弥巻 第四十一
頼朝正四位下に叙す 附 崇徳院遷宮の事
元暦元年三月二十八日の除目に、兵衛佐頼朝、正四位下に叙す。尻付{*1}には、義仲を追討の賞とぞありける。元従五位下なれば{*2}、すでに五階の賞に預かる。勲功の越階、その例あるによつてなり。
同じき四月十五日子の時に、崇徳院、遷宮あり。春日が末、北河原の東なり。此処は、大炊殿の跡、先年の{*3}戦場なり。去りし正月の頃より、民部卿成範卿、式部権少輔範季、両人、奉行として造営せられけるが、成範卿は、故少納言入道信西が子息なり。信西、保元の軍の時、御方{*4}にて専ら事行なはれ、新院{*5}を傾け奉りたる者の息男なり。「造営の奉行、神慮、はゞかりあり。」とて、成範を改められて、権大納言兼雅卿、奉行せられけり。法皇御宸筆の告文あり。参議式部大輔俊経卿ぞ草しける。権大納言兼雅卿、紀伊守範光、勅使をつとむ。御廟の御正体には、御鏡を用ゐられけり。かの御鏡は、先日、御遺物を兵衛佐局に御尋ねありけるに、取り出でて奉りたりける八角の大鏡なり。元より金銅普賢の像を鋳付け奉りたりけり。今度、平文の箱に納め、奉られたり。
又、故宇治左大臣{*6}の廟、同じく東の方にあり。権大納言{*7}、拝殿に著して再拝、畢りて、告文を披かれて、又再拝ありて、俗別当神祇大副卜部兼友朝臣に下したまふ。兼友、祝{*8}申して、前庭にしてこれを焼きけり。玄長を以て別当とす(故教長卿の子)。慶縁を以て権別当とす(故西行法師の子)。遷宮の有様、事において厳重なりき。
忠頼討たる 附 頼盛関東下向の事
同じき二十六日に、甲斐の一條次郎忠頼、誅せられけり。酒礼を儲けてたばかりて、宮藤次資経、被官滝口朝次等、これを抱きたりけり。忠頼、せん方なくて亡びにけり。郎等、あまた太刀を抜いて、縁の上に走り昇り、打つてかゝりけるを、搦め捕らんとしける程に、疵を被る者多かりけり。忽ち二、三人は伏誅せられ、その外は皆いけどられぬ。忠頼が父、武田太郎信義を追討すべき由、頼朝の下知によつて、安田三郎義貞は、甲斐国へ発向す。義貞がためには、信義は兄なり。忠頼は、甥ながら{*9}婿なりけり。世に随ふ習ひとて、兄誅罰に下りにけるこそ無慙なれ。
同じき五月十五日、前大納言頼盛卿、上洛し給へり。関東にて賞翫せられ給ひける事、心もことばも及びがたし。
この人、鎌倉へ下り給ひける事は、平家、都を落ち給ひしに、共に打ち具して下り給ひし程に、兵衛佐、かねての状を憑みて、道より返し給へり。かの状には、「遁れ難き命をゆるして生けられ奉りし事、ひとへに池尼御前の芳恩にはべり。その御志、生々に忘れ難し。頼朝、世に経廻せば、御方に奉公仕りて、かの御恩に報じ奉るべし。この條、嬌飾の作りごとにあらず。且は、二所、八幡の御知見を仰ぐ。」と、度々申し上げられたりければ、深くその状を憑みて落ち残りたまひたれども、「頼朝こそかくは思ふとも、木曽冠者、十郎蔵人、我に情を置くべきにあらず。如何なり行かんずらん。」
波にも著かず、磯にも著かぬ風情して、肝心を砕きて過ぎ給ひける程に、行家は、木曽に恐れて、都の外に落ちぬ。義仲は、九郎冠者に討たれければ、いさゝか安堵し給へるに、兵衛佐より重ねて状を上せ給へり。「上洛を企て、参り申すべきの処に、その状、当時、難治に侍り。急ぎ御下向あらば、畏まり存ずべし。且は、故尼御前を見奉ると思ひ侍るべし。宗清左衛門尉、同じく召し具せらるべし。」と申されたりけるによつて、下向し給ひけり。
弥平左衛門尉宗清と云ふは、もとは平家の一門なりけり。当時、侍振舞ひにて、池殿には相伝専一の者なり。頼朝の命に任せて、召し具すべき由、仰せられけるに、宗清、辞し申しけり。大納言、「如何に。」と問ひ給へば、「君は、かくて御渡りあれども、御一門の公達、西海に漂ひて、安き御心なし。思ひ遣り奉るに、心憂くおぼえて、安堵の心侍らず。今度の御伴をば暇賜はつて{*10}、追つて下向仕るべし。」と申すなり。
大納言、苦々しく恥ぢ思ひ給ひて、「一門を引き別れて落ち留まる事、我が身ながらもいみじとは存ぜねども、妻子もあれば、世も捨て難くて、甲斐なき命も惜しければ、なまじひに留まりき。この上は、留まるべきに非ず。下らんと思ふなり。大小の事、汝にこそ仰せ合はせられしか。落ち留まりし事、受けず思はば{*11}、その時、などや所存を申さざりけるぞ。」と宣へば、宗清、「人の身に、命に過ぎて惜しき物やは候べき。身あれば又、世は捨てられぬ事なれば、御とまりを悪しとにはあらず。兵衛佐も、命を生けられまゐらせてこそ、かかる幸ひにも合ひ給へ。平治の時、預かり置き、情ある体にて相当りし事、又、故尼御前の仰せにて、近江国篠原宿まで送り奉りし事、『忘れず{*12}。』と承れば、御伴申して下りたらば、定めて所領、引出物なんど賜はんずらん。それに付きても、西海におはします公達、侍どもの伝へ聞かん事、恥づかしく侍れば、今度は暫く罷り留まるべし。君は、落ち留まりおはします上は、御下向なからんも、中々様がましかるべし。兵衛佐{*13}、尋ね申されば、『折節、いたはる事あり。』と申したくこそ侍れ。」とて、下らざりければ、聞く人、「げにも。」と感じ申しけり。
大納言、鎌倉に下著し給ひたりければ、兵衛佐、急ぎ見参し給ひけるに、まづ、「宗清左衛門尉は、御伴か。」と尋ね申さる。「いたはる事ありて、下向なし。」と宣ひければ、世にも本意なげにて、「頼朝、召人にて宗清がもとに預け置かれたりしに、事にふれて情深くあたり申ししかば、忘れがたく恋しくもおぼえて、必ず召し具せらるべき由、かねて申し上せて侍れば、御伴には定めて下り候らんと相存じて候へば、返す返す遺恨に候ひき。『平家、都を落ちぬ。今更頼朝に面を合はせん事よ。』など云ふ意趣も、残り侍るにや。」とまで宣ひて、誠に、「本意なし。」と思へる気色なり。宗清が料とて、所領の宛文までなし儲け、馬、鞍、絹、染物等、様々の引出物、用意あり。その上、大名三十人に仰せて、「一人別の結構{*14}には、鞍置馬、裸馬、各一匹、長櫃一合、その中には宿物{*15}一領、小袖十領、直垂五具、絹十匹入るべし。この外、分に過ぐべからず。」と下知せられければ、三十人、面々に、「われおとらじ。」と、馬は、六鈴沛艾を選び、鞍は、金銀をちりばめたりけれども、下らざりければ、これも面々に、本意なき事にぞ思ひ申しける。
大納言殿をば、「暫く鎌倉にもおはしまし候へかし。」と宣ひけれども、「京都にも、覚束なく思ふらん。」とて、急ぎ上洛せられければ、「大納言に{*16}なし返し奉るべき。」のよし申され、内奏しける上、もとの知行荘園は、一所も相違なし。そのほか、所領八箇所の下し文等、書き副へて奉る。鞍置馬二十匹、裸馬二十匹、長持二十合、中には衣、染物、砂金、鷲羽{*17}など入れられたり。「そのあたひ、十万余貫に及べり。」と云ふ。兵衛佐、かやうにもてなし給ひければ、大名小名、「我も、我も。」と引出物を奉る。宗清が料の用意も、皆この殿にぞ奉りける。されば、上り給ひけるには、馬も三百匹に余りけり。
命を生け給へるだにも有り難きに、あまつさへ、「徳付き、所知得給へり。」と披露ありければ、人の口、様々なり。あるいは、「家の疵をも顧みず、一門を引き分けて、永く名望を失ひて、今に存命を全うすること、しかるべからず。」と謗る者もあり。また、「池尼公、頼朝をなだめ生けずば、頼盛、いかでか虎口を遁れて鳳城に還らん。積善の家には必ず余慶ありと云ふ。誠なるかな。」と、羨みほむる者もあり。その口、いづれも理なり。
義経関東下向 附 親能義広を搦む 並 除目の事
同じき六月一日、源九郎義経、身の暇を申さず、ひそかに関東へ下向す。梶原平三景時がために讒言せられて、誤りなき事を謝せんとぞ聞こえし。その間に、土肥次郎実平、西国より飛脚を立つ。九国の輩、大略平家に同意の間、官兵、利を得ざるの由、言上したりけれども、義経、平家追討の事をなげうつて下向したりければ、人皆、傾け申しけり。
同じき三日{*18}、前斎院次官親能(前明経博士広季が子、頼朝の臣専一の者なり{*19}。)、双林寺にして{*20}前美濃守義広を搦め捕る間、両方、疵を蒙る者多し。木曽義仲に同意して、去んぬる正月合戦の後、跡をくらまして、なかりけるに、今、在所をあなぐられ{*21}て、遂に搦め捕られけり。この義広と云ふは、故六條判官為義が末子なり。武を以ては夷賊を平らげ、文を以ては政務をたゞすとこそ云ふに、親能は、明経博士なり。義広は、源家の勇士なり。「今、重代武勇の身と生まれて、儒家のためにいけどられけるこそ口惜しけれ。」と、人皆、唇をかへして爪を弾く。「まこと。」とおぼえたり。
同じき六日、前大納言頼盛卿、大納言に還任す。蒲冠者範頼、参河守に任じ、源広綱、駿河守に任じ、源義延、武蔵守に任じけり。「これ等は内々、頼朝朝臣、推挙{*22}申しける。」とぞ聞こえし。
校訂者注
1:底本は、「尻付(しりつけ)」。底本頭注に、「奥書と同じ。」とある。
2:底本は、「従五位下なれば、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
3:底本は、「先年戦場なり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。底本頭注に、「〇先年戦場 保元の乱の戦場。」とある。
4:底本は、「御方(みかた)」。底本頭注に、「後白河法皇の御方。」とある。
5:底本頭注に、「崇徳上皇。」とある。
6:底本頭注に、「源頼長。」とある。
7:底本頭注に、「藤原兼雅。」とある。
8:底本は、「祝(のと)」。底本頭注に、「神祇に奏する祝詞。」とある。
9:底本は、「姪(をひ)ながら壻(むこ)なりけり。」。ふりがなに従い改めた。
10:底本は、「暇賜ひて、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
11:底本頭注に、「腑に落ちないと思ふならば。」とある。
12:底本は、「忘れぬと」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
13:底本頭注に、「源頼朝。」とある。
14:底本頭注に、「用意。」とある。
15:底本は、「宿物(とのゐもの)」。底本頭注に、「寝具。」とある。
16:底本は、「大納言殿に」。
17:底本は、「鷲羽(わしのは)」。底本頭注に、「矢をはぐ材料。」とある。
18:底本は、「二日」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
19:底本は、「前明経士広季が子、頼朝の臣専一なり。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改め、補った。
20:底本は、「双林(さうりんじ)寺にて」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
21:底本頭注に、「探し求められ。」とある。
22:底本は、「吹挙(すゐきよ)」。底本頭注に従い改めた。
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