中将入道入水の事

 中将入道、三つの山{*1}の参詣、事ゆゑなく遂げられければ、浜宮の王子の御前より、一葉の舟に棹さして、万里の波にぞ浮かび給ふ。遥かの沖に小島あり。金島とぞ申しける。かの島に上りて、松の木を削りつゝ、自ら名籍を書き給ひけり。
 平家嫡々正統小松内大臣重盛公の子息、権亮三位中将維盛入道、讃岐の屋島の戦場を出でて、三所権現の順礼を遂げ、那智浦にて入水し畢んぬ。
    元暦元年三月二十八日生年二十七
と書き給ひ、奥に一首を遺されけり。
  生まれては終に死ぬてふ事のみぞ定めなき世に定めありける
その後、又、島より船に移り乗り、遥かの沖に漕ぎ出で給ひぬ。思ひきりたる道なれど、今を限りの浪の上、さこそ心細かりけめ。
 三月の末の事なれば、春も既に暮れぬ。海上遥かに霞篭め、浦路の山も幽かなり。沖の釣舟の波の底に浮き沈むを見給ふにも、我が身の上とぞ思はれける。帰雁の、雲居のよそに一声二声、おとづるゝを聞き給ひても、故郷へ言伝せまほしく思しけり。西に向ひ、掌を合はせ、念仏高く唱へつゝ、心を澄まし給へり。已に水に入り給ふかと見えけるが、念仏を止めて宣ひけるは、「あゝ、今を限りとは、いかでか都に知るべきなれば、風の便りの言伝は、折節毎にあひまたんずらん。終に隠れあるまじければ、世になきものと聞きて、いかばかりか歎き悲しまんずらん。思ひつゞけらるゝぞや。『たとひ水の底に沈むとも、などや、今は限りの文一つなからん。』と、恨みん事もいとほしかるべし。されば、後の世の形見にもなれかしと思へば、最後の文を書かばやと思ふなり。」とて、やがて書き給へり。
 「さて都を出でて、西国に落ち留まりたらば迎へ奉らんとこそ思ひ申ししに、敵に攻められて、こゝにもかしこにも安堵せねば、そも叶はず。とても遁るまじき身なり。年月を重ねてつもる思ひも晴れがたければ、忍びつゝ山伝ひして、今一度見もし見え奉りて、如何にもならんは力なしと思し立ちて、屋島をばあくがれ出でたれども、浦々島々に敵充ち満ちたりと聞けば、平らかに上りつきて、人々を見奉らん事もかたし。甲斐なき者どもにとらはれて、重衡卿のやうに恥をさらさんことも、身のため人のため、日頃の思ひに打ちそへて、由なく思ひ侍りつれば、道より思ひ返して高野に登り、髪を落とし、戒をたもつて、貴き所々拝み廻り、熊野に参り、後世を祈り、那智の海にてむなしく成り侍りぬ。かくと聞き給ひての御歎き、かねて思ひ置き奉るこそいたはしけれ。御身と云ひ、をさなき者と申し、後いかならんと思ひ残す事侍らず。心の中、只推し量り給ふべし。舟の中より申せば、筆の立ちども定かならず。朽ちせぬ契りならば、後世には必ず。」
とて、奥に、
  故郷にいかに松風恨むらむ沈む我が身の行くへしらずば
と遊ばして、武里{*2}にたびて後、宣ひけるは、「やゝ、入道殿。あはれ、人の身に妻子は持つまじきものなりけり。この世にて物を思ふひのみに非ず。後世菩提までの妨げとなる事の心憂さよ。親しき人にも知らせで屋島を出でしも、もしや都へ忍び著きて、今一度相見る事もやと思ひ立ちたりしかども、その事、叶ふべくもなし。本三位中将{*3}のいけどられて、京都、鎌倉、恥をさらすだにも心憂きに、我さへとられ搦められて、父の頭に血をあやさん事もうたてければ、思ひきりて髪を剃りし上は、今更妄念あるべしともおぼえざりしに、本宮証誠殿の御前にて、夜もすがら後世の事を祈り申ししに、をさなき者どもの事思ひ出でて、我が身こそかくなりぬとも、故郷の妻子、平安に守り給へと申されき。又、未来の昇沈は最後の一念によると聞けば、一心に念仏申して九品の蓮台に生まれんと、今を最後の正念と思へば、又思ひ出づるぞや。誠や、思ふ事を心中に残すは、妄念とて罪深しと聞けば、懺悔するなり。」と語り給へば、時頼入道、涙を押し拭ひて、「尊きも卑しきも、恩愛の道は、繋けるくさりの如くとて、力及ばざる事に侍り。
 「されば、迷ひを捨てて、悟りをとる。釈迦如来、菩提の道に入らんとて、十九にして城を出で給ひしに、耶輸陀羅女{*4}になごりを惜しみて、出でかね給ひけり。仏、猶ほかくの如し、いはんや凡夫をや。尤も悲しむべし。いかでかいたましからざらん。中にも、夫妻は一夜の契りを結ぶ、既に五百生の宿縁と申せば、この世一つの御事にあらず。かく思し召す、尤も理なれども、生者必滅、会者定離は、憂世の習ひなれば、たとひ遅速こそありとも、後れ先立つ御別れ、終になくてや侍るべき。いつも同じ事と思し召さるべし。但し、第六天の魔王と云ふ外道は、欲界人天を我が奴婢と領して、この中の衆生の、仏道を行じ、生死を離るゝ事を惜しみ憤りて、様々の方便を廻らし、これを妨ぐる内、あるいは子となりて菩提の大道を塞ぎ、あるいは妻となりて愛執の牢獄を出でず。されども、三世の諸仏者は、一切衆生を悉くに我が御子の様に思し召して、浄土不退の地に勧め入れんとし給ふに、妻子と云ふもの、生死を繋ぐきづななるが故に、仏の重く誡め給ふは、即ちこれなり。御心弱く思し召すべからず。
 「伊予入道頼義は、東国の俘囚、貞任、宗任を亡ぼさんとて、十二年の間、人の首を切る事一万五千人。山野の獣、江河の鱗に至るまで、その命を断つこと幾千万と云ふ数を知らず。されども一念菩提心をおこししによつて、往生する事を得たり。御先祖平将軍{*5}は、相馬小次郎将門を討つて、東八箇国を鎮め給ひしより以来、相続き朝家の御守りにて、嫡々九代に成りたまへば、君こそ今は日本国の大将軍にておはしますべけれども{*6}、故小松大臣、世を早うせさせ給ひしかば、御身に積もる御罪業あるべしともおぼえず。いはんや出家の功徳は莫大なれば、先世の罪障、悉くに亡び給ふらん。謹しんで諸経の説を案ずるに、百千歳が間、百羅漢を供養するも、一日出家の功徳には及ばず。たとひ人ありて、七宝の塔を立てん事、高さ三十三天に至るとも、一日出家の功徳には猶ほ及び難しといへり。又、一子出家すれば、七世の父母、皆得脱すとも明かせり。七世なほかくの此し、いはんや我が身においてをや。さしも罪深き伊予入道、心強きが故に{*7}往生を遂ぐ。させる罪業おはしまさざらんに、などか極楽へ参り給はざるべき。
 「中にも弥陀如来は、十悪五逆をも嫌はず、一念十念をも導き給はんと云ふ悲願おはします。かの願力を憑まん人、疑ひやはあるべき。二十五の菩薩を引き具し給ひて、伎楽歌謡し、只今極楽の東門を出で来給ふべし。観音、蓮台を捧げ、勢至、掌を合はせ、迎へ給はんずれば、今こそ滄海の底に沈むと思し召すとも、則ち紫雲の上にこそ昇り給はんずれ。成仏得脱して、神通身に備はり給ひなば、娑婆の故郷に還りて、恋しき人をも御覧じ、かなしき人をも導き給はん事、いとやすかるべし。」と申しければ、中将入道、「しかるべき善知識にこそ。」と嬉しくて、忽ちに妄心を翻して正念に住し、又念仏高く唱へ給ひ、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨。」と誦し給ひつゝ、海にぞ入り給ひにける。与三兵衛入道、石童丸も、同じく続きて入りにけり。
 舎人武里、これを見て、余りの悲しさに、「海へいらん。」としけるを、「如何にうたてく御遺言をば違ふるぞ。下﨟こそ口惜しけれ。」とて、時頼入道、いだき留めたりければ、船の中に伏しまろび、喚き叫ぶことなのめならず。悉達太子の、十九にて檀特山に入り給ひし時、車匿舎人が棄てられて悶え焦がれけんも、これには過ぎじとぞ見えし。時頼入道も、さすが哀れに悲しくて、墨染の袖絞り敢へず。「もし浮かびもぞ上り給ふ。」とて、暫し見けれども、三人ながら深く沈みて見えざりけり。日も既に暮れければ、名残は惜しく思へども、むなしき舟を漕ぎ戻す。楫の雫、落つる涙、いづれもわきて見えざりけり。
 磯近くなる儘に、渚の方を見れば、海士ども多く集まりて、沖の方へ指をさし、何とやらん云ひければ、あやしくおぼえて、船さし寄せて問ふ。老人、申しけるは、「沖の方に例ならず音楽の声しつれば、各、あやしく聞き侍りつる程に、又、先々もなき紫色の雲一村{*8}、かしこの程に出で来て侍りつるが、程なく見えずなりぬ。既に八十に罷りなりぬれども、未だあれ様{*9}の雲も見え侍らず。」と語りけり。「さては、この人々の往生の瑞相、顕はれぬ。如来の来迎に預かりて、紫金の台に乗り給ひにけり。」と思ひければ、別離の涙、随喜の袂、とりどりなり。
 (ある説に云く、三山の参詣を遂げられにければ、高野へ下向ありけるが、「さてしも遁れはつべき身ならねば。」とて、都へ上り、院御所へ参りて、「身、謀首にも侍らねば、罪深かるべきにも非ず。命をば助けらるべき。」由をぞ申し入れける。事の体、不便に思し召されて、関東へ仰せ遣はされけり。頼朝御返事に、「かの卿を下し給ひて、体に随つて申し入るべし。」と申したりければ、罷り下るべき由、法皇より仰せ下されける後は、飲食を断ちたりけるが、二十一日と云ひけるに、関東へも下著せず、相模国湯下宿にて入滅ともいへり。禅中記に見えたり。
 (ある説には、那智の客僧等、これを憐れみて、滝の奥の山中に庵室を造りて、隠し置きたり。その所、今は広きはたと成りて、かの人の子孫、繁昌しておはす。毎年に香を一荷、那智へ備ふる外は、別の公事なし。故にこゝを香ばたと云ふ、と。入海は偽り事と、云々。)
 時頼入道は、高野へ上りにけり。武里は、讃岐の屋島に下りにけり。御弟の新三位中将{*10}に逢ひ奉り、三位中将入道殿{*11}宣ひける事ども、ありの儘に語り申せば、「あな、心憂や。如何なる事なりとも、などや資盛には知らせ給はざりける。さあらば御伴申して、同じ水底にも入りなましものを。我が憑み奉る程は思ひ給はざりける恨めしさよ{*12}。一所にて如何にもならんとこそ申ししか。」とて、涙をせき敢へず流しけるこそ無慙なれ。「三位中将をば、『池大納言の如くに頼朝に心通はして、京へ上りにけり。』と、大臣殿も心得給ひて、資盛にも打ち解け給はざりつるに。さては、身を投げ給ひける事の悲しさよ。云ひ置き給ふ事はなしや。」と問ひ給へば、武里、泣く泣く申しけるは、「京へはあなかしこ、上るべからず。屋島へ参りて、ありつる{*13}事ども委しく申せ。一所にて如何にもならんとこそ思ひ侍りしかども、都に留め置きしをさなき者どもの余りに覚束なくて、あるそらもなかりしかば、もしや伝ひ上りて今一度見ると思ひて、あくがれ出でたりしかども、叶ふべき様なければ、かく罷りなりぬ。備中守{*14}も討たれぬ、維盛もかくなりぬれば、如何にも便りなく思し召すらんと、心苦しくこそ侍れ。」又、唐皮、小烏までの事、細々と申したりけるを聞き給ひて、「今は、資盛とても、叶ふべきに非ず。」と、宣ひも敢へず御涙を流し給ふ。故三位中将にゆゝしく似たれば、武里も見奉りては、ともに袖をぞ絞りける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「熊野の三山即ち本宮、那智、新宮。」とある。
 2:底本は、「武里(たけさと)」。底本頭注に、「舎人の名。」とある。
 3:底本頭注に、「平重衡。」とある。
 4:底本は、「耶輸陀羅女(やすだらによ)」。底本頭注に、「釈迦出家前の妃。」とある。
 5:底本頭注に、「平貞盛。」とある。
 6:底本は、「おはすべけれども」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 7:底本は、「心強き故に」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 8:底本は、「一村(ひとむら)」。底本頭注に、「一群。」とある。
 9:底本は、「あれ様(さま)」。底本頭注に、「あのやうな。」とある。
 10:底本頭注に、「平資盛。」とある。
 11:底本頭注に、「平維盛。」とある。
 12:底本は、「思ひ給はざりけり。うらめしさよ、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 13:底本は、「ありける事ども」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 14:底本頭注に、「平師盛。」とある。