三日平氏 附 維盛の旧室夫の別れを歎く 並 平氏歎きの事
同じき八日、去る晦日、平氏、備前国に攻め来る。甲斐源氏に板垣冠者兼信(信義次男)、美濃国{*1}を出でて、備後国に行き向うて合戦しけり。平氏の船十六艘を討ち取る間、両方命を失ふ者、その数を知らず。これによつて、「兼信、美作国司に任ずべき。」由、言上しけり。
伊賀国山田郡の住人平田四郎貞継法師と云ふ者あり。これは、平家の侍、肥後守貞能が弟なり。「平家、西国に落ち下つて、安堵し給はずと聞こえければ、日頃の重恩を忘れず、多年のよしみを思ひて、当家に志ある輩、伊賀、伊勢両国の勇士催し、平田城に衆会して謀叛を起こし、近江国を打ち従へて、都へ{*2}攻め入るべし。」と聞こえければ、佐々木源三秀義、驚き騒ぎけり。我が身は老体なれば、東国、西国の軍には、子息どもを差し遣はして、下向せず。「近き程に敵の篭りたるを聞きながら、黙止すべきに非ず。」とて、国中の兵を催し集めて、伊賀国へ発向しければ、甲賀上下郡の輩、馳せ集まつて相従ひけり。秀義は、法勝寺領大原荘に入る。平家は、伊賀壬生野平田にあり。行程三里をば過ぎざりけり。源平、互に、「勝つに乗るべきか、敵の寄するを待つべきか。」と評定しけり。
平家の方に、伊賀国の住人壬生野新源次能盛と云ふ者の、計らひ申しけるは、「当国は、分限せばし。大勢乱れ入りなば、国の煩ひ、人の歎きなり。近江国へ打ち出でて、鈴鹿山を後に当てて軍せんに、敵弱らば、かけてんず。敵つよらば、山に引き篭り、などか一戦せざるべき。」と云ひければ、「しかるべし。」とて、源次能盛、貞継法師、三百余騎の兵を引率して、柘殖郷、与野の道芝打ち分けて、近江国甲賀郡上野村、[木歮]窪{*3}、篠鼻、田堵野に陣を取つて、北に向つて控へたり。佐々木は、大原荘油日明神のつゞき、下野に南へむけて陣を取る。源平、小河を隔てて控へたり。両陣、七、八段には過ぎざりけり。
互に名対面して、散々に射る。死ぬる者もあり、手負ふ者も多し。平家は、思ひきりたりければ、命も惜しまず戦ふ。源氏の軍、緩やかなりければ、源三秀義、一陣に進んで、「平氏は、宿運既に尽きて、西海に落ち給ひぬ。残党、いかでか源家を傾くべき。かかれよ、若党。組めや、者ども。」と下知しける処に、壬生野新源次能盛、十三束三伏を、よ引きかためて放つ矢に、透間を射させて馬より落つ。秀義が郎等、「敵をもらさじ。」と目に懸けて、暫し堅めて放つ矢に、能盛、馬より下へ射落とさる。「敵に頚を取られじ。」と、乗替の童、馬より飛び下り、主の頚をかき落として、壬生野の館に馳せ帰る。源氏の郎等どもも、今日の大将軍源三秀義を討たれて{*4}、五百余騎、轡を並べて、河をさと渡して、揉みに揉みてぞかけたりける。西国の住人等、散々にかけたてられて、自ら先立つものは、遁れけれども、後陣は、多く討たれにけり。「今は返し合はするに及ばず。」とて、鈴鹿山に引き篭る。それよりちりぢりにこそ成りにけれ。
「平家重代の家人なり。相伝恩顧のよしみ、忘れ難くして、思ひ立ちける志は哀れなれども、そもおほけなし{*5}。」とぞおぼえたる。「三日平氏。」と笑ひけるは、この事なり。
同じき十七日、平氏の{*6}軍兵等、舟に乗り、摂津国福原の故郷に襲ひ来る由、梶原平三景時、備前国より飛脚を以て申し上げたりければ、都のさわぎ、なのめならず。
権亮三位中将入道の北の方は、自らの言伝も絶え果て、風の便りの音信をも聞き給はで程ふれば、覚束なくぞ思し召しける。月に一度などは、必ず文をも待ち見給へども、春も過ぎ、夏もたけぬ。「いかにと成り給ひぬるやらん。」と思し召しけるに、「三位中将は、屋島にはおはしまさずと云ふ人あり。」と聞き給ひて、浅ましさの余りに、人を屋島へ奉りたりけれども、それも急ぎ返り上らず。早、秋にもなりにければ、いとゞせん方なくぞ思されける。
七月七日、御使、返り上りたり。「如何に、御返事は。」と尋ね給へば、御使、涙を流して、「去りし三月十五日に屋島を出でさせ給ひて、高野へ参り給ひたりけるが、時頼入道の庵室にて御髪おろし、それより熊野{*7}へ伝ひ給ひつゝ、三山{*8}拝ませ給ひて後、那智の沖にて御身を投げさせ給ひければ、重景も石童丸も、共に出家し侍りけるが、後世までの御伴とて、同じく水に入りぬと、熊野まで御伴申したりける舎人武里、たしかに語り申し侍りしが、これを最後の御文、言伝申し侍る。」とて、まゐらせたれば、北の方、取りあげ披き給ふにも及ばず。「さればこそ。怪しかりつるものを。」とばかり宣ひて、倒れ臥し、喚き叫び給ふこと、理にも過ぎ給へり。若君、姫君も、声々に悶え焦がれ給へり。
「消えも入り給ひぬ。」と見えければ、若君の乳母の女房、泣く泣く慰め申しけるは、「今更驚き思し召すべきに非ず。これ皆、かねて思し召し儲けし御事なり。本三位中将殿の様に、生きながら取られて御恥をさらし、又、弓矢の先にかゝり、御命を失ひ給はば、同じ御別れと申しながら、いかばかりかは悲しく侍るべきに、高野にて御髪おろし、御戒たもちて、熊野へ参りおはしまして{*9}、故小松殿の御様に、後世の事をよく申させ給ひつゝ、臨終正念にて沈み入らせ給ひけり。願ひてもあらまほしき御事なれば、御心安くこそ思し召すべけれ。いたはしく御歎き候まじ。今は如何なる山の中、岩のはざまにても、をさなき人々を生ほし立て、御形見にも御覧ぜんとこそ思し召さめ。亡き人の御ために、心をつくし、身を苦しめさせ給ひても、何の詮かは侍るべき。泣き歎きおはしますとも、返り来り給ふべきに非ず。都を落ちて、道狭き御身となりおはしましし上は、賢くも御計らひ候ひけりとこそ思し召し候はめ。」など申しければ、女房{*10}、涙の隙より御文を披き見給ふに、
古郷にいかに松風恨むらむ沈む我が身の行くへしらずば
と読み給ひては、その文を顔にあて、胸に当てて、忍びかね給へる有様なり。様をもやつし、身をも投げ給ふべきまでに見え給ふぞ無慙なる。
「三位中将、高野に上り出家し、那智の澳に沈みぬ。」と聞こえければ、兵衛佐、宣ひけるは、「あゝ、賢かりし人の子にて、賢き計らひし給ひけり。但し、隔てなく打ち向ひ来りせば、命をば宥め申してまし。小松内府{*11}の事、おろそかならず。池尼御前の御使として、頼朝を流罪に申し宥められしは、ひとへにかの人の芳恩たりき{*12}。いかでかその
恩を忘るべきなれば、その子息達、おろそかに思はず。殊に入道出家し給ひけん上は、仔細にや及ぶべき。高野に篭りて、心静かに後世をば祈り給はで。いとほし、いとほし。」とぞ宣ひける。
平家は、屋島に返り給ひて後、「又、東国より討手二十万余騎、既に都に著きて、西国へ攻め下る。」とも聞こゆ。「九国の輩、尾形三郎を始めとして、臼杵、戸槻、松浦党等、二千余艘にて四国へ渡るべし。」とも聞こゆ。これを聞き、かれを聞くにも、心を迷はし、肝を砕く。一門の人々は、一谷にて多く討たれ給ひぬ。憑み給へる侍どもも、又残り少なく討たれにき。今は、力尽き果てて、只阿波民部大夫成良が、四国の輩を語らひたるばかりを、深く憑み給へるぞ危ふき。そも、「東西より攻むるには、おだしからん事あるまじ。」と、かねておぼすぞ悲しき。女院、二位殿を始め奉りて、女房達、さしつどひつゝ、涙にのみぞ咽び給ふ。
七月二十五日には、平家、去年の朝までは都に在りしものを、あわたゞしく去年の今日、花の栖を迷ひ出でて、草の枕に仮寝して、明けぬれば磯打つ波に袖をぬらし、くれては藻塩の煙に肝を焦がす。「つながぬ月日と云ひながら、かくて程なく廻り来にけり。」と思し召すにも、いと都の恋しさに、各、袂を絞りけり。
新帝御即位 附 義経使の宣を蒙る 並 伊勢滝野軍の事
同じき二十八日には、新帝{*13}、太政官庁にて御即位あり。大極殿、いまだ造られねば、これにして行なはる。治暦四年七月に、後三條院の御即位の例とぞ聞こえし。神武天皇より以来八十二代、神璽、宝剣なくして御即位の例、今度始めとぞ申す。
八月六日、九郎義経、左衛門尉に成りて、即ち使の宣{*14}を蒙つて、九郎判官と申しけり。これは、一谷合戦の勧賞とぞ聞こえし。
同じき十一日、九郎判官義経は、「和泉守平信兼が、伊勢国滝野と云ふ所に城郭を構へて、西海の平家に同意す。」と聞きて、軍兵を差し遣はして、これを攻む。信兼に相従ふ郎等百余人、城内に篭りて、皆甲冑を脱ぎ棄てて大肩脱ぎになり、楯の面に進み出でて散々に射ければ、義経が郎等、多く討ち捕られけり。矢種尽きにければ、城に火を放ち、信兼已下、自害して、炎の中に焼け死にけり。誠にゆゝしくぞ見えし。薏苡の讒{*15}を負ひ、遂に亡びける{*16}こそ無慙なれ。
校訂者注
1:底本は、「美作国」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
2:底本は、「都に」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
3:底本ふりがなは、「ふしがくぼ」。[木歮]は、テキストに漢字がない。
4:底本は、「誅して、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇誅して これは敵に誅せられたことをいふ。」とある。
5:底本は、「大気(おほき)なし」。
6:底本は、「平氏軍兵等」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
7:底本は、「熊(くま)ケ野(の)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
8:底本頭注に、「熊野の三山」とある。
9:底本は、「参り坐(おは)して、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
10:底本頭注に、「北の方。」とある。
11:底本頭注に、「平重盛」とある。
12:底本は、「芳恩なりき。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
13:底本頭注に、「後鳥羽天皇」とある。
14:底本は、「使(し)の宣(せん)」。底本頭注に、「検非違使の別当になるときは別に宣旨を下されて補せられ、以下の者は官符を下されたのであるが何れも皆使の宣旨を蒙るといふ」とある。
15:底本は、「薏苡(よくい)の讒(ざん)」。底本頭注に、「薏苡はずゝだまである。後漢書馬援伝に『援在(二)交趾(一)、嘗餌(二)薏苡実(一)、用能軽(レ)身、省(レ)欲以勝(二)瘴気(一)。南土薏苡実大、援欲(二)以爲(一レ)種、軍還、載(二)之一車(一)。時人以爲(二)南士珍怪(一)、権貴皆望(レ)之。及(二)卒後(一)、有(二)上書譖(レ)之者(一)、以爲前所(一)載還(一)、皆明珠文犀、帝益怒。』とあるのによる。」とある。
16:底本は、「亡びけりる」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
コメント