跡なし。庭上に若草繁くして、垣根に蔦纏へり。昔のなごりを忍べとや、千代の形見にひき植ゑさせ給ひける老木の桜ばかりこそ、折知りがほに咲きにけれ。かやうの事ども御覧じけるに、「かれは、明哲聖主の君。猶ほ浮世をば厭ひたまひけり。我は、愚昧凡人の臣、何にか執を留むべき。」と思し召しけるにこそ、「無始の罪障、露消えぬ。」ともおぼしけめ。
さても社頭に念誦し給ひたりけるに、社参の客僧の中に、五十有余とおぼしき山伏のさめざめと泣くあり。かたへの僧、けしからず、「何事にかく泣き給ふぞ。」と問ひければ、この僧、答へて云く、「余りに哀れなる事ありて、そゞろにかく泣かるゝなり。各、知り給はずや。只今御前に参り給へる道者をば、誰とか見給ふ。あれこそ平家の嫡々、故小松大臣{*20}の一男、権亮三位中将維盛よ。一門に落ち具して屋島にと聞きしが、如何にしてこれまでは伝ひ給ひたるやらん、出家し給ひたるにこそ。御髪の剃り様、近き程と見えたり。いと哀れなる事かな。右の方に少しさし出で居たるは{*21}、やがて父小松の大臣の侍に三條斎藤左衛門大夫望頼が子、斎藤滝口時頼よ。あれも、建礼門院の雑司に横笛と云ふ女に心を移して通ひしを、父が勘当を得て、わりなく思ひし妻に別れ、親にもしられずして、十八と申ししに、ひそかに出家して、高野に登つて行ひ澄ましてありと聞きしが、先達して参りたるにこそ。善知識の料とおぼえたり。左の方に少しさし退きて居たるは、平治の時、悪源太に討たれし与三左衛門尉景康が子、与三兵衛重景よ。その後なる小入道は、この殿の召し仕ひし石童丸と見えたり。皆出家してけるや。
「かかる世の中に、これまで参り給へるは、後世の事を祈念して、水の底にも入りなんと思し召すやらん。父の大臣も、この御前に参り給ひて、後世の事を祈り給ふ。下向して程なくうせ給ひにしかば、その事思ひ出で給ふとおぼゆるぞ哀れなる。
「安元二年の春のころ、法皇{*22}、法住寺殿にて五十の御賀のありしに、時のきらに付きて、青海波の曲を舞ひ給ひしに、前には月卿、玉の冠をみがきて十二人。後ろには雲客、花の袂を連ねて十五人。その中に父大臣{*23}は、内大臣の左大将。叔父宗盛は、中納言右大将。知盛は、三位中将。重衡は蔵人頭、中宮亮。已下、一門の月卿雲客、今日を晴れときらめきて、皆花やかなるかほにて、舞台の垣代{*24}に立ち給ひたりし時は、さしも美しくこそおはせしか。中にもこの時は、四位少将にて舞ひ給ひたりしかば、嵐に類ふ花の色、匂ひを招く舞の袖、天を照らし、地もかゞやく程に見えしかば、簾中簾外、皆さゞめき立ちて、『桜梅の少将』とこそ申ししか。『哀れにうつくしく見え給ふ人かな。今三、四年が程に、大臣の大将は疑ひあらじものを。』と、諸人に謂はれ給ひしぞかし。されども、竜樹菩薩の釈{*25}に曰く、『{*26}世間は車輪の如し。時に変じて輪転に似たり{~*26}。』(文)と。げに只今の有様に引きかへておはするを見れば、朝の紅顔、夕の白骨。理なりと思ひ合はせて泣かるゝなり。」と語りければ、皆人々{*27}、柿の衣{*28}の袖をぞ絞りける。
校訂者注
1:底本頭注に、「山伏。」とある。
2:底本頭注に、「コリ(垢離)をかくといふのは修行者の水浴すること。涙にむせぶことによそへていふ。」とある。
3:底本頭注に、「允恭天皇。」とある。
4:底本は、「詠じたまひたりけるに、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
5:底本頭注に、「或方向を指して行く。」とある。
6:底本頭注に、「水浴すること。」とある。
7・26:底本、この間は漢文。
8:底本頭注に、「七十の余命。」とある。
9:底本頭注に、「釈尊の生まれし中印度。」とある。
10:底本は、「斗薮(とそう)」。底本頭注に、「頭陀。」とある。
11:底本頭注に、「大和国吉野山の奥。」とある。
12:底本頭注に、「智証大師。」とある。
13:底本は、「(ながときん)」。底本頭注に、「山伏の被るもの。」とある。
14:底本頭注に、「宇多法皇。」とある。
15:底本頭注に、「〇善宰相 三善清行」「〇浄蔵貴所 三善清行の第八子。七歳にて出家す。」とある。
16:底本頭注に、「鳥羽天皇の第二皇子。」とある。
17:底本は、「得通の人にあらずんば、争(いか)でか爰(こゝ)を通らん。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
18:底本頭注に、「悉達太子。」とある。
19:底本頭注に、「あたは稍事物を軽視したる意」とある。
20・23:底本頭注に、「平重盛。」とある。
21:底本は、「さし出でたるは、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
22:底本頭注に、「後白河法皇」とある。
24:底本は、「垣代(かいしろ)」。底本頭注に、「青海波の舞楽の時に庭上に立ち並ぶ楽人をいふ。」とある。
25:底本頭注に、「竜樹菩薩の論述せられし書を疏釈せるもの」とある。
27:底本は、「皆々、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
28:底本頭注に、「山伏の衣は柿色なのでいふ。」とある。
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